シャンバラ

2012年5月26日 (土)

悲しみの純粋なハート(2)

世界とじかに向き合えるためには、自分自身が正直に自分にも相手にも接することができ、双方への基本的な善良さへの絶対の信頼がそこにはある。人に隠れて秘密を持ったとしよう。それは他者に知られると、自分の人格が疑われることを当人は恐れているのだ。実は、そうした恐れは、相手に対していまの自分以上に良くみせようとするところからくる背伸びにすぎない。そうした背伸びが、ありのままの自分の姿を受け入れることを拒み、相手にもなによりも自分に対しても偽りの自分の姿で生きようとすることになる。これがすなわち偽りの自己として、無駄に生き続けることにつながる。成長とは、自分のなかの厭だと思っている部分と向き合い、それを受け入れることから始まる。その意味で今のありのままの自分を受け入れないということは、そういう現在の自分の本音を恐れ、他人の評価を恐れることになる。その恐れとは、自分自身が取るに足らない存在、罪深い存在だと、潜在意識に焼き付けた結果なのではないかと思う。

基本的な善良さとは、個人のなかで自我が成長する以前の、生物学的な本能も含めた自然の法則に乗っ取った健全さを云うのではないだろうか? それは自分も含めた生き物に対する絶対の信頼性とでもいう見地がそこにあるように思う。

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2012年5月19日 (土)

悲しみの純粋なハート(1)

人間の中にもある「基本的な善良さ」とは、それが人の頭で考える善悪の基準を超えている。それは、良いとか悪いとかを判断する以前に、無条件で存在する。

「基本的な善良さ」が良いものであるのは、それが無条件のもの、根元的なものであるからだ。大空と大地がそこにあるのと同じように、それはいつもそこにある。

私たちのこの体も自然の法則にのって働いている。心も健全に世界を認識することができる。太陽や空がいつもそこにあるように、私たちの醒めた意識も、頭で考えるようになる以前に存在している。

一歩進んで、基本的な善良さとは何か?

と知りたくもなる。それは自分の所有物ではないけれども、人間が持つに値するものだという。それは自分の中のありのままの存在を許すということであり、それが自分自身への純粋な共感や思いやりを発達させることにつながるのだという。

自分の中の良さを発見する試みのなかで、また自分の精神状態と真正面から向き合うことによって、目覚めたハートを目覚めさせることができる。ハートを目覚めさせたら、自分の中の空間が空っぽであることに気づくようになる。そしてむき出しのハートで世界を見るとき、とても敏感になり、新鮮な感じがする。その空っぽのハートが満たされているという感じから「悲しみの純粋なハート」が生まれてくる。著者)

私は「この悲しみの純粋なハート」というものがよくわからないでいるが、この優しく悲しいハートの経験が、勇者にとって重要な恐れのなさを獲得するのにつながっているのだと著者はいう。

ほんとうの恐れのなさは優しさから生まれてくる。それは世界があなたのハートに、むき出しの美しいハートに触れるのを許すことから始まる。あなたは恥ずかしがったりすることなく、自分から進んでハートを開け放って、世界とじかに向き合う。(著者)

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2012年5月 5日 (土)

恐れのなさ

私たちは、数多くの恐れをみないで済むように、毎日せわしく動き回っている。そのほとんどの行動は、実は恐れを感じないですむための試みなのかもしれない。

一体何に対して、恐れているのだろう?

一番恐れていることは、身近な人の死、そして自分の死ということ。

自分の死という現実はいずれやってくるのだが、健康上の理由で、私たちは絶えず自分が健康であることに注意を向けて、死が遠くにあることを願っている。この有限な人生のせいで、人々は臆病になり、死について考えるのを避けようとしている。

もし、このような潜在的な死についての恐れが私たちの人生の背景にあるのだとしたら、そのせいで、人生の半分以上は台無しにしているような気がする。

逆に死んでいる自分からみた人生という風に考えるのであれば、もっと生というものを楽しめるのではないのだろうか?

それはなにも生まれ変わりというものを持ち出しているわけではなく、死後も続くトータルな覚醒した意識状態を想定して云うのである。個人としての人生はそこで終わったとしても、それまでに生きて感動したことの数々が、新しく生まれるであろう人間の意識に引き継がれるという手がかりが欲しいのである。

恐れのなさは自分の人生の勇者になるのに必要な資質であるようだ。

勇者はハートに悲しみであふれ、そのことが彼をどこまでも優しくて素直にさせる。

勇者の優しさは情熱を秘めたものになってゆく

身まわりで起こっていることにハートを開かずにはいられない。

ハートを開くということが、悲しみのハートを成長させ、まわりで起きていることに対する深い悲しみと、優しさが表れてくるという。

ほんとうの恐れのなさは、恐れが少ないことではなくて、恐れを超えることだ。‥‥

恐れを超えることは、私たちが自分の恐れー不安、心配、悩み、落ち着きのなさを吟味することから始まる。自分の恐れの中身を見たときに、その見かけの下をのぞき込んだときに、私たちの目に入るのは悲しみだ。不安の下には悲しみが潜んでいる。

不安の下には悲しみが潜んでいる。

恐れを乗り越えるには、不安に潜む悲しみを感じるまでハートを敏感にさせるということなのだろう。

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2012年4月28日 (土)

秘密と恐れ(2)

秘密を持つということは、人間の意識が自分の中で統合されていないということだと思う。

そして、統合されていない自己の部分が絶えず顔を出したがり、コントロール不能になっているということでもある。「思わず‥してしまった」とか、日頃の自分では考えられないような幼稚な行動にでたりする。そしてそんな自分を否定し、他人に隠そうとする。秘密の部分は明らかにされる必要がある。それが受け入れられ、認識されれば、それは解放される。自分で否定すれば否定するほど、その秘密に縛られるようになる。それは今のありのままの自分と向き合うのが恐いからではないのか? 

相手に知られるのが恐いという自分の秘密、そういうものは極力なくしていかなければならない。なぜなら、そういう秘密を持つことが対人関係における不安や恐れにつながっているから。秘密の多くは自分の弱い部分、恥ずかしい部分である。しかし、そんな自分を受け入れ、認めていくことから、人は変われる。その秘密をつくる根元にある欲求にこころを向けたら、それが解放され、表現されたがっているのが理解される。そして、一旦理解したら、いったんそのはけ口を見出して、膿をだせたらそのままだすがままにしておけばいい。しばらくすると、その欲求に向けられたエネルギーが別の方向へ流れていくのだろう。これが人間の奥底にある自然な善良さというものなのかもしれない。

だとしたら、日頃の私たちは、対人の目ばかりを恐れて、日頃の行動をあまりに制限してないか?  こんなことをしたら嫌われてしまう、こんなことを思う事自体が、人間としてよくないことだ、と。そう自分に言い聞かせている自我の欲求と、自然の本能から生じてくる欲求が交錯して、次第に自分のやってみたいことと、すべきことが抑えられてしまう。抑えられた本能は、さらに形を変えて、陰湿になる。陰湿になってしまうからそれを人目に示す事ははばかられる。そうして次第に自分自身の本来の自然な姿からは遠ざかっていくのである。 

私たちは、もっと自分自身を信頼していい存在なのではないだろうか

?

人目を気にする事で、他人と行動を合わせる事で、平均的な生活になじんでゆくことで、次第に心の底の善良さは見失われてしまう。

私たちは、自分のやりたくて出来なかったことへの親や上司、対人に対する恨みを抱いて大人になってはいけない。そうなったら、今度は自分が子供や部下、幼い仲間や弱い老人に対して虐待をしてしまいかねない。

人間にある自然な善良さの発露は、他人から強要された生き方にあるのではない。生きていく基本となるものは当然両親や保護者から学ばなければならないが、それ以上に生き方までをも押しつけてしまう大人たちのどんなに多い事か

?

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2012年4月21日 (土)

秘密と恐れ(1)

秘密を持ちえるのは個人としての自我を持つ者の特権である。しかし、自我ゆえに持つ秘密とは何なのだろう?

近しい人に言えないことが、あかの他人に言えるということ、そこに持つ秘密の特性が伺われる。

秘密を持つということは、自分をいまある自分以上に見せたいとか、恥ずかしい自分の姿を隠したいという意図がある。そもそも秘密を持つということが自我の働きそのものなのであるから、それはかくあるべき自分と、いまの、ありのままの自分とが分裂しているということになる。それならば、かくあるべき自分とは何なのだろう?

実は、かくあるべき自分の姿も、他人に見せたい自分の姿か、自分自身で考え、こしらえた理想の自分ということになる。

いまのありのままの自分は、動物的な自分の現在の姿であり、かくありたい理想の自分の姿は自我の思考の産物である。秘密が発生するのは、このありのままの自分を否定し、かくあろうとする自分を他の人たちに示したいがために他ならない。

ここで、自分が失敗した過ちに対して、それを隠そうとする場合とは厳密に異なることを言っておきたい。しかし、それについても自我がおびやかされるという状況のもとで、隠したり取り繕ったりして秘密を持つということになる。

かくいう私も秘密がばれたりして大恥をかいたりする。そしてこの恥をかくということ自体が、自分をもっと良くみせたいという自我の願望の現われに他ならない。

自我のすることは、自分をいまある以上に評価したり、逆に「自分はあの人に比べて劣っていて、駄目なんだ」とか、ちょっとした事ができない自分を責めたりして必要以上に自分を低く評価したりする。要するに自我の評価は正確に行われたためしがないということなのかもしれない。

ではなぜそうなってしまうのかというと、それは自我の評価が発生するのはいつも対人関係の中であるのだということにヒントがありそうだ。

対人関係において、人は比較したがる傾向にある。なぜ人と人をある基準を持って比較しなければならないのだろう。作業するのが平均よりも遅いとか早いとかで職場評価されるのは、作業効率向上の上で仕方がないとしても、多くは人と人との間で人物評価を単純に決めてしまう傾向である。

さて、秘密を持つということは、それがいつかはばれてしまう可能性をはらんでいる。化けの皮がはがれたとかいうが、そのはがれた状態と如何に自分自身が向き合うか、向き合えるかということが重要である。もし、人が自分のいまある状態についての正確な認識を持たなかったら、ひとはこの先もずっと人格分裂したままになっているだろう。自己分裂しているのが人間ではあるが、現在の自分のありのままの姿を認識せず、対人関係に応じていくつもの仮面を無意識のうちに架け替えていてはどれが本当の今の自分なのかわからなくなってくる。それがずっと続くと自分で気づかないうちに嘘をついたり、うそをつくのが当たり前になっていき、一体どれがいまの自分の正直な気持ちなのかわからなくなってくる。

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2012年3月 3日 (土)

基本的な善良さ(4)

本当のやさしさを得ることが、基本的な善良さの資質と結びついている。

疑いの不在とは、ハートへの信頼、自分自身への信頼に他ならない。疑いがないとは、自分自身と深く結びついていて、頭と体が共調して働くのを経験しているということだ。頭と体が共調するとき、あなたには疑いがない。

それは世界の知覚の仕方に影響する。頭とは自分の思考、体とは直感や感覚のことだと思う。世界を知覚するとき、この頭で考えた、つまり思考のフィルターを通してみるか、言葉をはさまずに、五感で直接に感じ取るかということ。私たちは、世界を決してありのままの存在としてみようとしない。それは思考を介して世界を見ているために、五感で直接みるリアルな世界を見ていないということだ。

和尚は

人は見えるようになればなるほど、ますます考えなくなる。

といっている。私たちの日常は考えることでいっぱいだ。そのために、自分の体の要求に答えるよりも考えた結果を大事にし、頭と体のバランスが崩れ、自分のこころにまで影響を及ぼしてしまっている。

世界を、言葉を介さずに、五感をフルに使って見るとき、世界はとても鮮やかに、新鮮に目に映る。そしてそうすることで、人は頭と体を共に働かせることができる。

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2012年2月25日 (土)

基本的な善良さ(3)

基本的な善良さはいつも優しさと結びついた形で表れてくる。この優しさは弱よわしい、生ぬるい、温室育ちの優しさではなくて、毅然とした、熱意にあふれた、覇気のある優しさだ。その意味では、優しさは疑いの不在、または疑いのなさの経験から生まれてくると言ってもよい。(シャンバラ、勇者の道、著者)

外面的にいつも優しく、徳にあふれたように見える人がいる。しかし、彼がいったん家庭に入ると、妻や夫に対して暴君のように支配し、勝手きままに物事をいいつけたり、小言を言ったりする、そういう人たちは優しさの偽善者だと言えるだろう。彼らに必要なのは心の浄化である。心に溜まった憎しみや恨み、対面で他人に対して言えなかったことが溜まっているために、それはどこかで吐き出さなければならない。

和尚は云う

いわゆる「いい人」たちというのは、実際は死んだも同然の人たちだ。だから他人が何と思っているかということにかかずらわないこと。他人が抱いているあなたのイメージなど気にしないこと。

気にすればきにするほど、他者向けの仮面をかぶり続けなければならなくなり、しまいには一体どれが本当の今の自分の顔なのかわからなくなってしまう。今の自分の現実の顔を認識することから、そこからでしか、人の成長は始めることができない。

浄化から始めるがいい。そうすれば、すばらしいものがあなたのなかで花開く。それはひとつちがった質のもの、異なった美しさ、まったく異なったものになる。それは本物だ。

(瞑想:バグワンシュリラジニーシ めるくまーる社から)

自分の中に、偽りの要素をため込んではいけないのだとわかる。自分に対して誠実であることが、自分自身への絶対の信頼を得るための前提なのだ。思っていることと、相手に話していることが食い違うということは、相手のしゃべる内容についても絶えず、本当にそうだろうか? と疑問を抱かざるを得ない。だからといってあなたは相手と同様、自己欺瞞に陥り続ければ、決して本当の優しい人などになれないだろう。

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2012年2月18日 (土)

基本的な善良さ(2)

現代の教育制度は、多くの人に平等に教育を受ける機会を与えられていながら、個人が自分で考え、自分で行動するような教育のされ方が希薄であったような気がしてならない。

いくらみんなが平等にと思っていても、個人の資質に個性があり、得て不得手があるという事実をかなり無視してきたのではないだろうか?

その結果、私はあの人に比べてダメな人間だとか、できないことに対する劣等感を植え付け、かえってできることに対する自信すらも失ってしまうことにつながっている。

私たちは教育を平等に受ける権利ばかりを望んだ結果、個性を伸ばす教育がないがしろにされてきた現実にもっと目を向ける必要がある。

本当は僕は、こういうことがしたかった、そのやりたかったことを親は拒否し、拒否されることで、親の言うことに従う良い子になる。その良い子が、自分自身をそこね、自分を傷つけてきたというのなら、そういう良い子が、社会に出て、他人のために役立つことが果たしてできるのだろうか?

現代教育の流れは、親も子も、自分に優しくなっていないばかりか、それを支える社会が自分をそこねて生きることを強要しているような社会である。物質的にいくら豊かになろうとも、これでは、心の負の連鎖が世代を渡って続いていくばかりである。

自分自身への優しさを育んだら、自分が抱える問題と可能性の両方を正確に見抜くことができる。自分の問題を無視しよう、可能性を誇張しようなどとは思わなくなる。このような自分自身への優しさやその良さを認める気持ちはとても大事なものだ。それが自分自身や他人を助ける基盤になるからだ。

人はまず、自分自身を振り返り、自身に対して正直にそして、優しくあるべきだ。それ以前では決して他者に対して真に優しく接することなどできないのではないだろうか?

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2012年2月11日 (土)

基本的な善良さ(1)

人々が自分自身の真価を認めないために、この世界には非常に多くの混乱が起こってくる。自分自身への思いやりや優しさを育んでいないために、彼らは自分自身のなかで穏やかさや安らぎを経験することができず、そのために他人にも不調和な混乱したイメージを投影することになる。

自分が生きているのが当たり前とか、生きるのが重く苦しくて、思うようにならない人生に絶望して自殺しようとすることがすなわち自分自身を粗末に扱っていることに他ならない。ではなぜ、私たちは、自分に対してこうも優しくなれないのだろうか?

著者は、生きることの本質に「自分の人生を高めるという個人的な責任を引き受けなければならない」と述べている。

人はどんな生き方をしようと、望んでみてもこれだけはのがれることのできない真理なのだと思う。そこには著者の人間に対する絶対的な信頼があり、「良心」がある。これを基本的な善良さという言葉で表している。

それでは自分のために優しくなるとはどういうことなのだろう?

相手にない資質を自分自身に求めたり、逆に自分ができることを相手にも強要したりすること。西洋の宗教に代表されるように、「人間は生まれながらにして、罪人である」というレッテルを貼り人生の希望をあの世に求めたり、償いのための人生にしてしまうことが、むしろ自分を痛めつけ、そこなうことになってしまう。その時々の自分自身の正直な気持ちに反して、社会的に良識ある行動をとったとしても、自分自身は納得していないために、そのことが後で他人を傷つけてしまうような陰湿さに変質してしまうことが度々ある。

自分自身の正直な気持ちでいることが、何も自分勝手にふるまうことではない。その時々に自分の正直な気持ちの表現ができなかったことが、自分をそこね、それが後々に他人を傷つける刃となってしまうのだ。その意味でも、親の子供に対する教育の仕方が重要になってくる。そして、その親も、自分の所属する地域社会の慣習や様式に多大な影響を受けている。

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2012年2月 4日 (土)

シャンバラの理念(4)

シャンバラの教えは、世界の人々を別の理念へと改宗させようとするものではない。シャンバラの理念の前提とはこうだー。

他人のために目覚めた社会を築こうとするなら、まず自分のなかに世界へ差し出すに値するものを見つけなければならない。だから、何はともあれ、私たちは自分の経験の中身を十分に吟味して、そこに自分や他人がめいめいの存在を高めるための助けとなるような、価値あるものが含まれているかどうか確かめてみなければならない。

まず、シャンバラの教えとは、共に目覚めた社会を築くことをめざしている。

次に著者は自分たちひとり一人のなかに、その経験のなかに良さがあるのだという。

たとえばこころに染み入る音楽に共感する能力とか、画家の描く絵にみとれてつい立ち止まってしまうとか、桜の散る光景に人々が自然に集まる、

美しい風景や自然、朝の光の中や山の頂きで吸う空気の味わい、冬の夜のしんとした空気の冷たさを肌で実感するところからくる、生きているという感触など。

自然のなかに美しさを発見できる人間は、その内面に「基本的な善良さ」があることを発見する。それは私たち個人ひとり一人が、日常のありきたりの生活のなかから発見する、共通して美しいと思うもの、そう思えるこころに善良さの基盤みたいなものを見いだすということ。言い換えれば「良心」という言葉が私にはぴったりくるのだが。

生きているのは基本的に善いことだという、その良さを自分のなかに見つけられたら、他人の人生も良くすることができる。私たちは、たとえどんなに自分を見失った状態でいても、決して「良心」だけはずっとこころのなかに住み続け、それが雲隠れしたりするだけなのだろう。いわゆる悪い人というのも、既に存在している「良心」を見つけられずにもがいている惨めな人であるのだという解釈がなりたつ。いわゆる悪い人という言葉は、ここでは、エゴという人間の心に翻弄され、善悪の区別をつけている知識人のことをここではいっております。

良心

は人が生まれながらに携えてきた。それを通してひとはお互いのために生きるのが基本なのだと思う。しかし、それを久しく曇らせてしまう時代が長く続いているというのが実情のようです。

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