2018年1月21日 (日)

友愛

国家の構成単位としての家族はいらないが

友愛を結ぶ相手は必要だ

 

友愛とは、皆ひとつであることを自覚できる意識

友愛は、その人のためにならなんでもできる

その人のどんなことも受け入れることができる

そういう意識状態のことだ

 

友愛を育てるには

家族に等しい間柄をつくること

共に過ごす期間

私たちは、お互いに友愛を育ててゆく

それは国家とは関係がない

そこで一緒に暮らす基準とは

 

「この人と一緒に過ごしたい」

 

明日はどうなるかわからない

そんな気持ちでなくなるかもしれない

そこには

結婚制度にはない

不安定感がある

二人の関係を国によって保障されることがない

 

だからこそ

そこには日々の緊張があり

明日、嫌われるかもしれないという

不安がある

けれどもそれこそ

お互いにずっと好きでいられるための

コミュニケーションが

友愛を育てる下地になる

 

またそれは

常にお互いに感謝し続ける環境を生み

その積み重ねが

二人だけの信頼感を深めていく

 

その揺るぎない信頼感こそが

友愛だ

短くない時間をかけて

一人の相手に結ばれた信頼は

それが支えとなって

他の人とも同様に

信頼を深めていく

 

そうしていつしか

人々は

友愛家族を増やしていくのだ

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2010年12月10日 (金)

至福と愛と徳(3)

自分のことを忘れて、損得抜きで何かに打ち込める状態が、より健康な魂の状態を現していると思える。打ち込む対象が動物だったり、それが人間だったりしたら、そこに本当の愛情がある。人はおのずと打ち込んでいる状態にあり、それが異性の相手である場合は純愛といったりする。そのとき、人は至福を感じる。

相手のことを自分を意識しなくなるくらい夢中になっているときに、あなたは真にしあわせであり、それは至福のときである。そして相手にたいして愛情豊かな人間で居られる。しかし、それはそう長く続かない。

ただ、その時の、一瞬でも感じたその至福感を思い起こせば、そのときこそが、魂の健康状態を示していたことがわかるのである。

人を信じにくい世の中であるが、それはお互いに愛情に飢えた人間で一杯になってしまったからに他ならない。その悪循環から逃れるためには、こころから自分のことを忘れて、好きになれる相手をみつけることである。それは自分の魂に偽らず正直でいろということだ。

誰でも、好き嫌いはある。だからこそ、自分のこころに正直でいることが、相手に対する誠実さを示すものさしになる。本当に好きなものをすきだと言えることが、真に至福でいることの近道でもある

ひとつこころから好きになれる人を見つけたなら、それまで嫌いだと思っていた人に対しても、そのひとの良さを発見する余裕がでてくるものだ。

相思相愛にならないのでは? という不安から、自分の本心を偽ってしまうこともある。けれども、問題は誰を好きになるかではなく、こころから相手を好きになれる自分の心の状態が問われているのだ。相手のことを考えて、相手の立場でものをみることができる自分になれることがポイントなのだ。

そのとき、人は愛情を与えることのできる人に生まれ変われる。そうして初めて、そのひとに徳が生まれる。そうして初めてそのひとは、至福の状態の何たるかを知るに至るのだといいたい。

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2010年12月 3日 (金)

至福と愛と徳(2)

至福とは、あなたがそれにまったく気づいていないときのことだ。というのも、あなたが気づくのは痛みばかりで、決して健康には気づかないからだ。

動物は健康であるとき、身体を意識しない。身体のどこかが病んでいればそこが痛いし、そこに意識をあててしまう。

魂の健康についても同様で、自分という存在を意識しだしたときから、人間の罪が始まったというキリストの原罪とは、それが自我の発生と同時であったという解釈ができる。

「私は在る」という知識は、魂の病だ。

デカルトが「我思う故に我あり」と述べている教科書を思い出す。思えば、西洋文明はすでにこのときから、魂の病にとり付かれていたのかもしれない。

自意識過剰ということもあるように、自分を意識しだしたら、物事はうまくゆかなくなる。

そもそも、自分はなんという存在なのだ。考えている自分が居るのだから、自分がいることの証明にはならない。考えている自分が考えなくなってしまったら、自分ではなくなるということなのか?

要するに、考えている自分がいつもそこに居る限り、人は至福を体験することはできないということなのだろう。常に目的を定めて、日々あくせくとどうやって他人よりしあわせになろうと考え、生きていくそのこと自体がみじめな人間の人生模様なのかもしれない。

太字引用:「シャワリング ウイズアウト クラウズOSHO,市民出版社」

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2010年11月26日 (金)

至福と愛と徳(1)

誰かのために徳を積めば、人はしあわせになれるということはない。

自分がしあわせであることが、徳を積むことの条件である。それ以前では、人はお互いに傷つけあう存在でしかない。みんな、愛情に飢えているのだ。だからこそ、他人のことをかまっていられる余裕も無いのだ。そう思うと、人間がいとおしくもあり、苦々しくも感じるのだ。

愛情に代わるどんな物もあなたを満足させはしない。人は、その自我の形成の過程で、愛情の代わりに、魂のない人形を与えられることで慰めあっている。特に現代においては、お互いに愛情に飢えていながら、本物の愛情を与えられることもない。この悪循環から一体どうやって逃れられるというのだろう。

 あなたは常に、徳のあることを行なえば至福に満ちると言われてきた。私はあなたが至福に満ちていれば徳があると言おう。あなたは、罪を犯せば惨めになるといわれてきた。私は、惨めならあなたは罪深いと言おう。

 惨めさは罪であり、至福には徳がある。

毎日が楽しくなくなってきたら、あなたは罪深い、ということである。私たちは、日々の生活に追われて、楽しいことは少なくて苦しいことの方が多いと言う。それでも、あしたこそは何か良いことがあるのだとがんばっている。けれどもそれは罪深いことなのかもしれない。一体今日という日を楽しまなくて、いつ楽しむのだろう。

太字引用:「シャワリング ウイズアウト クラウズOSHO,市民出版社」

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2010年8月28日 (土)

愛と自由

人は他人から、その生命をおびやかされたくはないし、束縛されたくもない。それなのになぜ他人を支配し、束縛しようとするのだろう。

それは、ひとり孤独でいるのが恐いからなのだろう。

この恐いということが、他人から愛されなかったら生きてはいけないという恐怖を与えている。当然、他人に対しての信頼もない。

相手を支配し、攻撃しようとするのは、単に男性的な資質だけからというのではない。

それは、死すべき人間が、自分を護ってもらいたいと思うことの形を変えた姿でしかない。

私たちのこの生まれながらにしてある、死への恐怖を克服しない限り、人を支配したり、孤独からのがれるために誰か隣人や物質的な所有への渇望は途絶えることがない。

もし、自分が真に自由でいたいのなら、相手や他の人々をけっして束縛、支配しようとはしないだろう。そもそも自由でいることは、自分自身だけではなく、人間一人ひとりの独自性を認めることであり、受け入れることである。つまりそれが愛というものではないのか。

私たちは、常に何かに怯え、誰かを必要としている、所有し、支配するための誰かを‥

正義という名目のもとに、戦争が絶えず起きているのはなぜか

?

そういうことを議論すること自体、物事を複雑にしたがる人間のエゴのなせる技である。

争いや戦争は、自分だけが正しいのだということを、相手にわからせたいという思い込みゆえに起きている。

誰も絶対的に正しい者などいない。また、戦争は、とどのつまり、兄弟が母親からの愛情を独占したいがために、争うことから始まっている。つまり、誰もが愛情に飢えているということなのだ。愛情に飢えた人たちができることといえば、もっと相手に、他者に愛情を望むことでしかない。それゆえの闘争であり、戦いであるのだ。

無益である。

他人から愛情を必要としない人は、決して争いをしない。彼は自由そのものだ。私たちは、お互いに愛情を分け与えあう、自由人としての境地に至らなければ至福でいることは決してない。その意味では、この世界は、愛情に飢えた私たち自身が、愛に目覚めるための試練の場として存在しているのかもしれない。

私たちは、死すべき存在として、生まれてきた人間である。

それこそ不自由以外の何物でもないことを、深く理解しなければならない。

そうでなければ、戦争をいかにしてなくしたらいいのか? といった議論は全て的を外してしまう。

自由であることは、権力や支配、所有欲とは無縁である。

ひとは自らが真に自由であってこそ、人を愛すべき人物になれる。

そしてそれは、生と死を、男と女を超えるときでもある。

私は、そのような境地を目指すこころざしだけは、失いたくはない。

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2010年5月 8日 (土)

家族について(14)

いかにして、どのようにして生きていくのかは、社会にでて、企業が、地域社会が教えてくれます。それは、生活のための手段を教える場でもあります。それに対して、どう在るのか? 自分はどのように在りたいのか? ということは教えることができません。それは「自分から学ぶ」ものだからです。

今の学校教育では、この「どう在るか」ということがなおざりにされています。それは社会にでて役に立つとか、立たないとかではないからです。

どんなに他人からみて羨むほどの成功を収めてきた人でも、自分自身が満足しない生き方であったならば、それは人生の失敗に他なりません。教育は、この自分自身の在り方を教えられないのです。

それは、もっと多くの大人たちの生き様から学ぶものであります。その見聞の中から自分に合った生き方、在り方を模索するのが人間的というものです。そうした点では、いまの核家族的な生活様式では、決して子供が自分の在り方について勉強できるほどの環境にないのではないかと思います。ここからも家族というものの在り方が問われているのです。

社会というものはつまりは、家庭の反映であり、家庭というものは国の構成単位です。その最小単位である家庭の機能が働いていないことが、社会にさまざまなひずみをもたらしているのではないでしょうか?

個人の自己責任といいながら、その個人を守るべきはずの血縁者でさえ手を差し伸べられない現状は、国の存亡の危機につながってもいるような気がします。

個人がバラバラになりつつある社会で、この社会構造をもう一度作り直さなくてはなりません。それは誰かに頑張ってもらえれば良いという問題ではなく、一人一人の心の内面が変わっていかなければ始まらないのだと思います。自分の内面が変わらなければなりません。一人一人の自覚が変わることが、自分たちの住んでいる世界を変えるのです。もっと住み易い世界に共に、努力していきましょう。そのためにはちょっとした気づきが必要なのではないでしょうか?

自分のしてきたことが、これからの自分に反映されます。

後悔する前に、自分自身がしあわせでいたいのなら、まず何をするべきか、何が自分にできるか、そして誰のために行うのか?

もう一度考えてみましょう。

家族の在り方が、今、真剣に問われています。それは私たち一人一人の生活問題なのです。

翼猫

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2010年5月 4日 (火)

家族について(13)

家族再考

結婚? 同棲で十分ではないですか? 安全という保障が欲しいのですか、それとも、永遠の愛が欲しいのですか?

子供? 血の繋がった冷たい子供より、親身になってくれる他人が良く思われたりしませんか? あなたは子供を育てる前に、親としての資質が備わってきていますか?

老後?一体誰をあてにして、支えてもらおうというのですか? そう言う前にあなたは子供や周りの人に十分親身になって尽くしたことが一回でもありますか?

偽りの家庭で、愛情で守られない家庭で育てられた子供に決して良い影響は与えません。それどころか、人々は利害関係の核である家庭が崩壊し、個人が欲望の核になって一人歩きしてしまった。家族同士の不信感がはびこり、現代人は個々がより孤独を感じ、ひとり寂しくすきま風をこころの中に吹かせながら生きている。それだから余計に生活の安心、健康に対する不安、死ぬことへの恐怖を膨れ上がらせてしまっています。

思えば私たちは、「生命はひとつである」というこの真理から、随分と遠ざかってしまった。もう一度、人間関係のあり方、生活の仕方に対して、真剣に取り組まなければならないというのが今の状況なのだと思いました。そうした意味で、家族というものについて考えを改めることが今、迫られていると思うのは私だけでしょうか?

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2010年4月30日 (金)

家族について(12)

いまも増え続ける老人人口を介護保険制度で、なんとかしようという政府のもくろみがそもそもいやらしい。子供たちは何をしているのか?

自分の子供を育てるので精一杯というが、少なくとも自分たちも両親から育ててもらった恩はあるはずである。

政府の見解だと、ゆくゆくは介護ヘルパーが24時間体制で見守り、何かあったらすぐにとんで行き、世話をするというもの。また、在宅か、施設かをご老人が選べるようにするというもの。しかし、この発想には根本的に欠けているものがある。それは愛情です。たとえヘルパーさんがどんなに優秀でも生活のために労働の対価として仕事をしている以上は、家族並みの情を求めることはできません。単に世話をするだけなら、そのうち介護ロボットが進化して、やってくれるだろう。

今のお年寄りは謙虚な人たちが増えている。自分の世話をしてもらうのが気の毒だというのである。一方で、ヘルパーさんに来てもらいたくないという理由の一つに自分の家であれこれいじくり回されたくない、人を信用できないという。

実の子供でさえ、親への愛情も薄れている昨今、信用できないのもわからなくもない。

結局誰も、自発的に愛情を示すことができない、いやしたくてもできない?言い訳のもとにただ、忙しくあくせくと生活のための生活者になってしまっています。

現代は愛を見失ってしまっている。しかし、だからこそそれだけ愛情に飢えている人の数も多いのが現状ではないのでしょうか。

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2010年4月29日 (木)

家族について(11)

老人

子供だけではなく、老人の独り暮らしの孤独死についても考えねばなりません。なぜ子供がいる人は子供に世話してもらえないのか? 今の介護保険では手続きが難しすぎて、老人には利用できないこと等、国の施策には問題があります。それも本人の立場になって考えられていないことが原因だと思います。週に二、三回のデイサービスでどれだけの世話が約束されるのでしょうか。

実の親子でさえ、親の面倒をみていこうとする人たちは少なくなってしまいました。なぜなのでしょうか?

兄弟姉妹が少なく、不自由なく育ってきた環境の人たちが大人になったということ、経済不況下で家計を圧迫している若年層の親たちの共働きが多いこと、などが考えられます。一方で、子育てが終わった熟年層の親たちは、自分の趣味のための時間が欲しい、会社勤めで精一杯という声が聞こえてきそうです。

働く独身者たちも、両親が、特に病気で寝たきりだと、ヘルパー任せになったり、会社を辞めてまで介護するということも最後の手段と考えています。

一人暮らしの老人は、誰にも看取られることもなく、最後を迎える可能性が高いのです。

これは私たちの今と将来に続いてゆく暗い現実でもあるのです。

老人虐待も、こうした背景から起こったりします。

高齢化社会が加速する今、老人の独り暮らしは小手先の介護保険制度でカバーし切れるものではありません。個人をしあわせにする家族の在り方が、真剣に問われているのです。

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2010年4月22日 (木)

家族について(10)

虐待

親が未熟であるか、精神的疾患を抱えているか、よほどのことがない限り幼児虐待という問題は起こらないのだと思います。現代の抱えるこの我が子の虐待については、別の問題が指摘されたりしています。

つまり、この日本においては経済的に成熟した社会でありながら、貧富の差が大きいのだということです。私たちは定職に就いている限り、中流生活ができていました。ところが今は経営者やトップと生産労働者との賃金格差が以前にも増して開いてきています。それ以上にデフレ社会で物が売れない状況で、必要労働者も減ってきており未だに求人倍率が1.0を超える気配はありません。派遣労働者の不安定な雇用の増加も生活者の貧富の差を拡大してきました。

親が子供を虐待するということの背景には、失業した親たちや、低賃金で働かされている両親のもとに生まれ育っている子供が多いといいます。このことは日本社会で子供が平等に育てられていないという現状を示しているといえます。

日々の生活に困っているストレスから、そのはけ口が子供に向いた結果、幼児虐待が起きるという構図があるというのです。なぜ、このような社会になってしまったのでしょうか?単に経営者や役員と労働者の格差が開くだけでなく、正規従業員と臨時社員、パートやアルバイトの格差も拡がってきています。これは毎日定職に就いて働いている人たちですら、失業者を始めとする不定期就労者の心情を理解しにくいという結果につながっています。幼児虐待は、「かわいそう」とか「ひどい親だ」でレッテルを貼られてしまうのではないでしょうか。

社会全体で子供を育てていかなければならないという政府の主張もわかりますが、私たちは単にお金を与えるだけで解決できないさまざまな問題を抱えていることにもっと気づく必要があるのではないでしょうか。

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