和尚

2015年7月 4日 (土)

結婚と自由(5)

誰かに束縛されたい気持ちは、結婚を望むこととなり、人は一人ぼっちの淋しさから結婚を望むようになる。

結婚したら、結婚制度の身分の保証の中で、ひとは毎日のように付き合わされる家族から自由になりたいと願っている。

このこころの矛盾は誰にでもあるものだ。この矛盾のなかで、ひとは次第に決して満たされることのない自分自身のこころの渇きに気づき始める。

外側に、周りに色々期待し、要求する自分がそこにいる。それは家族という範囲、職場という範囲では決して満たされることのできない関係への様々な欲求がそこにある。それが満たされないとひとは精神的におかしくなってしまう。つまり、自分の欲求こそが不幸の原因だった。

自分のさまざまな欲望こそが、不幸の原因だったことがわかる。

欲望の世界は、人それぞれ千差万別、それぞれの夢想された独特の世界であり、個別のオリジナルな宇宙である。

それゆえに誰一人として、自分の欲求を叶え続けてくれるひとはいない。そのことがわかるまで、ひとは誰かにしあわせを求め続ける。

あなたこそ、わたしをしあわせにしてくれる唯一の人です、と常に誰かに関わっていないと安心できない。相手にしあわせを約束してもらおうとすることは、砂の足場に家を建てるようなものだ。

自分の誰かに望むこころや理想」が不幸の原因だとわかりはじめたとき、そこから本当の精神的な探究が始められる。

自分の欲求からの自由こそが、しあわせをみつける基礎となる。いや、しあわせを捜し求めるこころがまだあるうちは、決して自由ではいられない。しあわせにこだわる心が人を欲求に縛り付けているからだ。

真の自由は、自分からの自由、それはなにも望まず、なにも要求せず、すべてを成り行きにまかせてしまえる無の境地、それこそ自分というこころを全体に委ね、そこに安住することによって、喜びと安らぎがもたらされているのかもしれない。自分というものを忘れることができて初めてすべてが満たされた至福の境地に至るというパラドックスがそこにあるのではないだろうか?

逆にこうも言える。

真に幸福な、永遠の至福の境地はあまりにも退屈なものかもしれない。人は、個人として生きるこ

とによって初めて、喜びも悲しみも色々と経験することができる存在なのだ。

だからこそ、人は出会いと別れの喜びと悲しみを味わうことによって、人生そのものを真に楽しんでいける存在なのかもしれない。

だとしたら、結婚も、深刻なドラマにしてはいけない。それもいくつもある関係の中のひとつのゲームだ、という感覚が必要なのかもしれない。

結婚というものを遊びごころを持って臨むことが、人生を旅するものの心得であるのかもしれない。

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2015年6月27日 (土)

結婚と自由(4)

結婚は、一人ぼっちで淋しい自分、孤独に耐えきれない私たちが要求する束縛の宿だ。この宿がないと、人は生きられない。私たちは、誰かに束縛されることによって、一人孤独でいるさみしさから逃れることが出来、また、自分の必要性を満たすために、家族を創ることができる。家族に囲まれて生きることほどしあわせなことはない。

一方でいつも誰かに見られていると、一人だけの空間を得たいと望んだりする。そこで一人の楽しみを見つけようとする。それはいつも周りに誰かが居るからこそ、一人に成りたいと望むのである。結婚しているからこそ、自分の時間を作りたいと思うのです。

もし、毎日が一人ぼっちなら、自由になれる一人の時間が欲しいとは決して思わない。毎日がひとりぼっちなら、逆に誰かに会いたいと常に思い、さらには誰かに束縛されたいと願い続けたりもする。

誰かに束縛されたい気持ちは、結婚を望むこととなり、結婚制度の身分の保証の中で、ひとは家族から自由になりたいと願っている。

いや、誰かからの支配からのがれることが、ひとりになれる時間を得ることが、本当に望みなのではない。

家族とは、社会とは、それが絶えず動き続けるものであり、しあわせが続くものではないことを知っている。もし、何事もなく、子供を生み育て、孫の顔を見、さらにひ孫の顔も見れて、最後は息子や娘にみとられて、死ぬことができるのであれば、それは果たしてあなたの本望であろうか?

大好きでたまらない人が、いつまでもそばにいて欲しいと願うのは、当たり前のことだ。しかし、どんな場合でも、一緒に死ねるということはほとんどあり得ない。一緒に死ねても、あの世でも一緒だとは限らない。また、大好きでたまらない人と一緒になれなかったり、別れなければならないことは生きていて、度々起こることである。

このひとりぼっちの寂しさは、そうならないように常に誰かを求め続ける。そしてそれは私の幸せが、好きな人に依存し、家族に依存し、そして社会に依存していることを示すものだ

つまり私はいつも、誰かから愛されたいのだ!

そしてこれが叶わないから、愛に飢え、こころが満たされず、それゆえにどうしようもない淋しさを紛らわすために、他人にしがみつこうとする、この姿勢こそ不幸の原因なのだ。

私のこころを満たしてくれるものは誰もいない。そのことを真に理解するまで、ひとは家族を求め続け、社会を求め続ける。

幻想の社会にではなく、束の間の仮の宿としての家族ではなく、こころが、真に満たされている状態、つまり分離されたこの感覚をもとのひとつだったものに帰ることが、唯一のしあわせに至る道なのだ。

永遠の至福、それを求めるこころさえなくなった魂こそが、永遠の至福なのだ。ひとは、そこに至る旅人であり、こうして今も、永遠の泉を求めてさまよい続けている。

時間を超えて、そこにあるものこそ本物であり、そのためにひとは自分からの自由を獲得しなければならない。自我のしあわせはささやかだか、その時々では値のあるものだ。しかし、それがもろくもはかないものだとわかったとき、人は永遠のしあわせを探し求める。そしてそれは、社会に根付いている自分自身のこころの奥底に存在しているものなのだと思う。

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2015年6月20日 (土)

結婚と自由(3)

飛ぶ鳥の自由とは、そこに偶然出会った人たちと、その瞬間、瞬間を遊んで楽しみ、愛を与えあい、分かち合うことである。そこには生き生きとした今、という輝く瞬間がある。

 

自由は愛の表現だ。その自由こそ、あなたがあなたらしさを生き切ることを保証する。

籠の中の鳥は、どんなにきれいでも、どんなに素敵でも、空を自由に飛べないことで、輝きをなくしてしまう。そして、飼い主は、また別の鳥を、空を飛んでいる鳥を見つけて、また籠の中に入れようとしている。何度やっても同じだ。

 

籠の中に入れようとすること自体が問題を生むことに気づかないといけない。僕たちは、自分で自分の首を絞めてしまっている。お互いが結婚制度の名のもとに、お互いを束縛しあった結果は目に見えている。しかし、本人は保証を得たい、安心を得たい。

 

愛は生においてもっとも高い価値を持つ。それは愚かな儀式に貶(おとし)められるべきではない。そして、愛と自由は共に歩む・・・あなたはひとつを選んで、もう一方を残すことは出来ない。

結婚という儀式のもとに愛の誓いを立てれば立てるほど、自由という愛の鳥は、鳥かごの中で段々と死んでいくという事実にもっと目を向けなければならない。気をそらすために子供を作り、子供に自分の愛情を注ぎ、見返りを期待することで、ますます愛情に対する飢えが募り不毛になってゆく。

 

結婚の目的は、あなた方が互いに成長するのを助け合うことだ。しかし、成長には自由が必要だ。そして過去においては、全ての文化が、自由がなければ愛は死ぬことを忘れてしまっている。 (太字:OSHO)

 

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2015年6月13日 (土)

結婚と自由(2)

結婚して、なおも自由でありたいことの矛盾

 

3つの真理が本当に理解されるなら、結婚するかしないかはどっちでも良い問題となる。

 

結婚するということは、相手を少なくとも自分の生きてる間は、縛りたい、籠の中の鳥に納めておきたいということだ。その鳥は籠から出て、飛び出すことを許されない。なぜなら、もし自分のところに帰ってこなかったらどうしようと不安になる。つまり、相手に対する100%の信頼がないということ、それはつまり、真に相手のことを愛しているわけではないということ。真に愛しているということは、相手のする全ての行いに対してYESと言えるということであり、その飛ぶ鳥の自由を喜ぶことができるということ。

 

自由を知っている人は愛に満ちている。そして愛を知っている人は、いつでも喜んで自由を与える。もしあなたが、自分の愛している人に自由を与えられないなら、いったいあなたは誰に自由を与えられるのかね?自由を与えることは、信頼すること以外の何ものでもない。

自由は愛の表現だ。だから、あなたが結婚しているかどうかにかかわらず、いいかね、全ての結婚は偽物だ・・・社会的な都合のよさにすぎない。結婚の目的は互いに自分達を閉じ込め、自分達を束縛することではない。

結婚することが目的なら、それは自分たちのお互いに束縛したがっているこころの現実と向き合わねばならない。その根底には、相手が離れて行ってしまうことに対する恐怖がある。相手をお互いに従順なペットにしあって互いが安心して暮らす生活は異様だ。しかし、私たちには相手に自由を与えるだけの信頼も、度量もない。

 

私たちはつまるところ究極の愛というものを知らないのだ。

 

それは私たちがお互いに100%の信頼を得ていないからこそ家族を必要とし、一人ぼっちの孤独(ロンリネス)のさびしさから逃れるために、一緒にいることの保証を国家から授けてもらいたいのだ。僕たちはお互いに束縛しあっていること、この現実に目をそむけ続けることはできない。束縛し合っているという現実が、いづれ不幸に行き着くからだ

 

私たちは3つの真理が理解できない、

もしこれらの単純な事実を理解したら、その時には、あなた方が結婚しているか結婚していないかは問題ではない。あなた方は一緒にいられる・・・互いの空間を許し合い、互いの独自性を決して妨害せずに。 (太字:OSHO)

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2015年5月30日 (土)

結婚と自由(1)

結婚して、同時に自由であることは可能かどうかを尋ねた求道者にOSHOは答える。

それは難しい。しかし不可能ではない。ただ少し理解が必要だ。

2,3の基本的な真理が認識されなければならない。

第1に、誰も他人の為に生まれてはいないということ。

第2に、誰も人はこのようにあるべきだというあなたの理想を満たす為に、ここにいるのではないということ。
第3に、あなたは自分自身の愛の主人(マスター)であり、自分の望む限りを与えることが出来るが、誰も奴隷ではないのだから、相手から愛を要求することは出来ない、ということ。                    

もしこれらの単純な事実を理解したら、その時には、あなた方が結婚しているか結婚していないかは問題ではない。あなた方は一緒にいられる・・・互いの空間を許し合い、互いの独自性を決して妨害せずに。

(ニューウーマン誕生(めるくまーる刊)オショーラジニーシ)

 

これを初めて読んだ時、「そうだそうだ」といかにも自分はわかったつもりでいた。

この3つはどれも真理を表しているのだが、僕は現実の中では、それを行為で示すことはできていない。殆どの人はこれを理解しないか、頭でしか理解していない。そして僕もその苦しみの中にいる。

最初に始めなくてはいけないことは、自分がいかにこの真理を理解していないか、ということを思い知らないといけない。

 

第一の真理

誰も他人のために生まれてきてはいない。

しかし、マインドはこう言う、私はあなたと出会う為に、あなたの世話をするために生まれてきました、と言う。それはつまり自分の喜びやしあわせのためにあなたはいなくてはならない存在なのです、ということ。誰かのために、というのはその誰かを通じて生きる喜びがって初めて、自分自身の表現が完結されることを意味している。

つまるところ、

誰も他人のために生まれてきているのではなく、自分自身を表現するために、自分を成長させるために、自分に感動を与えるために生まれてきました、と言った方がより正直だと思える。

 

第二の真理

2人の人が結婚する時、2人共ある特定のイメージと結婚している。そしてそれは明日になれば変化するものだ。あなたの結婚した女の人は、明日はもう同じ人ではない。彼女は生きている、彼女は成長している、彼女は動いている。明日は明日だ。(OSHO)[

結婚する相手探しに際して、お互いに抱いている相手のイメージ、こうあって欲しいという願望を叶えてくれる相手を好んで選ぶ。まさに、その人が自分にとって相性の良い相手であり、自分をしあわせにしてくれる、その人でもあるわけだ。

しかし、時間が経つに連れ、お互いに変化していく、人は相手の特定の固定化されたイメージ通りの人ではなくなってくる。

僕は彼女がおしとやかな人だったから結婚したのにこれは詐欺だ、と後から言っても始まらない。人は常に変化し続け、その時々の性格の衣を脱ぎ捨てては新しく成長していっているのだ。誰一人、例外ではない。「あなたの理想通りになる人など、この世にいないのだ」、とそう悟ることが僕はまだできないでいるのだ。

ひとは自らの本質に従って生きるべく運命づけられており、誰も他人の理想を満たすために生まれてきているわけではない。もし、他人に自分の理想を押し付けるなら、いづれ失望することになる。

 

第3の真理

愛はビジネスではない、「これだけの愛情を注いだのだから、その見返りが欲しい」とそう望んでも、相手にとってそれは押しつけ以外の何物でもない。そもそも、相手は君にどれほどの愛情を注いでくれ、などと頼んだのだろうか?  それは一方的であって、本当のところは、特定の誰かさんから愛情を注いで欲しいというのが本音である。お望みの相手が愛情を注いでくれるかどうかは相手の自由であって、それはビジネスに落し込む性質のものではない。

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2015年5月 8日 (金)

感謝と愛

愛という梯子の一段目がセックスであり、一番上が慈愛である。と和尚は言う。

長年連れ添った夫婦は、子育てや介護に一緒に携わって来た人なら戦友であるという。 一方で、恋愛時代のように刺激やドキドキがなくなった夫婦ならお互いに空気のような存在だという。

忘れてはならないのは、愛の梯子を登り詰めるには感謝という栄養が必要だということ。

花は、見られる人がいなくても育つと言われる。しかし、毎日、見ている人がいたら、その花は生き生きして、長持ちする。植物にも感情に近いものがあるのかもしれない。人間が生き生きさを保ち続ける秘訣は感謝にある。それは常に誰かから有難がられているということ、言いかえれば感謝されているということだ。

恋愛時代のような情熱は愛の梯子の一段目から来る。それは相手によって快楽を得たい、相手を自分のものにしてしまいたい。相手といることの幸せを永遠のものにしてしまいたいという自我の欲求である。

刺激のない夫婦にとっては空気のような存在であっても、「あなたがいてくれるからやっていける」ということを示さなければ、愛の梯子は昇っていくことは決してできない。当たり前であっては、セックスから慈愛へと愛が成長することが決して出来ないのだ。 元々は他人だったものが、一緒に暮らしていくに連れ、「私のことを愛し続けてくれてありがとう」といった感謝の気持ちを態度に表わすことこそが、自他、ともに愛の階段を上る力となっているのだ。それがなかったらる一緒にいる意味などどこにももない。

私たちは、一人ではつらいから、さびしいから、そのつらさから解放されるために誰かと一緒になる。だが、それだけでは生きるということにはならない。ここに愛の梯子を、共に支えあって昇っていくことに生きることの本質が見えてくる。

そして最後の梯子を渡り切ったとき、あなたは多分言う。「未熟な私だったけど、あなたのおかげで昇っていくことができたわ。ありがとう」 そして慈愛。 人は自分のあふれるばかりの愛で一人立つことが求められている。最後の階段を上るまで、ヒトは誰かに支えられないと生きてはいけない。

しかし、最後の階段を上ったとき、人は、誰かがそばにいてくれない悲しみ、ひとりぼっちのつらさから解放される。そこで、初めて相手のことを自分の必要からではなく、ありのままの相手として愛し、受け入れることができるのかもしれない。そしてまた和尚のいう「独りであること」の意味を知るのだろう。

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2015年4月13日 (月)

生の目的性と魂の無目的性

今、生かされているこの現実がある。私はなぜここにこうして生きているのだろう。 ひとつにそれは、この私の人生は、何らかの目的を持っているということだ。

誰でも人は、気づこうと気づかないとに関わらず、目的を携えて生きている。 その目的は、自分で設定したものだ。 「私には使命感がある」というのもその果たすべき使命をもって、自分の目的となっていることに他ならない。 生前に自分で選んだ目的は、本来人生の中で消化されなければならない。しかし、それが消化不良もしくは未消化のままで人生を終えようとするとき、死ぬ覚悟が出来ていないために、恐れおののく。そして、人生の終末期になると死ぬのがとても怖い、さらにとても淋しい気持ちに襲われてしまう。「自分の人生は何だったんだ?」「ひとりぼっちで死んでいくのは嫌だ!」などと、潔くない悲惨な終末期を迎えてしまう。 みんな人生は満足して終えたいはず。だったら、「いつ死んでもいい」と思える心境になってから死にたいと思う。

一体何を達成したくて生まれてきたのか、思い起こすことだ。それをしないと、人生のたそがれ時により苦しむことになる。 それは誰のためでもなく、自分自身で設定する目標だから、あなたは自分で人生を創造する自由を持っている。 しかし、この世界、この社会に生まれてさまざまな教育を受けるなかで、自分の人生を創造するために、自分で決めた目標を遂行することを次第に忘れてしまう。でも、何度でもやり直すことはできる。一生が台無しになろうとやり直しはできるのだ。ただ、この人生の終末期の苦しみは味わわねばならないだろう‥‥。

和尚は述べている。

「魂や自己は生まれることがない。-身体だけが生まれる。そして身体だけが死に、魂は死なない。魂は何の理由もなく存在する。それはただ在る。この世界では理由を持たぬものだけが永遠だ。雲もなく降りそそぐ雨こそが甘露だ。

理由あるものはすべて消え去る。なぜなら理由が支えてくれる間しか、それは存続できないからだ。石を拾い上げて投げると、それはあなたが投げた力に相当する距離だけ進むー 二百歩、三百歩、そして落下する。子供は生まれ、七十年生きる。母親と父親は、彼に自分たちの生命エネルギーを与えた。それは七十年経つと終わり、彼は死ぬしかし、この世界は続いてゆく。無限の世界が生まれては消え、そして再び生まれる。だが存在はあり続ける。地球は生まれ、そして死ぬ。星や月は生まれ、そして消滅する。

(シャワリングウイズアウトクラウズ 女性の覚者、サハジョの詩:市民出版社)

そう、魂は何の理由もなく存在し、そして永遠だ。

しかし、あえて私たちは理由をもってそれぞれ各自の目的を携えて生まれてくる。だから有限な存在だ。 しかし魂は決して滅ぶことがない、だったらこの有限な人生、後悔しないためにも生前に自分で決めた目的を遂行して、大いに冒険に乗り出すしかないではないか。

他人の目を気にしてはいけない。自分が成りたかった自分を目指そう。それは他でもない、自分自身が選んだ道だから、決して後悔などない。もし後悔があるとするなら、この有限の期間限定の自分の人生に、経験したかったことをして来なかったこと、そしてそれを忘れてしまうことだと思う。 だから、恐れずに生きていこうではないか。

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2015年4月 9日 (木)

執着と感謝

そばにある幸せに気が付かず、それは事が終わる頃になって初めて思い知ることになる。

そのために、いままであった幸せを手放さねばならないときに、執着心が芽生えてしまう。

和尚はこう述べる

すべての執着がスピリチュアルな旅では重荷となると瞑想者に明確になれば、感謝の気持ちが束縛ではなく、自由を与えるものとなるだろう。もし私が、あなたに何らかのことで感謝に満ちているとしたら、どこに執着の余地があるのかね?

実際、感謝の念を表さなかったとしたら、内側で束縛として残ってしまうだろう。

だが、感謝することにより、事は完結される。

執着心とは、依存であり、進行形の必要性である。

もし、いまあるしあわせに対して、その都度、感謝することができたなら、そのしあわせな現実とともに、心は満たされ、その場にとどまることもないのだろう。

もし、感謝がなかったら、いまあるしあわせに、永続性を願うことになり、それは自分に対しても、相手に対しても束縛をもたらす結果となる。

生の河は絶えず流れ続けている。このことが理解されたなら、私たちは束の間のしあわせに決して執着しては、苦しみをもたらすだけであることを思い知る。

それは、自分にはもうこのしあわせはやって来ないかもしれないという不安があるからだ。

生は流れ続ける。その束の間のしあわせこそ輝きそのものだと、理解したときは後の祭りだ。

同じようにして、当たり前の毎日が、実は感謝に満ちているなどと、そのとき誰が思うだろうか?

後になってから感謝しても遅い。それでも感謝することがなかったら、過去になってしまったあのしあわせなひとときにいつまでも執着して苦しみ続け、いまという瞬間を決して生きることができない。

当たり前に過ぎていく毎日に、いかに感謝できるかが、いまを生きる術があるような気がする。

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2013年6月 1日 (土)

人生の目的(4)

宇宙と戯れる事ができる、自分の生とはどんなものなのだろう?

そうすることが可能になるのは、自分の帰る場所を知っていることが前提となっている。帰る場所があるから、帰る場所がわかっているから、遊んでいる「今、ここ」を謳歌することができる。

私たちが、旅を楽しむことができるのは、帰る家があるからである。

聖書に羊飼いの話がある。

イエス、言う

「神の王国は、100頭の羊をもった羊飼いに似ている

そのうちの一頭が

いちばん大きい一頭が道に迷った

羊飼いは99頭を後に残し

その一頭が見つかるまで

探し求めて歩いた

羊飼いの話しは、神がさ迷う一頭の子羊を探すことからはじまる。

私たちの作った社会は残りの99頭が住む、お互いに依存し合う社会である。

私たちは無目的の生を得るために、(そう思い込んでしまっている)旅を続けなければならない。常に明日の事で頭の中がいっぱいで、今ここにとどまる事はできないでいる。

旅人である私たちは、①生活の糧を得るために生きている。一方で私たちは②自分捜しの旅を続ける旅人である。自分に合った生き方は何だろうと?自問自答しているのだ。

自分捜しの旅とは、帰るべき自分の家を見出す道程に他ならない。イエスはこの、自分捜しの旅をする迷える子羊のことを気にかけている。

和尚いう

肉体的な必要が゜すべて充たされたときにのみ、エネルギーは上に向いていく。

私たちの今の社会は生活の糧を得ることに精一杯だろうか? そうではないから、人は自分らしい生き方を求める余裕もでてくるのだ。

和尚いう

インドでは、仏陀もマハヴィーラも国が非常に豊かだったときに生み出された。それ以来、いわゆる聖人たちが存在してきたが仏陀のような人はいない。‥ 

なぜならあのような開花は、そこに余剰のエネルギーが、使われることのないエネルギーがあってはじめて可能なことだからだ。そういったときにはじめてエネルギーは自らを楽しみはじめる。そしてエネルギーが自らを楽しみはじめるときには、それは内側に向かい始める。それは内なる転換だ。そうなったらそれは瞑想になる。‥そのときには、それは歓喜になる。

分捜しの旅は、自らの内なるエネルギーを発見し、そのエネルギーと戯れることができるようになるための旅でもある

イエスいう

すっかり疲れ果てながら

彼はその羊にいう

私はおまえを他の99頭よりも愛す

神は自分を探している。しかし、それは社会から離れた、独りの、個としての迷える子羊になった自分をである。その自分を見いだしたとき、人は自分の中に神を見いだし、愛のエネルギーで溢れるようになる。

それ以前では、人は決して誰かと分かち合えるような愛を注ぐことはできない。なぜなら、

それ以前では、自分のなかに溢れるほどのエネルギーの存在も発見されていないのだから。

自分の家を見出した時、人は愛で充たされ、人は真に宇宙とたわむれることができる。人生と遊ぶことができる。人はそこで、無目的の生を生きるのだろう。

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2013年5月25日 (土)

人生の目的(3)

前回、私たちには、やはり目的意識が必要なのだと書いた。

その説明を別の観点からみてみよう。

私たちは、自分の人生と戯れることを目的としている。これが究極の無目的の生を楽しむということだろう。では、そのためにはどうすればよいのだろう?

「戯れる」ことをオショーの言葉で思い返してみよう。

戯れとは、無目的な何か、あるいはそれ自体が目的である何かを意味する。達成されるべきものなど何もない。

人が戯れる方法など知り得ないが、その状態を現したものなら想像もできよう。

人の数だけある生、その生は個々の私の、一回きりの人生というものだ。その生の数だけ宇宙が展開している。

宇宙の展開はひとつのスクリーンだ。人はその中で観客席に身を置く永遠の存在だ。

一度、スクリーンを見ていると、その中に入って、そのステージに立ちたいと願うことになる。なぜなら、そこには自分が、私が、僕が、そしてあなたが唯一、戯れることの出来るステージが照らし出されているのだから。

人は戯れようとするとき、ステージに立つ。そこでは誰もがひとつの生を与えられた主人公である。

どのような運命に翻弄されようと、あなたはそこに立ったことで主人公でいられる。そこは、あなたがあなたとあなたの仲間を創って楽しめる創造の空間である。

人は戯れることができる、そのステージで。

生は、達成されたステージだ。それを望んだ者は、他でもない、観客の私とあなただ。

私は、そのステージのシナリオライターになれる。そこで自由な想像空間を展開することができる。

観客としての「わたし」が意識されてはじめて、ステージの「私」は戯れることができる。

それは、内なる創造の神としての「わたし」と、生のステージで生かされている「私」とが結びつくことだ。「わたし」と「私」が出会ってはじめて、戯れることが可能になる。そのとき、生は達成になり、生はただあふれるエネルギーの分かち合いになる。

人はこのあふれる生の悦びを分かち合うために生きている。それこそが無目的の生の何たるかだ。それこそがオショーの云う、ただエネルギーの戯れだ。

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