シャンバラ

2012年7月 7日 (土)

ありのままの自分(5)

自分の貪欲を受け容れるということと、それに耽溺するということは違うのだ。

自分の貪欲さにに溺れてしまっている人は、自分自身のしていることに自覚が無い、自覚がないということは、その快楽や欲求に取りつかれているがために、それと一体になってしまっているのだということ。あなたは貪欲だ、あなたはいやらしい、それはあなた自身だ、いったんそれを受け入れたら、それを離れることが出来る。いや、それから離れようとして、受け容れる振りをするのがエゴの習性なので、自分の貪欲さを自覚し、受け容れるということはそんなに簡単ではない事がわかる。

まず、自分の置かれている現状を自覚するということ、「わたしはこういう人間だったんだ」と、それを善悪の評価を加えずに受け容れる。それからでしか、自分を変えていく事はできない。

「ありのままの自分」を生きることの必要性は、それが自分のエゴをそぎ落とし、自然の成長の流れに乗るための必然性でもあったのだ。

あなたは一体誰に、何を教えようとしているのか? 人に何かを教えることは、あなたは知らないが、私は知っているということで気分がいいし、それは自分のエゴを満足させる。その前に自分の今のありのままの姿をさらけ出すほうがよっぽど自然に近い。それを否定するあなた自身のエゴに気づかなければ一歩も前に進めていない。ただ、それに気づく過程で自分のエゴゆえの自負心はズタズタにされてしまうのだ。それが嫌で人は自分を絶えず偽り続ける。「私は少なくとも、あの人よりはましな人間だ」と‥‥。

貪欲なマインドに必要なのは、自分が貪欲だと理解し、それを受け容れることだ。無欲になろうとしてはいけない。貪欲なマインドに必要なのは、自分自身の中へ深く入り込んで、どのくらい欲が深いかを認識することだ。そこから離れるのではなく、そこにとどまる。理想‥‥相容れない理想、反対の理想に向かわずに、現在の中にとどまる。貪欲の中に入り、貪欲を知り、貪欲を理解し、絶対にそこから逃れようとしない。もし自分の貪欲とともにとどまれたら、いろいろなことが起こる。自分の貪欲、自分のセックス、自分の怒りとともにとどまれたら、あなたのエゴは溶解する。

太字:内なる宇宙の発見(和尚講和録:タントラ秘法の書①)

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2012年6月30日 (土)

ありのままの自分(4)

オショー曰く

自然を拒絶すること、自分のあるがままを拒絶すること、自分のタタータ(にょ性)を拒絶することはエゴを創り出す。あるがままを受け容れればエゴはなくなる。もし受け容れなければ、もし拒絶するならば、もしそれに対立する理想を創り出すならば、そこにエゴが現れる。理想とはエゴを創る材料だ。

自分の中にある、お金に対する執着心が人からだまされる結果を生む。権力など関係ないと言った人が、同僚が上司になったことに羨望のまなざしを向けたりして、毎日苦しい思いをする。今日自慰をしてしまったから、明日からは禁欲しよう、僕はこんなことをする人間ではないんだ、と自分に言い聞かせる。

「あるがまま」とは、その時々の自分の欲求に対して、否定するのではなく、そのまま受け容れるということなのか。自分のその動物的な貪欲さを、たとえそれが自分でいやだと思っていても、それが今の自分であるのだ。そうした自分を否定して、本当は僕はこんな素晴らしい人間なんだ、と理想を掲げる。

オショーは今の自分を否定するとエゴに捉われ、自分のありのままに生きる事はできないという。そのことが、動物として、人としての、自然な成長を妨げてしまうのだ。

知的な人がいて、「あの人がなぜあんなことを?」といったニュースをみかけると、その人は自分の自然な欲求を否定し、せき止めてきた人なのかなと思う。もし、本来の自分はもっとましな人間なのだと思っているのだとしたら、その人の成長は停滞する。だから僕は本当は貪欲で好き嫌いが激しくていやらしい人間だ、と思っているほうがいい。となると、今度は罪悪感に苦しんでしまう。「ああ、僕はなんてダメな人間なんだろう」じゃぁどうすればいいんだろう。

受け容れるという言葉の意味するところは、自分の貪欲さも動物的な側面も、それが自分の心の中にあるものとして認めるということなのだろう。そしてそれを善悪の価値観で評価しない。もし、それをやってしまうと、結果偽りの自分を、理想の自分を本来の自分としてエゴは創り出してしまうのだ。

しかし、では、その時の貪欲のままに生き、快楽や物質的な欲望、権力欲などにとりつかれていればいいとでもいうのだろうか? それが疑問だった。

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2012年6月23日 (土)

ありのままの自分(3)

和尚の云うところの「ありのまま」とはどんなだろう

?

それは人間の心の内面にも存在する「ひとりでに生まれて育つ無為自然の規律」ということになる。

和尚は老子の言葉を借りて秩序は世界の中に本来備わっている―― いつでもそこにある。秩序を創り出そうとすると、無秩序を創り出してしまう。きっと彼はこの私のことを、無秩序を創り出していると思っているだろう。しかし実際には、彼のほうが無秩序を創り出しているのだ。私はあらゆる強制的な秩序に反対する。私の尊重する物は、ひとりでに生まれて育つ無為自然の規律だ。他人がそれを強制する必要は無い。」

政治の世界が乱れている。といっても今に始まったことではない。そもそも一億以上もの国を統治することなどどだい無理なのではないか。なぜなら、色々な考え方、利害関係を持ち、さまざまな立場の人間たちの集団をまとめようとすると、皆が平等に経済活動できるような法律などあり得ない。だれかが得をし、誰かが我慢を強いられるという社会の仕組みはこの先もずっと続いていくのだろう。

いま、求められているのは、個々にとっての本来の豊かさ、物質的なものではなく、一人一人にとっての豊かさの質が議論されなければならないはずだ。誰も国民の豊かさの統治などできるはずがない。そして、そのことがわからない限り、我々国民は、いつまでたっても、国の政策の一つ一つに依存し続け、希望と失望とをくり返すはめになってしまう‥‥。

和尚は続く

「タントラでは物事をこのように見る。タントラにとって無垢は無為自然、サハジャータだ―― つまり、強制されることなく自分自身であること。シンプルに自分自身であること、木のように成長することだ。‥‥ 内側の法則で充分であり、そのほかに法則はいらない。もしほかの法則が必要なら、それはあなたが内側の法則を知らないということであり、その法則との接触を失っているということだ。」

私たちはこの内側の法則との接触を見失っているために、社会は混迷を続けている。

本来のわたしたちは、この内側の法則にしたがう存在であり、それは絶対的な善であり、それこそが「ありのままの自分」の姿であり、そこに人間に、動植物に対する絶対の信頼があるのかもしれない。

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2012年6月16日 (土)

ありのままの自分(2)

著者はいう

‥あなたは自分が自然に存在することを知る。自分のありのままの姿を知る。だから自分自身を信頼することもできるのだ。

‥あなたはすべてが始まる最初からあなた自身である。

そうは言っても、現実の自分はエゴに囚われ、動物としての本能に囚われ、六道に囚われ続けている。だから、精神の道の出発点は、そこにある理想やイデオロギーではない。そこにある期待や指導者、独裁者への依存ではない。現状の自分自身の把握なのだ。そこで問題になる一番のものは、「自己欺瞞」なのだ。

「私はこれだけのことをしたから、他の人より優れている」という自己欺瞞である。

そもそも、生き物に優劣はない、皆ひとしく輝いている、その輝きが鈍くなっているかどうかだけなのだ。人間の意識に一体どれだけの差があるのだというのか?

自分の今していることの現状を、言ってることと実際に行なっていることとのギャップを意識したほうが良い。そのギャップが埋れば埋るほど、人はより豊かになっていく。

こうあろうとする人間にならなくていい。今の自分の「おこなっている」ことの意味を、理解することから始めることが、意識の深化へ向かう道であることがわかる。

‥だから、あるがままの自分とは何か、自分はなぜ探し求めるのか、ということから始めなくてはならない。

ひとは誰しもエゴを抱えて生きている。だからこそ、こうして人間界にも生まれてきている。そのことを恥じるのではなく、エゴの根底にあるもの、それと距離を置いた視点を見いだすことが、私たちをより開かれた瞑想空間へと導いてくれているのだと今は確信している。

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2012年6月 9日 (土)

ありのままの自分(1)

意識の深化は、ありのままの自分を知ることから始まる、といわれる。

そもそも「ありのままの自分」とは何なのだろう?

「シャンバラ 勇者への道」からだけでは、「ありのままの自分」に対する説明が十分になされていないように感じる。

著者は、その著「タントラへの道:めるくまーる社刊」で開かれた道についてこう述べている。

開かれた道へのアプローチは自分をさらけ出す経験の中に含まれている。生に対して自己を開くこと、ありのままであること、自分の肯定的な面と否定的な面のすべてを精神の友の前にさし出し、ともにその道を極めることにある。

ここで、「ありのままの自分」とはその時の欲望を抱えた自我そのものであり、「精神の友」とは、本来の自分、純粋無垢な経験以前の慈悲に満ち溢れた自己とでもいうことができる。

著者は云う

私たちはしがみつくことのできる確かなものを絶えず探し求めている

「精神の友」との一瞬の出会いだとしても、その体験を価値付ける自分は大したものだ、と言い聞かせんばかりになる。自分は絶えず安心と、道に従って突き進んでいるという自負と、その自己証明を他人に求め続ける。

そのことが、人を新興宗教や、既成宗教団体への強い勧誘となって表れる。

「私がこの宗教で救われたから、あなたもぜひ入ってください」

自分の体験に酔っている人は、他の誰かも誘うことでより自分の足場が確かなことを確認したいのだ。そうまでして自己証明を必要とする宗派とは一体何なのだろう?

そこには寛容さがない。勧誘される人の人生の現実を捉えずに、ただ自分の知りうる観念の世界に引きずり込もうとする野心がある。

そこには開放された空間の余地は残されてはいない。

著者はいう。

慈悲は、達成とは無縁なものだ。本当の慈悲をもつ人には、自分が人に対して寛大なのか自分自身に対して寛大なのか確かではない。なぜなら、慈悲とは「自分のために」とか「彼らのために」という方向をもたないひとつのいわば環境としてそこにある寛大さだからだ。それは悦びで満たされている。おのずと存在する悦び、信頼を意味する悦び、そして測り知れない富と豊かさを含む悦びで満たされている。 慈悲とは豊かさの究極の状態だと言うこともできる。

‥‥

つまり、人は根本的に豊かに生まれついているのであって、豊かにならねばならないのではないということだ。

著者の引用から思うことは、「ありのままの自分」には二つの意味合いがあって、ひとつは「良いも悪いも含めた現状の自分」。もうひとつは「慈悲を携えて生まれてきた豊かで悦びに満ちた自分」ということだ。

本来ひとは、この後者の豊かに生まれついた自分、すなわち「個々の生き物の本質そのまま」ということになる。

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2012年5月26日 (土)

悲しみの純粋なハート(2)

世界とじかに向き合えるためには、自分自身が正直に自分にも相手にも接することができ、双方への基本的な善良さへの絶対の信頼がそこにはある。人に隠れて秘密を持ったとしよう。それは他者に知られると、自分の人格が疑われることを当人は恐れているのだ。実は、そうした恐れは、相手に対していまの自分以上に良くみせようとするところからくる背伸びにすぎない。そうした背伸びが、ありのままの自分の姿を受け入れることを拒み、相手にもなによりも自分に対しても偽りの自分の姿で生きようとすることになる。これがすなわち偽りの自己として、無駄に生き続けることにつながる。成長とは、自分のなかの厭だと思っている部分と向き合い、それを受け入れることから始まる。その意味で今のありのままの自分を受け入れないということは、そういう現在の自分の本音を恐れ、他人の評価を恐れることになる。その恐れとは、自分自身が取るに足らない存在、罪深い存在だと、潜在意識に焼き付けた結果なのではないかと思う。

基本的な善良さとは、個人のなかで自我が成長する以前の、生物学的な本能も含めた自然の法則に乗っ取った健全さを云うのではないだろうか? それは自分も含めた生き物に対する絶対の信頼性とでもいう見地がそこにあるように思う。

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2012年5月19日 (土)

悲しみの純粋なハート(1)

人間の中にもある「基本的な善良さ」とは、それが人の頭で考える善悪の基準を超えている。それは、良いとか悪いとかを判断する以前に、無条件で存在する。

「基本的な善良さ」が良いものであるのは、それが無条件のもの、根元的なものであるからだ。大空と大地がそこにあるのと同じように、それはいつもそこにある。

私たちのこの体も自然の法則にのって働いている。心も健全に世界を認識することができる。太陽や空がいつもそこにあるように、私たちの醒めた意識も、頭で考えるようになる以前に存在している。

一歩進んで、基本的な善良さとは何か?

と知りたくもなる。それは自分の所有物ではないけれども、人間が持つに値するものだという。それは自分の中のありのままの存在を許すということであり、それが自分自身への純粋な共感や思いやりを発達させることにつながるのだという。

自分の中の良さを発見する試みのなかで、また自分の精神状態と真正面から向き合うことによって、目覚めたハートを目覚めさせることができる。ハートを目覚めさせたら、自分の中の空間が空っぽであることに気づくようになる。そしてむき出しのハートで世界を見るとき、とても敏感になり、新鮮な感じがする。その空っぽのハートが満たされているという感じから「悲しみの純粋なハート」が生まれてくる。著者)

私は「この悲しみの純粋なハート」というものがよくわからないでいるが、この優しく悲しいハートの経験が、勇者にとって重要な恐れのなさを獲得するのにつながっているのだと著者はいう。

ほんとうの恐れのなさは優しさから生まれてくる。それは世界があなたのハートに、むき出しの美しいハートに触れるのを許すことから始まる。あなたは恥ずかしがったりすることなく、自分から進んでハートを開け放って、世界とじかに向き合う。(著者)

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2012年5月 5日 (土)

恐れのなさ

私たちは、数多くの恐れをみないで済むように、毎日せわしく動き回っている。そのほとんどの行動は、実は恐れを感じないですむための試みなのかもしれない。

一体何に対して、恐れているのだろう?

一番恐れていることは、身近な人の死、そして自分の死ということ。

自分の死という現実はいずれやってくるのだが、健康上の理由で、私たちは絶えず自分が健康であることに注意を向けて、死が遠くにあることを願っている。この有限な人生のせいで、人々は臆病になり、死について考えるのを避けようとしている。

もし、このような潜在的な死についての恐れが私たちの人生の背景にあるのだとしたら、そのせいで、人生の半分以上は台無しにしているような気がする。

逆に死んでいる自分からみた人生という風に考えるのであれば、もっと生というものを楽しめるのではないのだろうか?

それはなにも生まれ変わりというものを持ち出しているわけではなく、死後も続くトータルな覚醒した意識状態を想定して云うのである。個人としての人生はそこで終わったとしても、それまでに生きて感動したことの数々が、新しく生まれるであろう人間の意識に引き継がれるという手がかりが欲しいのである。

恐れのなさは自分の人生の勇者になるのに必要な資質であるようだ。

勇者はハートに悲しみであふれ、そのことが彼をどこまでも優しくて素直にさせる。

勇者の優しさは情熱を秘めたものになってゆく

身まわりで起こっていることにハートを開かずにはいられない。

ハートを開くということが、悲しみのハートを成長させ、まわりで起きていることに対する深い悲しみと、優しさが表れてくるという。

ほんとうの恐れのなさは、恐れが少ないことではなくて、恐れを超えることだ。‥‥

恐れを超えることは、私たちが自分の恐れー不安、心配、悩み、落ち着きのなさを吟味することから始まる。自分の恐れの中身を見たときに、その見かけの下をのぞき込んだときに、私たちの目に入るのは悲しみだ。不安の下には悲しみが潜んでいる。

不安の下には悲しみが潜んでいる。

恐れを乗り越えるには、不安に潜む悲しみを感じるまでハートを敏感にさせるということなのだろう。

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2012年4月28日 (土)

秘密と恐れ(2)

秘密を持つということは、人間の意識が自分の中で統合されていないということだと思う。

そして、統合されていない自己の部分が絶えず顔を出したがり、コントロール不能になっているということでもある。「思わず‥してしまった」とか、日頃の自分では考えられないような幼稚な行動にでたりする。そしてそんな自分を否定し、他人に隠そうとする。秘密の部分は明らかにされる必要がある。それが受け入れられ、認識されれば、それは解放される。自分で否定すれば否定するほど、その秘密に縛られるようになる。それは今のありのままの自分と向き合うのが恐いからではないのか? 

相手に知られるのが恐いという自分の秘密、そういうものは極力なくしていかなければならない。なぜなら、そういう秘密を持つことが対人関係における不安や恐れにつながっているから。秘密の多くは自分の弱い部分、恥ずかしい部分である。しかし、そんな自分を受け入れ、認めていくことから、人は変われる。その秘密をつくる根元にある欲求にこころを向けたら、それが解放され、表現されたがっているのが理解される。そして、一旦理解したら、いったんそのはけ口を見出して、膿をだせたらそのままだすがままにしておけばいい。しばらくすると、その欲求に向けられたエネルギーが別の方向へ流れていくのだろう。これが人間の奥底にある自然な善良さというものなのかもしれない。

だとしたら、日頃の私たちは、対人の目ばかりを恐れて、日頃の行動をあまりに制限してないか?  こんなことをしたら嫌われてしまう、こんなことを思う事自体が、人間としてよくないことだ、と。そう自分に言い聞かせている自我の欲求と、自然の本能から生じてくる欲求が交錯して、次第に自分のやってみたいことと、すべきことが抑えられてしまう。抑えられた本能は、さらに形を変えて、陰湿になる。陰湿になってしまうからそれを人目に示す事ははばかられる。そうして次第に自分自身の本来の自然な姿からは遠ざかっていくのである。 

私たちは、もっと自分自身を信頼していい存在なのではないだろうか

?

人目を気にする事で、他人と行動を合わせる事で、平均的な生活になじんでゆくことで、次第に心の底の善良さは見失われてしまう。

私たちは、自分のやりたくて出来なかったことへの親や上司、対人に対する恨みを抱いて大人になってはいけない。そうなったら、今度は自分が子供や部下、幼い仲間や弱い老人に対して虐待をしてしまいかねない。

人間にある自然な善良さの発露は、他人から強要された生き方にあるのではない。生きていく基本となるものは当然両親や保護者から学ばなければならないが、それ以上に生き方までをも押しつけてしまう大人たちのどんなに多い事か

?

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2012年4月21日 (土)

秘密と恐れ(1)

秘密を持ちえるのは個人としての自我を持つ者の特権である。しかし、自我ゆえに持つ秘密とは何なのだろう?

近しい人に言えないことが、あかの他人に言えるということ、そこに持つ秘密の特性が伺われる。

秘密を持つということは、自分をいまある自分以上に見せたいとか、恥ずかしい自分の姿を隠したいという意図がある。そもそも秘密を持つということが自我の働きそのものなのであるから、それはかくあるべき自分と、いまの、ありのままの自分とが分裂しているということになる。それならば、かくあるべき自分とは何なのだろう?

実は、かくあるべき自分の姿も、他人に見せたい自分の姿か、自分自身で考え、こしらえた理想の自分ということになる。

いまのありのままの自分は、動物的な自分の現在の姿であり、かくありたい理想の自分の姿は自我の思考の産物である。秘密が発生するのは、このありのままの自分を否定し、かくあろうとする自分を他の人たちに示したいがために他ならない。

ここで、自分が失敗した過ちに対して、それを隠そうとする場合とは厳密に異なることを言っておきたい。しかし、それについても自我がおびやかされるという状況のもとで、隠したり取り繕ったりして秘密を持つということになる。

かくいう私も秘密がばれたりして大恥をかいたりする。そしてこの恥をかくということ自体が、自分をもっと良くみせたいという自我の願望の現われに他ならない。

自我のすることは、自分をいまある以上に評価したり、逆に「自分はあの人に比べて劣っていて、駄目なんだ」とか、ちょっとした事ができない自分を責めたりして必要以上に自分を低く評価したりする。要するに自我の評価は正確に行われたためしがないということなのかもしれない。

ではなぜそうなってしまうのかというと、それは自我の評価が発生するのはいつも対人関係の中であるのだということにヒントがありそうだ。

対人関係において、人は比較したがる傾向にある。なぜ人と人をある基準を持って比較しなければならないのだろう。作業するのが平均よりも遅いとか早いとかで職場評価されるのは、作業効率向上の上で仕方がないとしても、多くは人と人との間で人物評価を単純に決めてしまう傾向である。

さて、秘密を持つということは、それがいつかはばれてしまう可能性をはらんでいる。化けの皮がはがれたとかいうが、そのはがれた状態と如何に自分自身が向き合うか、向き合えるかということが重要である。もし、人が自分のいまある状態についての正確な認識を持たなかったら、ひとはこの先もずっと人格分裂したままになっているだろう。自己分裂しているのが人間ではあるが、現在の自分のありのままの姿を認識せず、対人関係に応じていくつもの仮面を無意識のうちに架け替えていてはどれが本当の今の自分なのかわからなくなってくる。それがずっと続くと自分で気づかないうちに嘘をついたり、うそをつくのが当たり前になっていき、一体どれがいまの自分の正直な気持ちなのかわからなくなってくる。

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