ヨーギ・バジャン

2009年1月22日 (木)

信頼(2)

信頼は、自分自身を信頼することで初めて生じる。

自分自身の尊厳を信頼するとき、あなたは必ず尊厳を帯びるようになるだろう。

自分自身の愛を信頼するとき、あなたは必ず愛すべき者となるだろう。

自分自身の美しさを信頼するとき、あなたは必ず美しくなるだろう。

そして、自分自身の偉大さを信頼するとき、あなたは必ず偉大になるだろう。

以上「ヨーギバシ゛ャン 真理のひびき:平河出版社より」

 自分を信頼するということが、実は案外難しいのである。自分の中に嫌な面とか、嫌悪したくなる性格、行動パターンがあると、それをひたすら隠そうとして、少なくとも自分はそうではないと思い込んでしまう。その結果、自分の嫌な側面は他の、それとよく似た人にそのまま投影してしまい、あの人は厭だな、とか思ったりするのだ。

まず、ありのままの自分を好き嫌い抜きに見ようとすることがひとつ。

そして、それを見、理解することで、その嫌な側面は次第にはなれてゆく。

しかし、ありのままの自分を受け入れることも難しいのが私たちである。

少なくとも、自分に自信が持てなくて、必要以上に自分を過少評価し、卑下している人のほうが自己信頼への道のりは近いということもあるかもしれません。ただ、その道は苦痛に満ちている。そして、ありのままの自分を受け入れてゆく過程の苦痛がつらい道であり、だからこそ、そこを突き進んだとき、人は、また新しい成長した自分の姿をそこに発見していけるのである。

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2008年12月14日 (日)

本質と実存(3)

この世にあなたを真の自己から引き離すことのできるようなものなど何ひとつない。この生に創造的に関わりなさい。あなたが味わう苦しみや歓びはすべてあなたの人生の物語だ。

  「ヨーギバシャン 真理のひびき:平河出版社」

あなたは最初からあなたであり、最初の前もあなたである。それはこの世界が誕生する以前に存在していたし、この世界が果てた後にも存在するであろう。それが真の自己というものだと思うのだが‥

この世に創造的に関わる、自分の人生を創造する喜びがある。自分の人生はひとつの演劇みたいなものだと、そう感じたことはないだろうか?

あなたは自分で思ったとおりの人間になってゆく。無意識な思い込みも、自分をそのような人間にしていくのだ。

カルマの法則を理解するに連れて、この世の物語性を考えるようになる。

賢者はよく言う、「あなたがたは自分で気づこうが気づくまいがそれぞれが神なのだ」と

その神であるあなたが、自分の人生の物語を創造するのはやぶさかではない。

創造する喜びを見つけ出したときから、あなたは自己の何たるかを知り始める。神の何たるかを思い始める。だが、それ以前ではない‥

あなたが味わう苦しみや歓びはすべてあなたの人生の物語だ。

それは自分の人生の物語だ。自分で作っておいてそれを忘れている。

人生は苦悩がベースだ。基本的な苦しみの上にさまざまなよろこびや楽しみがある。

なぜ苦しいのだろう、その原因を探り当てるとき、それは小さな自分、自我の苦しみ以外にないことを知る。

小さな自分から抜け出そう。本来の自分、真の自己を想う時、ひとは創造的になる。

創造的な自分の物語を作るところに、幸、不幸を超えた至福がある。苦しみも良いものだ、深く物事を考え、味わうことができるのだから…

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2008年11月14日 (金)

忠告

 あなたの忠告がしっくりくる人たちだけに忠告しなさい。猿には決して忠告しないこと。さもないと、猿はあなたの家をめちゃめちゃにしてしまうだろう。

敵をつくりたくなかったら、けっして誰にも忠告などしないことだ。

                          「真理のひびき:平河出版社」

 人に対して、忠告するときは、まず、相手に聞き入れる耳があるかどうか、猿には忠告してはいけない。というのは相手に聞く用意がない場合という意味だ。これは特に相手の短所を指摘する場合、お互いの関係が親密なものかどうかがカギとなる。したがって私たちがいつもよく犯す過ちは、相手と親しくもないのに、相手のことをよく知りもしないで忠告したがる傾向にある。忠告が外れれば恨みを買うし、当たっていれば逆に逆恨みをかわれてしまい、どの道良いことはひとつもない。

 相手のことを想って言っていると、自分は思うのだが、そういう自分はいったい何さまのつもりなのか? そもそも相手と親しく関われば関わるほど、適切な忠告をしようと思えばためらってしまうものである。

 ものごとは単純ではない、ひと一人ひとりにそれぞれの歴史がある。その場から適切な助言を相手に示すことは、優越感の強さにに応じて難しくなる。

 相手の心の流れとひとつになれれば、そのとき適切な忠告が示される。しかしそれは、本当に相手の懐に入っているときだけなのだ。だから、よっぽどでないと、忠告はしてはいけない、ではなく自分が謙虚になればなるほどできないのだ。

その人と共につぶれてしまうのも厭わない覚悟があれば、その忠告はより的を得たものになるだろう。それこそ、敵も味方に変えるだけの力強さがそこにはある。

 

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2008年10月21日 (火)

自己(2)

「ヨーギ・バジャン 真理の響き」平河出版社より

 あなたは、三つの<自己>をもっているということを理解しなければならない。

ひとつは肉体であり、それには欲望がつきものである。

もうひとつは精神であり、それには想念がつきものである。

そして、最後のひとつはあなた、自分をコントロールするむちをもったあなただ。

ほとんどの人たちは精神と自己とは別物であるということを知らない。精神的自己とより高次の自己とは別個のものだ。これら三つの自己のあいだの内的な闘いを認識できなかったら、あなたはまったく何も知らないことになる。しかし、だんだんあなたはこの内的な葛藤に気づき、高次の自己が勝利をおさめるようにこれを克服できるだろう。

‥‥

 悟りは私たち自身の魂を通して起こる。肉体として形づくられた自分のなかに存在する真の<自己>を悟ることこそ、最大の偉業だ。

 さて、<高次の自己><真の自己>といったものは、インドの古代経典ウパニシャッドでいうところの真我ともいい、アートマンともいう。個人が目指す個々の真我が存在する。言い換えるなら、自分たちが真に誰なのか? と問うところの根源には肉体としての自分を影として従える真我としての自己が居る。

私たちは、この日常生活に埋もれてしまって、忘れてしまった永遠の自己を、訪ね歩く旅人のようなものだ。

よく使われている<ハイヤーセルフ>といった言葉も、<高次の自己>とほぼ同じ意味合いで使われることが多い。しかし、その場合、アートマンとしての真我とは趣が違ってくる。ハイヤーセルフは、同じ自己でも、経験を積んだ霊集団、或いは同一個人のさまざまな時空に現れる指導霊的意味合いを持つ。

アートマンとしての真我はそれよりも深みを持った時空の超越的存在としての位置づけがなされている。しかし、旅は真我の段階では終わらないのだが‥‥

いずれにせよ、まず私たちは肉体としての自分が全てではないという認識を現実のものとしなければならない。その一歩が永遠の泉の扉となる‥。

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2008年10月 2日 (木)

関係(1)

「ヨーギバシャン 真理の響き:平河出版社」より

どんな人間関係でも、そこに何らかの欲望や搾取があるときには、それは他人に対して生きるということになる。

そしてみんなと共に生きるというのは、ほかの人たちが幸福になるよう励ますために力を合わせるということであり、

みんなのために生きるというのは、ほかの人を高め向上させるために自分の物質的、精神的、精力的な力のすべてを喜んで捧げるということである。

以上が人間関係の三つの類型だ。

他人のために生きると言う第三のタイプはあなたを不死なるものにし、第二のタイプの人間関係はあなたを幸福にし、第一の人間関係はあなたを悲惨にする。そうしてこの行動様式こそが人の運命を決定するのだ。

 関係するための行動様式には3種類のアプローチがあるとヨーギはいう。そして、それら関係において築き上げるそれぞれの世界には特色がある。どの世界を選ぶかはあなた次第だ。第一の人間関係は修羅の世界、第二の関係は天国(幸福)の世界、第三の関係は至福(真実)の世界だ。それぞれの世界は自らが導き出すもの。それを自分が自覚しようがしまいが‥。導き出すという意味において、人々は平等に責任を負わされている。そして第三の可能性については憶測する以外にすべはない。

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2008年9月18日 (木)

知恵(1)

ヨーギ・バジャン真理のひびき:平河出版社より

幸福のあるところにはやがて悲しみが訪れる。

悲しみのあるところにはやがて幸福が訪れる。

悲しみは幸福を引き寄せ、幸福は悲しみを引き寄せる。

これはサイクルだ。

夜の後には昼が続き、雲の後には太陽の光が、

そして青春の後には老いが訪れる。

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2008年9月 7日 (日)

悟り(2)

小さな<私>が大きな<私>に気づき、小我が大我を認識したとき、合一が達成されている。

そして人が自分は"ひとつ"であり、あらゆるものが"ひとつ"であるということを知ったとき、さらに探し求めるものが他にあろうか?

私たちが何かを探し求めなければならないのは、<私>が存在し、その他のすべても<私>とは別々に存在しいると思いこんでいるときだけだ。

「ヨーギバジャン 真理の響き」:平河出版社より 

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2008年9月 3日 (水)

自己(1)

 全世界は自分が何であるかに気づき、そのあるがままの本質でいるためにある。

慢心したり萎縮したりしないこと。その中間点を見つけてごらん。

人間にとって問題になるのは「あなたは゛これ"ですか、それとも゛あれ"ですか」と追求されていることだ。けれども、あなたは゛これ"でも゛あれ"でもない。

あなたは`あるがまま"のあなただ。

 人は自分の実存を宇宙との関連において理解しなければならない。

それを知る者は誰であれ真理を知る。

゛あなた"は゛あなた"だということを理解すれば、まわりのすべてが美しく見えることだろう。

「ヨーギバジャン 真理の響き」:平河出版社より 

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2008年8月30日 (土)

両極性(1)

あなたが幸福なときには、それを神の祝福として受け取りなさい。逆に不幸なときには、それを神の試練として受けとめるのだ。

ものごとは後になってよくわかることがある。「なんであんないい人が不幸になったりするんだろう」とか、「神様はどうして私に試練ばかりをお与えになるのですか?」とか「あの人ばかりがどうしていい目にあうのですか」とか疑問に思ったことはないだろうか。

人生は一見、不平等のように思える。しかし、人はそれぞれ乗り越えるべき壁が違っているのでそのように見えるだけのことが多い。人はそれぞれ、その試練の大きさによって乗り越えた時の成長の大きさの違いもそこに見出されるものだ。すべてにあてはまるとは言えないが‥

もし状況と渡りあうだけの成長した精神がなければ、何が何だかわからないままに、祝福されたかと思うと悲惨な目に遭ったり、悲惨な目に遭ったかと思うと祝福されたりー 私たちはボールのようにはね返りつづけるだろう。だから心のなかで、あることには別のことが後に続くと覚悟し、いつも感謝の気持ちをもって生きるなら、もはや私たちにとって悲劇は悲劇でなくなり、祝福も祝福ではなくなる。そしてついには、すべてが正しくかつ究極的なものとなるだろう。これが不動心というものだ。この心境においては、人はこのうえもなく解放されて生きることができるから、その人にとって何ひとつ問題はなくなる。

覚えておきなさい。あなたが幸せすぎるときにはあなたの心はつぶれかねないし、逆に悲しすぎるときにもあなたの心はつぶれかねないのだ。

[真理のひびき:ヨーギ・バジャン(平河出版社)」より

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2008年8月27日 (水)

悟り(1)

価値づけがどのようにでも調整しうるものであることに気づくことが、慈愛に他ならない。悪い人などいないのだ。人がうまく行動したり理解することができなかったとしても、あるいはその人に限界があったとしても、あなたは慈愛をもつべきであって、拒絶すべきではない。

あなたを傷つける人がいるのはなぜか。あなたの悪口を言う人がいるのはなぜか。それはその人がそれ以上のことができないからなのだ。

「真理へのひびき(無限への瞑想):ヨーギ・バジャン」

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