荘子

2013年3月17日 (日)

荘子(6)

虚心

日本の「禅」では無心ということに相通じるものがある。

虚心とは我を放棄すること、心を虚しくすること、つまりそれは無心となること。

「静なればすなわち明なり。明なれば虚なり。虚なれば為さざるなし。」

虚心とはまた、心を鏡のようにすることだともいう。

至人の心を用うるや鏡の如し。将らず逆えず、応じて蔵せず、故に能く物に勝えて傷らず。」すなわち鏡は物をありのままに映し私心をはさむことがない。去るものは去るにまかせ、未練がましく追いかけることもしなければ、来るものは来るにまかせて、ことさらに希望をもって迎えることもしない。あらゆるものをあるがままに映し出すだけで、それをいつまでもしまい込んで置くこともない。だからどんなにたくさんの物が現われても、自分が傷つくことがないという意味である。無為自然の道を体得した達人は、まさにこの鏡のように虚心になって万事を処理すべきであるといっている。‥」

(太字引用:「荘子」阿部吉雄、中国古典新書:明徳出版)

虚心になることと、執着心を無くすことは同義である。

物事が深刻になるのは、それに対する執着心があるからである。このために、物事を公平に見ることもできず、すなわち、ありのままに見ることができず、物事の変化についていけない心が、不自由な牢獄を作ってしまうのだ。

人間は相対的な判断を一切放棄し、自然本来の姿に照らし自然と合一するということが荘子の思想の根幹を成している。

また、人の自然本来の姿は体験によって把握する以外にないとしている。

そのために私たちは虚心とならねばならず、しかしそのことが如何に難しいかが理解されるだろう。

私たちは、執着しているものに対して真摯に目を向けなければならない。そのことが真に解決しない限りは、私たちはいつまでたっても自我としての存在で生まれ変わりを繰り返すことになる。

何も生まれ変わりが悪いというのではない。それが私の選択した宇宙だから、こういうことをするために生まれてきたとか、理由付けを忘れてしまった自分達の悲劇にある。もしこの世界が自己選択の結果であることを深く理解していたなら、私たちは少なくともいくばくかの自由を得ていることになる。

より自由に生きるということは、より遊び心をもって生きる生き方のひとつの指標である。

私たちは結局は、より自由の身でいたいし、また本来自由な存在だ。だからこそ、それなのに私たちの自我がその自由を縛っているという見方もあり得るだろう。

私たちは、荘子の内篇を読むことによって、この自分の「自我」に縛られている不自由さから、まず自覚していくのだ。

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2013年3月 9日 (土)

荘子(5)

自我の放棄

孔子は徳を以って人を治めよという。

私たちは、常に他人に対してどう見られているのか? 気にしているが、それは相手から自分が認めてもらいたいからであり、そのためにはどうしたらいいのかを考える。しかし、自分にできないような徳のある人間にいくらなろうとしても、結局は自分を損ねるだけである。道徳は人間の本性にそむいた理想である。

ひとは、神からそれぞれの天性を与えられている。それが善性というものだ。しかし、他人に認めてもらうためのさまざまな行為がそれを曇らせてしまう。

期待される人間になろうとするのが悪いというのではない。ひとは、それぞれに期待される分野が違っているだけだ。さまざまなひずみとは、身近な相手に期待されるおきまりのやり方で望みを叶えようとするところに無理があり、その結果、本当に自分のやりたかったこと、したいと思うことが何なのか、わからなくなってくる。

子供の頃に親の言うことを良く聞く良い子が、大人になってさえない人になるのは知れたところである。

ひとは誰かに愛されたいがためにその期待に応えようとする。しかし、相手が自分の欲望の対象としてしかみていないのなら、結局そのことが人を傷つける刃となってしまう。

荘子は、欲望や野心や優越感など一切の自我を放棄せよと言っている。

そうした自我があることが、愛を不毛なものとし、ありのままの人の純粋性を曇らせてしまうのだ。誰かに振り回されている人は、結局愛されたいからであり、その相手の自分勝手な期待に応えようとして、不毛な愛が憎しみや恨みに変わってしまうのである。

道徳を説いて、人を指導するのではなく、天真爛漫に生まれてきた子供の純粋性を生かすのは、ありのままの自分を受け入れる包容力である。それは自我を放棄した人が与えられるという、釈迦の説く「慈悲」ではないのだろうか?

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2013年3月 2日 (土)

荘子(4)

前節で、荘子の云う「聖人」とは、自然のはたらきと一体となって無限の生命活動を行なっている人としたがそこには命あるもの全てが平等であるということが説かれてもいる。

およそ生きとし生けるものに差別などあり得ない。小さな命も大きな命も等しく平等である。

これに対して、儒教思想は、天下をとって支配する者とされるもの、さらには今の階級社会にみられるように社長(会長)を頂点としたピラミッド型階層社会がスタンダードになっている。文明の開花とともに人類社会は儒教思想のように差別社会が基本である。

西洋に目を向ければ宗教戦争と言われるように、ユダヤ教の迫害、イスラム教とヒンズー教など、宗教の違いが差別を生んでいる。私たちは、お互いにわかり得ない境界線をもって他人と自分、国と地域、民族意識によって人類を区別しているが、そのことが既に不平等の温床ともなっている。

社会にあっては、荘子は現実的ではないが、その時々の社会が生きるに値するかどうか考えた時、また、その時々の社会に、例えば戦国時代に生まれたならば、なぜその時代に自分が生まれたのかを考えた時、荘子の思想はその答えのヒントを与えてくれる。

つまり、今自分の生きている意味というものを太陽系時間を離れて教えてくれるかもしれないのだ。

人間は他の動物と違って生きる意味を考える動物である。そうであるなら、その答えが出るまで、人はこの世界で旅を続ける。

意味など何も考えることもなく楽しければ良いというのもありだ。しかし、人はいつもしあわせでい続けることはできないし、むしろ不幸な状態の方が多いような気がする。そうしたとき、人はどうしても考えてしまう。「なぜ私は生きているのだろう?」と。

孔子の視点は、世の中の処世術を教える。

釈迦の視点は、人生が苦しいものだと説き、生も死も乗り越えた解脱の道を説く。

荘子の視点は、人生から解脱せずに、どんなに苦しくても、苦しいなりにそれと向き合い、それと仲良く暮らしていく視点をもたらす。

違うだろうか?

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2013年2月23日 (土)

荘子(3)

こんな文章があった。

昔から三聖酢をなむという絵がある。孔子と釈迦と老子の三人が、酢を入れたかめに指を入れてこれをなめている絵である。孔子は酢をなめてすっぱい顔をし、釈迦はにが虫をかみつぶしたような顔をし、老子は甘いといって大きな口をあいて笑っている絵である。これは儒教・仏教と道教思想の特徴を端的に表わしたもので、人生を酢にたとえているものであろう。

孔子は酢をすっぱいとするように、人生をまともに受け止めて、この世の秩序を正す道徳政治を教えた。

釈迦はこの世を苦の娑婆と考えて、解脱することを教え、老子荘子は人生を甘いと考えて笑うことを教えたという意味を寓するものである。

(太字引用:「荘子」阿部吉雄、中国古典新書:明徳出版)

ここで、荘子については人生を特に甘いとは考えず、「互いにねらいねらわれる救いがたい存在である」とか「乾上った湖の魚が互いにあぶくを吹きあいながら

生きているような息のつまる存在」とその寓話で説明した。しかし、荘子はこうした人生も心の持ち方でどうにでもなるものとしてとらえたという。ここに荘子の哲学の出発点があるのだという。

社会があるというこの現実世界をみていれば、孔子の徳を説く礼節政治を権力者が理解し、国や自治体を統治すればよいのだろう。しかし、現代はその礼節も、最小限の徳も失われつつあるのではないだろうか?

人間、かくあるべしという道徳律は、その本性からして矛盾するものである。矛盾することが、社会にひずみを与え続け、結果として住みにくい社会となる。私利私欲に走るということが、幼い人間の本性であると捉えられている。

人生は生病老死という苦しみから決して逃れることはできない。そのことが人生を虚しくさせるのである。が、だからこそ、束の間のしあわせはそれだけ輝いて見える。それこそが人生というものなんだろう。釈迦は生を生成流転のはかないものととらえ、死の視点から生をみていたようなきらいがある。というより、生死を連続した輪廻の流転の流れとして把握し、そこからみた束の間の生について私たちには考えさせるものがある。しかし、解脱するまでの間、或いは自分自身の真我に覚醒するまでは、その苦しみは絶えず続いてゆくのである。

荘子は、私たちの想像をはるかに越えている。その真我の抱きもつ夢の宇宙でさえも手玉に取っているのである。

宇宙を小脇に一切を肯定の文

「聖人というのは太陽や月とならび、宇宙をこわきにはさんで、それと唇を合わせたように一体となっているものだ。世の人々が道理に暗く、互いに他人を隷属視し尊大ぶるようなことはすべて差し置いて問題とはしない。世の常人は名利にあくせくとしておるが、聖人は無心であるので愚者のように見える。万世古今、永遠の時間の中にまじってそれと一つになり、もっぱら本来の純粋性を全うする。宇宙万物をことごとく肯定し、一切の対立や矛盾をそのまま大きく肯定する境地で万物をつつんでいるものだ。」

荘子の云う「聖人」とは、自然のはたらきと一体となって無限の生命活動を行なっているのだと理解することができる。

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2013年2月 8日 (金)

荘子(2)

絶対自由の世界

天地自然の働きと一体になった最も尊ぶべき境地であって、ここに至ると無限の力がでて何者をも恐れなくなる。

いわゆる「為すなくして為さざるなき」状態に達する。名人となの達人となることができ真人となることができる。

真人となれば過去も現在も未来もない。生も死もない。大も小もなく。尊いも賤しいもない。「天地我と並び生じ、万物我と一となる」

(太字引用:「荘子」阿部吉雄、中国古典新書:明徳出版)

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2013年2月 2日 (土)

荘子(1)

道教の流れに老荘の思想がある。

日本で発展した「禅」の背景には、仏教の哲学と老荘思想の融合がある。

よく対比される儒教思想は孔子、孟子らによって確立された。

儒教思想が、世の指導者や政治に関わる権力者の側の思想であるのに対して老荘思想は治められる側の立場の一般庶民から支持されてきた。

さらに言えば老荘思想は世に虐げられた人々の諦めの哲学、また強靭に生き抜く達観の哲学として発達した側面もあるといわれた。それは世の指導者が好む儒教が縦の階層社会を作り、人間に対して貧富や差別を生む思想なのに対して、老荘思想は天地の前に平等であるということを示してもいる。

私が荘子に何よりも魅力を感じたのは絶対自由の世界である。

絶対自由の世界、その境地とは、天地自然の働きと一体になった境地を云い、この境地に達するとその瞬間瞬間の永遠の今、現在をどんな状況においても、心楽しく快活に過ごすことが出来るというものである。

そもそも、以前に自由人とか、何者にも縛られない自由な生き方がしてみたいと思った若者の頃は、漠然とした自由に対する憧れがあった。そのとき読んだ荘子については、それほど深く感銘することもなかった。しかし、こうして、人生の半分以上を過ごしてみると、今まで周囲の環境にどれだけ流されて生きてきたかがわかってくるのである。さりとて、今まで生きてきた生活パターンをすぐには変えることも出来ず、だらだらと過ごしている始末である。

しかし、私はこの人生を終えるまでには、この絶対自由の境地について、何らかの理解をもって、多くの読者に広めたく思う。なぜならこのことは、自分の生きてきた人生に素直にあなたはYESと言うことができるか、自分はどこから来て、どこへ向かっているのかなどの問いに対する答えを含んでいると思われるのである。そのような問いを持つ私と同様の思いでいる方の目にも止まる事を願ってやまない。

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