2009年8月 4日 (火)

付き合いの距離

 もしあなたがあなたの愛を永遠のものにしたかったら、あまり近づきすぎないこと。なぜならば、もし近づきすぎたりしたら、遠ざかる必要が起こって来るからだ。もし近づきすぎたりしたら、そのときには、あなた方はお互いの自由を侵害し合う。そして、誰しも自分のスペースを必要とするものだ。

 愛は、それがあなたのスペースと共存するときにはビューティフルだ。が、もしそれがあなたのスペースを侵害しはじめたら、そのときそれは有害になる。

 もしあなたがあまりにもはいり込みすぎたら、もしあまりにも近づきすぎたら、あなたは敵対関係をつくってしまうだろう。けっしてあまり近づきすぎないこと。つねに一定の距離を保っておきなさい。

太字:TAO 老子の道」OSHO めるくまーる社刊より

 人付き合いの距離というものがある。それをわきまえずにずかずかと侵入してくる人たちがいる。彼らは、自分中心に世界が回っているかのようだ。別に悪気があるわけではない。

そういう人たちは、何か頼みごとをきいてあげたら、次々と言ってくるから気をつけなければならない。そんなときは、たまには断る勇気をもとう。

 ここで和尚が言っているのはそういうことと少し違うような気がする。

 誰かを愛するということは、その人を束縛することではない。相手には相手のからだとこころの自由がある。そのすべてを認め、受け入れるということである。

もちろん、その自由の基礎として分かち与える愛がある。だが、それを相手に強要してはならない。また、相手のことを愛するからといって、その見返りも求めてはいけない。

そもそも、慈悲深い愛とは、相手のことを束縛しないのだから、それは自由を保証する。

 愛とは自分を失うことではあるが、決して自分を見失うことではない。これをヒントに和尚の述べる上の言葉をもう一度読み直してみよう。

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2008年11月 5日 (水)

見ること(3)

「シャワリング ウィズアウト クラウズOSHO」から続く

 あなたに消え去る用意ができたとき、もう一方にも消え去る用意ができる。あなたの用意が、もう一方のこだまを整える。

消え去る用意など、私たちには到底できない。けれど、自分の心の整理がついたとき、周りの環境も落ち着いてくるといったことは経験したことはないだろうか。

ちょうど、ふたつの雫がどんどん近づき、消え去る用意ができるようにー それらはお互いに溶け入り、ひとつの雫になる。ひとつの雫になるすべは愛だ。この愛を知る者は、神を知る。

 だが、そうなると彼は困ってしまう。「神はどこにいる? 」と尋ねると、彼は「俗世はどこにある?」と尋ねるだろみなう。これが幻の意味だ。あなたが「神は見えない」と言うと、彼は「目に見えるものはみな神だ。それ以外はみな幻だー 神だけが存在する」と言う。

愛を通して知られる世界が神だ。愛なくして知られる神が俗世だ。これらがあなたの見方だ。

私たちは、世界に俗なるものと、聖なるものとの両方を見る能力がある。それぞれの見方に応じて、世界は色を変えていく。覚醒した意識と無意識、この中間に居るのが私たちだ。あれもこれもと目移りせず、一つのものに意識を定めて見つめてみよう。それだけで、世界の理解や認識が深まってくることがあるものだ。

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2008年11月 2日 (日)

見ること(2)

「シャワリング ウィズアウト クラウズ:OSHO(市民出版社)」より

  究極の見ることは、いつ起こるのだろう? なぜ愛は、究極の"見ること"と呼ばれるのだろう? なぜか? それは愛の瞬間、見つめる人と見つめられるものがひとつになるからだ。愛の真の意味は、あなたとあなたの見ているものは別でないということだ。あなたは開いており、あなたは近くにいて、あなたが見ているものにたいして心を開いている。あなたが見ているものは、あなたの愛しい人であり、見知らぬ人ではない。あなたは彼のことを別人ではなく、自分の延長だと思うー あなたは彼とひとつだ。

愛とは、あなたがあなたの見ている人とひとつであり、分かれていないという意味だ。

あなたのハートと彼のハートは共に鼓動し、あなたの呼吸と彼の呼吸は同じリズムで動く。あなたの実存と彼の実存の間に壁はない。これこそ愛の真の意味だー 

あらゆる壁が消え去った。そして、見つめる人は、見つめられる人になった‥‥

 あなたは花を見る。花は向こうにあり、あなたはここにいる。ゆっくりゆっくり、花の体験だけが残るまで、両者は消え去っていく必要がある。体験する者も花も残ってはいない。ただ、両者の間に流れる体験だけが残るべきだ。観察者も被観察者も消え去る地点で、ダルシャンが起こる。

 和尚という人は、イエスキリストに劣らず、愛の伝道者でなかったかと思う。和尚は私たちが、目が覚めるまで何度でも同じことを別の角度から、叩き続ける。その要点は、私たちは全体の一部であり、それぞれに離れてはいないということだ。

 愛は至高なるものだ。愛を通る以外に、それを知るすべはない。生のもっとも貴重な瞬間は、愛の影として訪れるー そのことに思いを馳せたことはないかね? 見つめたことはないかね? 味わったことは、知ったことはないかね? あなたは。自分の愛する人のことしか知らない。どんなに懸命に試みても、愛していない人については、そのまわりをぐるぐる回り続けるばかりだー 人々が寺院のまわりをぐるぐる回るように、それは表面的でしかない。あなたは外側ばかりうろついて、内側に入ることができない。というのも内側に入る可能性は、自らが喜んで愛の中に溺れ、溶け去るのを望んだときにはじめて生まれるからだ。

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2008年10月29日 (水)

見ること(1)

見ることとは、愛すること、愛の中でひとつに溶けあうことをいう。

我々はひと時も休むことなく絶えず何らかの思考を通してものを見ている。この習慣のせいで、純粋に見ること、そのものに徹することができなくなっている。

 インドにおいて、形而上学はダルシャンー 見ることと呼ばれている。西洋では「哲学」という言葉を使う。「哲学は」ダルシャンほど価値ある言葉ではない。「哲学」とは考えること、黙考することであり、見ることではない。哲学とは生について考えること、黙考し結論を出すという意味だ。ダルシャンとは、考えることや結論づけることは、いずれも真理ではあり得ないという意味だ。なぜなら、あなたの結論、あなたの思考には、あなたが含まれるからだ。あなたの定義は、あなたの定義だ。

言葉を持ち込まず、ただ直接見るがいい。

 私たちが見ている世界、いわゆる俗世は人それぞれの世界である。それぞれが自分なりに認識した世界を映し出している。その意味では、共通認識している世界というのは存在しない。物理的に同じものを見ているではないか、と言えそうだが、それを見ているひとそれぞれの心を通して見ているから、厳密に同じとは言えない。マインドという心を通してみているからそれは、真実ではあり得ない。

 シャンカラは「俗世は幻だ」と言う。しかしそれは、俗世は存在しないという意味ではない。それは、あなたが現実を正しく見ていないから、物事がありのままに見えないという意味に他ならない。あなたの認識は誤りであり、この「俗世」はあなたの認識だ。それは真理に対するあなたの投影だ。

あなたは真理を知らない。ただそれを定義するだけだ。そして、あなたの定義は誤りだ。「俗世」とは、無知な人間によるブラフマン、すなわち究極の真実の定義だ。

 「私たちは真理を知らない」、ということを常に謙虚に受け止めていないといけない。

 そして、気づきを持って目を開き、そこから愛の潮流が流れ出るとき、あなたはこの同じ世界を違った角度から、違った視点から見るだろう。すると異なる様相が現れ、あなたの定義はすっかり変わる。そのときあなたは、「これまで見ていたものは誤りだった」と言うことができる。なぜなら、このさらに広大な真実に直面すると、あなたの見ていたものは無意味になるからだ。そのときあなたは、「これまで見ていたものは、どれも間違いだった。この新しい展望が、それを帳消しにした」と言うだろう。

あなたの見ること決め手となる。‥

以上、太字: シャワリング ウィズアウト クラウズ OSHO(市民出版社)から引用

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2008年9月11日 (木)

信頼(1)

「タントラの変容:市民出版社」和尚から

 いつだったか、こんなことがあった。惨めさに打ちのめされた男が、非常に取り乱してわたしのところへやって来た。「わたしは死ぬつもりだ。」

「どうしてかね?」わたしは言った。

彼は言った。「信じていた妻に裏切られた。わたしは完全に信頼していたが、妻は他の男を愛していた。今の今までわたしはそれを知らずにいた。何通かの手紙を手に入れて彼女に聞いた。執拗に問い詰めた。妻は、これまでずっと愛してきたと告白した。わたしは死ぬ」と彼は言った。

わたしは言った。「彼女を信頼していたと言ったのではないか?」

彼は答えた。「そうだ。わたしは信頼していたが、彼女がわたしを裏切った」

「信頼ということで、あなたは何を意味しているのだろう? 信頼について何か間違った観念を‥‥ 信頼も政治的であるようだ。彼女が裏切ることのないようにと、彼女を信頼したのだ。あなたの信頼は詐欺だ。今度は、彼女に罪悪感を抱かせたいと思っている。こんなものは信頼ではない」

彼は非常に困惑した。彼は言った。「もし、これが信頼でないとすれば、あなたは信頼をどう意味するのか? わたしは無条件に彼女を信頼した」

 わたしは言った。「あなたの立場だったら、わたしにすれば信頼とはこういうものだ。わたしは彼女の自由を信頼し、彼女の知性を信頼し、彼女の愛の受容力を信頼する。彼女が他の誰かと恋に落ちるなら、それもまた信頼する。彼女は知性的だ。彼女は選択できる。彼女は自由だ。彼女は愛せる。わたしは彼女の理解を信頼する」

 あなたは、どういう意味で信頼と言うのか? 信頼するとき、あなたは相手の知性を信頼し、相手の気づきを信頼する。あなたはそれを信頼する。他の人と愛に入っていくことを相手が望んでもそれは完璧にOKだ。痛みを感じるとすれば、それはあなたの問題であり、相手の問題ではない。 痛みをかんじるなに、それは愛のせいではなく嫉妬のせいだ。これは一体どういう類の信頼だろう、あなたが裏切られたという、その信頼とは? わたしの理解する信頼は、裏切られないものだ。まさにその本質からして、まさにその定義からして、信頼は裏切られるものではない。信頼を裏切るのは不可能だ。裏切ることが可能であれば、それは信頼ではない。

 これは理解するのが難しい。

男が、「彼女が裏切ることのないように彼女を信頼した」と言っているように、私たちの信頼は期待が混ざっている。自我は自分の都合の良いように納まってくれる相手を絶えず捜している。自我は、無視されるのが怖いのだ。だから自分のことを愛してくれる、気にかけてくれるのなら、それにつりあった愛情しか示さない。「他人にしてもらいたいのなら、まず自分からしなさい」というのも、自我は自分に跳ね返って来ることを期待する。人間的な愛とはけちなものだ。

 和尚の云う信頼とは持っている偽りの自我を明け渡すことだ。自我が集団意識から個人の意識へと高められたとき、持っている自我を明け渡すこともできる。自分というものを見失っているのではなく、大きな自己とつながった成熟した自我がそこにあるが故に、相手の選択の自由も認めるものだ。

 私たちは誰かに依存ししていないとやってゆけない。私の愛が誰かに向けられたものであるとき、それは相手に依存してしまっている。自分との関係が失われることへの不安が自我に働いているのだ。和尚の愛は内側から溢れ出るものであり、対象に依存しない。そして相手を選ばない。和尚の愛は常にそこにある。私たちは小さな自我にこだわりつづけて生きている。たかだか何十年の生を守るために生きているのだ。この小さな自我を明け渡さなければ大きな自己にたどりつけない。自我の殻は私たちが本来持っている光の存在としての自覚をいつしか見失わせてしまった。

私たちは、自分で刀を手にしていることも知らないで、あなたを信頼していますと言っていることに気づかなければ、安らぎはやっては来ない。本文に戻ろう。

 支配が存在するとき、愛は消える。所有が存在するとき、愛は消える。

 あなたが真に彼女を愛するなら、彼女の自由もまた、愛する。そして彼女はあなたの自由を愛するだろう。人を愛していて、どうしてその自由が破壊できるだろう?

人を信頼していれば、その自由をも、あなたは信頼する。

 

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2008年9月 6日 (土)

野心と愛(2)

前回の続きです。

 野心や利益という想いを持って愛するなら、達成願望や何らかの動機を持って愛するなら、あなたの愛はそれと同じ割合だけ毒されるだろう。だから、あなたの愛は幸せをもたらさず、苦悩ばかりが生まれるのだ。

 父親は息子のことで機嫌が悪く、息子は父親のことで機嫌が悪い。‥他人のことで機嫌のいい者は、一人もいない。それは愛がないからだ。このいわゆる愛は、他の動機に結びついている。その動機こそが苦悩のもとだ。

 母親は思っているー 息子が成長したら、自分の満たされなかった野心を成し遂げてくれると。息子は。彼自身の願望によって世に生まれた。あなたの野心を満足させるためではない。‥

 誰もが自分の野心や、カルマの束縛を持っている。誰もが自分自身になるために生まれる。わずかでも他人に期待を抱いていたらそれは毒のようにはたらくだろう

 母親は考えるー 息子が成長したら、夫のかなえてくれなかった満たされぬ夢をかなえてくれるだろうと。しかし、息子は別の女性と結婚するー すると彼は、彼女の期待をかなえるだろうか、それとも母親の期待をかなえるだろうか? 他人の期待をかなえられる者などいるかね?  自分の願望は、決して満たされることがない。まして、他人の願望などは満たせない。あなたの愛に野望があるとき、これこそが問題なのだと理解しなさい。問題はあとからやって来るのではない。その種子は、野望の中に存在しているのだ。

以上、「シャワリングウィズアウトクラウズ:和尚(市民出版社)」

 あなたの野望に問題があるとき、これこそが問題なのだと‥ さあ、それは頭の中でしか理解していないことが多い。私たちは、何度も同じ過ちを繰り返す。それは、自分自身が決して自分らしくいられるように生きてきたからではないからだ。親に期待され、周囲から期待され、他人の期待でがんじがらめになった人が、どうして関わる相手に期待を抱かずにおれようか。

自分が自分であるために生きようとする人は、相手に野心を抱いて接することがない。お互いの生き方を尊重できるからです。現実は、相手から期待され、自分も期待する、そうして相手の期待に応えようとしているうちに自分を見失ってしまう。それは親に育てられる段階でもう始まっている。

誰も、他のひとの野心を満足させるために生まれてきたのではない。お互いの野心を満足させることが愛なのではない。そのことと、純粋な愛とは別なのだということを和尚はいっている。誰もが抱きもつ、相手への期待、自分は相手に何を期待し、相手は自分に何を期待しているのか、そのことがわかるだけでも、明らかにするだけでも、それが純粋な愛に一歩近づくことになっているのです。

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2008年8月31日 (日)

野心と愛(1)

 女性の覚者に関する講話からです。以下は弟子が、「人間はみな少なかれ野心を持っているため、人間の愛はみな偽りなのでしょうか? 」という質問に和尚が答えたものです。

 愛の中に野心があればあるほど、同じ割合で愛は偽りになる。野心が少なければ少ないほど、愛はよりいっそう本物になる。誰かを愛するときあなたは愛そのものゆえに愛するだろうか? 別の動機がたくさん見つかるほど、愛は少ない。「なぜ、この人を愛しているの? 」と訊かれたら、あなたは何の理由もつけられなくて口ごもるだろう。

あなたは言う、「何の理由もないさ、それはただ起こった。探しても、まったく理由は見つけられない。自分でも理解できないんだ」。

覚えておきなさい。愛はまったく理由のない瞬間にのみ降りてくる。理由があるものは俗世に、理由のないものは神性に属している。

人生で成功している人々は、愛もなく生きている人たちだ。愛と成功は馬が合わない。なぜなら成功のためには非情でないといけないが、愛はあなたが非情であることを許さないからだ。愛とお金は同時に達成できない。なぜなら、お金を貯めるには暴力が必要だからだ。そして愛は、それほどの暴力には耐えられない。愛と権力の結びつきはあり得ない。なぜなら、権力には気違いじみた猛進や、熾烈な競争が必要だからだ。

以上、「シャワリングウィズアウトクラウズ:和尚(市民出版社)」

 話は変わるが、今、先進国と開発途上国、資源国との間でも、資本主義原理に基づく弱肉競争が繰り広げられている。それは他人事ではなく、私たちの職場や生活に既に響いてきている。企業間の駆け引きなど、愛などの関与するところではない。誰がより裕福な生活を勝ち取るかでは納まらない。誰が生き残るかという瀬戸際までそのうち追い込まれるだろう。そのときにあっても、では自分は生き残るに足る人間であったかを、問われなければ生きている値打ちが測れないというものだ。命に優劣はないが、生き方に責任は問われるのだ。自分が死ぬときに、果たして生きてどれだけ値打ちのある生き方をしてきたか、それだけが最後に問題となるのである。いかに生き残るか、いかに裕福に過ごすかではない、いかに生きてきたか‥ それは今もひとりひとりの中に問われねばならないのである。

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2008年7月21日 (月)

愛と慈悲(3)

「シャワリング ウィズアウト クラウズ:和尚」より続く

セックスは愛を期待することであり、慈悲は愛を与えることだ。愛は狭間にある。そこでは、与えることと受け取ることが同等だ。これまでセックスで満たされた者はいないが、人は常に慈悲によって満たされる。愛はセックスと慈悲の狭間、その中間にぶら下がっている。そこにはいくらかの満足があり、いくらかの不満も残っている。なぜなら、愛は半分が慈悲で、半分が欲望だからだ。愛は半分半分だー だから喜びの瞬間も多く、苦しみの瞬間も多い。

 残念なことに、九十九パーセントの人は愛を体験したことがない。慈悲など問題外だー それは遥か彼方の夢であり、幻影だ。百人のうち九十九人が欲望のうちに死ぬ。では、彼らの幻想とは何だろう? その幻想とは、自分たちが愛していたと思いこむことだ。

だからもっと考えなさいー あなたが愛を受け取ったか否かを問う前に、愛を与えたか否かをよく見なさい。

セックスと神性の間には梯子が要る。その梯子とは愛だ。

‥一歩一歩、昇りなさい。セックスから愛へ移行しなさい。すると天国のそよ風が少し吹き始める。そしてそれらを見ると、もっと何かが起こり得るという希望を抱くだろう。今日は小さな島だったものが、明日には大きな島になるかもしれない。水の上にもう少し顔を出しなさい。先に進み続けなさい‥‥。求めることから少しずつ手を引き、与えることにもっと注意を払いなさい。分かち合うことだ。

 セックス、愛、慈悲ー これらは愛の段階だ。生には、さまざまなレベルの愛がある。だから私は、愛は神性よりも偉大だと言う。愛の中で昇っていくと、神性に行き着くからだ。あなたは与える者として在るのではなく、ただ与える行為となるー あなたの慈悲がそのようなものである日、与える者が背後に残されていないとき、行為者という意識がないときー その日、その日はじめて、あなたは神性となる。あなたのエゴが落ちる日、その日あなたは神性になる。すると境界は残っていない。そのときあなたは永遠なるものの中に入り、永遠なるものがあなたの中に入る。

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2008年7月20日 (日)

愛と慈悲(2)

シャワリングウィズアウトクラウズ:OSHO から引き続き引用。

 セックスは愛のもっとも低い形だー すべてを求めながら、何も渡さない。

慈悲は愛のもっとも高い形だー すべてを与えながら、何も見返りとして求めない。それは愛の究極の高みだ。そこですべてを捧げ、何も求めない。そのときあなたは人を目的とし、自分自身を手段にする。あなたは言う、「明け渡すことができて幸せです。あなたのために生きようと死のうと、私は幸せです。どんな状況でも幸せです。何の期待もありません。私の明け渡しを受け容れてくれて感謝します。私は捧げましたが、あなたは拒絶しませんでした。それだけで十分、感謝します」

 そして、これは興味深いことだー セックスの中では求めても手に入らず、慈悲の中では求めなくても受け取る。これが生の神秘だ。これが生の逆説だ。期待する者は満たされぬままに死に、慈悲を抱く人は常に満たされる。なぜなら、生はこだまを返すからだー あなたは、何であれ自分が与えたものを受け取る。この世では、あなたの受け取るものは他人に依存しない。あなたは自分が与えたものだけを受け取る。

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2008年7月18日 (金)

愛と慈悲(1)

前のコメントにも書きましたが、私が和尚の本を紹介したいと思ったのは、日本であまりにも取り上げられていない現状を嘆いてのことです。色々な思想家をみてきましたが、覚者であり、かついままでの覚者を取り上げて自分なりに調理するといった手法は彼でなければできないワークだったと思います。

今日は、18世紀の女性神秘家であり、覚者でもあるサハジョの詩を題材に和尚が語った本を紹介します。まずは、この中でも平易に書かれていて、確信に触れているテーマを取り上げてみました。探究者の質問するところからの引用です。

シャワリング ウィズアウト クラウズ「女性の覚者に関する講話Ⅰ」:市民出版社

愛と慈悲の違いは何でしょう?

セックス、愛、慈悲ーこの三つの言葉を理解しなさい。

セックスは愛という梯子の始まりであり、梯子の一段目だ。慈悲は愛の最後の一段だ。愛は梯子全体の呼び名だ。セックスはもっとも地に落ちて、もっとも低い愛の境地だ。セックスとは、私は人から何かを得たい、私は人がいないと不完全だ、私は人がいないと空っぽだ、私は人で自分を満たさずにはいられないという意味だ。‥セックスとはー 私は人を手段として利用したいということだ。夫は妻を利用し、妻は夫を利用している。彼らはお互いを手段として利用している。だから、それほどまでの怒りがあるのだ。誰も手段などになりたくないのだから。一人一人の魂は、それ自体が目的だ。‥

自分のために他人を利用することは欲望だ。あなたは愛について語るだけだ。-

あなたは「愛しているよ」というが、内側では相手も自分のことを愛すべきだと望んでいる。だから人々が私のもとに来るとー 何千人もやって来たが、彼らは「私はいとしい人から愛を貰えなかったのです」と言う。「私はいとしい人に心から愛されています」と言う人には、一人も出会ったことがない。これは興味深い現象だ。来る人はみな「私は、いとしい人を心から愛しています」と言う。決してそれを疑わない。そして、「相手から愛を貰っていないのです」と言う。そして、他の人が私のもとにやって来ても同じことを言う。「私のいとしい人ー 私は愛を捧げましたが、愛を貰っていません。私は騙されてきました。ごまかされ、裏切られた気がします」。そして、しばしば両者がやって来るー 夫婦が、父親と息子が、友人たちがやって来る。そして両者とも、「私は愛してきました」と同じことを言う。真相は、彼らの中で愛したことのある者は一人もいないということだ。いいかね、心から愛したら、必ず同じものが返ってくるー それはこだまを返し、戻ってくる。与えたものはすべて、必ず戻って来る。

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2008年7月16日 (水)

嫉妬と愛

前回紹介の書籍から、探究者の質問に和尚が答えました。

以下、「タントラの変容:市民出版社」より

タントラの変容―サラハの王の歌

愛する和尚、なぜ嫉妬はいつも、影のようにつきまとうのですか?

嫉妬は愛とは関係がない。実際、あなたの言うところの愛もまた、愛とは関係がない。その意味も知らず、その意味を体験したこともなく、あなたが使っている美しい言葉がある。あなたは愛という言葉を使い続ける。あまりにもその言葉を使いすぎて、自分がまだ愛を体験したことがないという事実を忘れている。それは美しい言葉を使う危険のひとつだ。`神゛゛愛゛゛ニルバーナ゛゛祈り゛といった美しい言葉を。あなたはそれらを使い続ける。それらを繰り返し続ける。少しずつ、まさにその繰り返しが、さも自分が知っているように感じさせる。

 愛についてあなたは何を知っている? 愛を知っていれば、こんな質問できない。愛において嫉妬は顕われないからだ。だから嫉妬が顕われているなら、愛はない。嫉妬は愛の一部ではない。嫉妬は所有の一部だ。所有は愛とは関係がない。あなたは所有したいと思っている。所有することで、あなたは強さを、自分の領域が大きくなったと感じる。他の人があなたの領域を侵害しようとすると、あなたは怒る。あるいは他人が自分の家よりも大きな家を持っていると、あなたは嫉妬する。‥愛していれば嫉妬は不可能だ。まったく不可能だ。

あなたは実のところ、あなたの女性、あなたの男性、あなたの友人と愛にない。愛にあれば、彼または彼女の幸福は、あなたの幸福でもある。愛にあれば、どんな所有も生み出さない。

 愛は完全なる自由を与えることができる。愛だけが、完全なる自由を与えられる。自由が与えられなければ、それは何か他のものであって愛ではない。それはエゴイスティックなトリップの何らかの型だ。

あなたは尋ねる「なぜ嫉妬はいつも、影のように愛の後についてくるのですか?」

絶対にない。愛はまったく影を作らない。愛はあまりにも透き通っているので、影はできない。愛は固形物ではない。愛は透明性だ。愛から影は一切生まれない。愛は影を作らない地上で唯一の現象だ。

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2008年7月 9日 (水)

必要性と愛

和尚がイエスについて副題:隠されてきたキリストについて語った書について紹介します。

私たちが、普段、愛しているというとき、それは相手が必要だから、相手に愛してもらいたいから、相手に認めてもらいたい、受け入れてもらいたいということの裏返しの意味で使うことが多い。私たちのエゴは、まず、誰かに自分の存在を認めてもらい、愛してもらいたいのだ。そういう意味では、この世は愛されたい人の集まりであり、お互いに必要関係で支えられているのが人間である。しかし、イエスの愛は与える愛である。少なくとも、私たちが目指すところはイエスのように愛の人になることのようにも思う。

「愛の錬金術、下巻:めるくまーる」より

誰も自分自身をみようとしない。その眼は他者に向けられる。その耳は他者に傾けられる。その手は他者のほうに伸ばされる。誰ひとり、自分自身に向かう者はいない。誰ひとり、自分に耳を傾け、自分を見ようとする者はいない。

愛は、あなたが結晶した霊魂を<自己>を得たときに起きる。自我があってはけっして起こらない。エゴは愛されたいと欲する。なぜならそれがエゴの必要とする食料だからだ。

あなたは自分が必要とされる人間になるために愛する。あなたは愛しているから子供をつくるのではない。自分が必要とされるためだ、こう言ってまわるためだ。

「私が果たさなければならないたくさんの責任を考えてもみてください! 私の負っている義務の大変なこと! 父親であるというのは大変なことなんです。母親であるというのはたいへんなことなんです‥‥。」

これはただあなたのエゴを美化するだけだ。

この必要とされる必要が落ちないかぎり、あなたは孤であることはできない。

ヒマラヤに行ったとてあなたはそこに社会を創り出す。そしてもしこの必要とされる必要が落ちたら、どこにいようとも、市場の真ん中に住もうと、都会の中心地に住もうと、あなたは独りでいる。

そて、このイエスの言葉を理解するよう努めなさい。

イエス、言う

「選ばれて独り立つ者は幸いである

その人は<王国>を見いだすだろう

なぜなら

人はそこから出てきて

ふたたびそこに戻ることになるからだ」

この言葉ひとつひとつの内部に浸透してゆくがいい。

「選ばれて独り立つ者は幸いである‥‥」

独り立つ というのはどういう人だろう?

必要とされる必要が落ちてしまった人、あるがままの自分で完全に満足している人だ。「あなたには存在意義がある」と他者に言ってもらう必要のない人だ。その存在意義は自分のなかにある。それは他者から与えられるものではない。彼はそれを物乞いしない、彼はそれを求めはしない。彼の存在意義は彼の存在そのものからくる。彼は乞食ではない。彼は自分独りで生きられる。

あなたは自分独りで生きることはできない。

我々は独りでは生きられない。十分に愛された環境で育たない限り、自分を偽ってでも誰かに受け入れたいと思うのだろうか? 愛゛の人になるためには、まずいつも携えているエゴを捨てなければならない。しかし、我々はこの必要関係のなかで、何かを学ぶことからしか始められない。

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2008年4月19日 (土)

友愛

 最近政治家に失望している人は多いと思います。けれど、そもそも政治家に何を期待するつもりなのか? いったい誰を信じて生きていこうとしているのか? 人を信じる前に自分自身を信じることから始めないといけない。自分を心から愛していかないといけない。そこからしか、本当の人との友情、信頼はあり得ない。責任を取る気持ちもない人たちに頼るのはもうやめませんか? 自分の人生に責任を取る用意のない人は、その責任を他の誰かに頼ることで安心を得ようとしています。自分の中のこの奴隷になりたがる傾向を深くみつめましょう。

前著「ニューウーマン誕生」からまた紹介します。

「覚えておくべきもっとも大切なことは、人は独りでいることができないから友達がいるということだ。そして友達が必要である限り、人は大した友人にはなれない。というのは、その必要性が相手を対象物にしてしまうからだ。

友達はあなたを必要としている。彼は自分ひとりでいるのが恐い。あなたは彼を必要としている。自分ひとりでいるのが恐ろしいからだ。ふたり一緒にいれば、その孤独が消えることになると思うかね。それはただ足し算されるだけだ。もしかしたら、掛け算になるかもしれない。だからこそすべての関係は、より多くの惨めさと、より多くの苦悩に導くのだ。

自分が独りであること、空虚であることを受け入れた瞬間、その質そのものが変化する。それはまさにその反対になる。ありあまるほどの豊かさ、充足、エネルギーと喜びの氾濫になる。この氾濫からあなたの信頼が生じるなら、それは意味をもつ。

独りでいることのできる者にしか、友人になることはできない。だが、それは彼にとっては必要性ではない。それは彼の喜びだ。それは彼の飢えではない、渇きではない。彼が分かち合いたいのは、溢れ出る愛だ。

そのような友情が存在するとき、それは友情と呼ばれるべきではない。なぜなら、それは全く新しい次元に入ったからだ。私はそれを友愛と呼ぶ。それは関係を超えた。なぜならあらゆる関係は、何らかの意味における束縛だからだ。それは、自分を奴隷にし、他人を隷属させる。友愛は、どんな条件もなく、どんな期待もなく、何の見返りも、感謝さえも望まない、ただ分かち合うことの喜びだ。

友愛は、もっとも純粋な愛だ。」

先達の教えを噛みしめて、共に歩んでいきましょう。

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2008年3月15日 (土)

結婚と自由

ニューウーマン誕生:和尚エンタープライズジャパン」に結婚してなおかつ自由であることは可能なのかという質問に答えた、名文(と私は思っている)をご紹介します。著者は結婚という制度そのものに反対なのですが、問題は人間が作った制度によって自然に成長しようとする心が歪み、ゆがんでしまっている現代を愛と自由をとり戻すためにこの本では色々なことを述べてくれています。私は、人と共に暮らしていくための基本的な理解として、この名分を貴重なものとしていました

結婚して同時に自由であることは可能ですか?

それは難しい。しかし、不可能ではない。ただ少しの理解が必要だ。ニ三の基本的な真理が認識されねばならない。

第一に、誰も他人のために生まれてはいないということ。

第二に、誰も人はこのようにあるべきだというあなたの理想を満たすために、ここにいるのではないということ。

第三に、あなたは自分自身の愛の主人であり、自分の望むかぎりを与えることができるが、誰も奴隷ではないのだから、相手から愛を要求することはできない、ということ。

もし、これらの単純な事実を理解したら、そのときには、あなたがたが結婚しているかしていないかは問題ではない。あなたがたは一緒にいられる。互いの空間を許し合い、互いの独自性を決して妨害せずに。‥‥‥

結婚の目的は互いに自分たちを閉じ込め、自分たちを束縛することではない。その目的はあなたがたが互いに成長するのを助けあうことだ。しかし、成長には自由が必要だ。そして、過去においては、すべての文化が、自由がなければ愛は死ぬことを忘れてしまっている。

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