「タントラの変容:市民出版社」和尚から
いつだったか、こんなことがあった。惨めさに打ちのめされた男が、非常に取り乱してわたしのところへやって来た。「わたしは死ぬつもりだ。」
「どうしてかね?」わたしは言った。
彼は言った。「信じていた妻に裏切られた。わたしは完全に信頼していたが、妻は他の男を愛していた。今の今までわたしはそれを知らずにいた。何通かの手紙を手に入れて彼女に聞いた。執拗に問い詰めた。妻は、これまでずっと愛してきたと告白した。わたしは死ぬ」と彼は言った。
わたしは言った。「彼女を信頼していたと言ったのではないか?」
彼は答えた。「そうだ。わたしは信頼していたが、彼女がわたしを裏切った」
「信頼ということで、あなたは何を意味しているのだろう? 信頼について何か間違った観念を‥‥ 信頼も政治的であるようだ。彼女が裏切ることのないようにと、彼女を信頼したのだ。あなたの信頼は詐欺だ。今度は、彼女に罪悪感を抱かせたいと思っている。こんなものは信頼ではない」
彼は非常に困惑した。彼は言った。「もし、これが信頼でないとすれば、あなたは信頼をどう意味するのか? わたしは無条件に彼女を信頼した」
わたしは言った。「あなたの立場だったら、わたしにすれば信頼とはこういうものだ。わたしは彼女の自由を信頼し、彼女の知性を信頼し、彼女の愛の受容力を信頼する。彼女が他の誰かと恋に落ちるなら、それもまた信頼する。彼女は知性的だ。彼女は選択できる。彼女は自由だ。彼女は愛せる。わたしは彼女の理解を信頼する」
あなたは、どういう意味で信頼と言うのか? 信頼するとき、あなたは相手の知性を信頼し、相手の気づきを信頼する。あなたはそれを信頼する。他の人と愛に入っていくことを相手が望んでもそれは完璧にOKだ。痛みを感じるとすれば、それはあなたの問題であり、相手の問題ではない。 痛みをかんじるなに、それは愛のせいではなく嫉妬のせいだ。これは一体どういう類の信頼だろう、あなたが裏切られたという、その信頼とは? わたしの理解する信頼は、裏切られないものだ。まさにその本質からして、まさにその定義からして、信頼は裏切られるものではない。信頼を裏切るのは不可能だ。裏切ることが可能であれば、それは信頼ではない。
これは理解するのが難しい。
男が、「彼女が裏切ることのないように彼女を信頼した」と言っているように、私たちの信頼は期待が混ざっている。自我は自分の都合の良いように納まってくれる相手を絶えず捜している。自我は、無視されるのが怖いのだ。だから自分のことを愛してくれる、気にかけてくれるのなら、それにつりあった愛情しか示さない。「他人にしてもらいたいのなら、まず自分からしなさい」というのも、自我は自分に跳ね返って来ることを期待する。人間的な愛とはけちなものだ。
和尚の云う信頼とは持っている偽りの自我を明け渡すことだ。自我が集団意識から個人の意識へと高められたとき、持っている自我を明け渡すこともできる。自分というものを見失っているのではなく、大きな自己とつながった成熟した自我がそこにあるが故に、相手の選択の自由も認めるものだ。
私たちは誰かに依存ししていないとやってゆけない。私の愛が誰かに向けられたものであるとき、それは相手に依存してしまっている。自分との関係が失われることへの不安が自我に働いているのだ。和尚の愛は内側から溢れ出るものであり、対象に依存しない。そして相手を選ばない。和尚の愛は常にそこにある。私たちは小さな自我にこだわりつづけて生きている。たかだか何十年の生を守るために生きているのだ。この小さな自我を明け渡さなければ大きな自己にたどりつけない。自我の殻は私たちが本来持っている光の存在としての自覚をいつしか見失わせてしまった。
私たちは、自分で刀を手にしていることも知らないで、あなたを信頼していますと言っていることに気づかなければ、安らぎはやっては来ない。本文に戻ろう。
支配が存在するとき、愛は消える。所有が存在するとき、愛は消える。
あなたが真に彼女を愛するなら、彼女の自由もまた、愛する。そして彼女はあなたの自由を愛するだろう。人を愛していて、どうしてその自由が破壊できるだろう?
人を信頼していれば、その自由をも、あなたは信頼する。
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