2009年11月 7日 (土)

自己への道程(3)

身に起きるあらゆる機会は、自分自身の気づきの糧です。しかし、その機会も人生を急がず、周囲の環境を見渡せる視点をいかに持てるようになるかに関わってきます。

人間が輪廻するということ、それが真実であると受け入れる人たちにとって、その視点を強化することにつながります。

何かをすることで、絶えず忙しく走り回っている現代ですが、だからこそ、ひとり一人との関わり合いの意味を立ち止まって見つめることも必要だと思うのです。

そして、そのことは、自分自身の生を豊かにするものと思います。なぜなら、生きることの意味は、自分自身を見つめ、発見していくことでもあるからです。そのことを忘れて、一回きりの生をただ、享楽を追い求めるだけに終わるあわただしいものになってしまう虚しさを味わってしまうことはとても寂しいと思います。

自分はどこから来たのか、

いま自分はどこにいて、

そしてこれからどこへ行こうとしているのか?

それを考えることは、狭いこの一回きりの自我に閉じ込められた自分からは思い及ぶこともないでしょう。けれどそれを考えずして、自分のあるべき方向性は決して見えてこないし、自分の幸せは常に他人に寄りかかって、自分の関わるひと次第ということになります。

短い視点でみれば、そういう人生でいいのかもしれませんが、残念なことに、人は自分の描くような普通の幸せの手の中で人生を歩ませてはくれないことがたくさんあります。

自分自身の足で立つ、つまり、自分の生き生きした姿を他人に寄らず自分自身の中に求めなければ人はいつまでたってもそのときの運命に翻弄されて生きることになります。

それではいやだというひと、続きを聞いてください。

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2009年10月30日 (金)

自己への道程(2)

人間は目標を立てて何かをするという知的な生き物です。しかし、目標を立てる前に、自分はどうしてここに生きている、生かされているのか立ち止まってみる必要があると思います。なぜなら何を目標とするにも、その前にその目標が自分にとってどういう意義を持つのか見つめることも大切だと思うからです。

しかし、ひとはそんなことを考える必要もないくらい、実際に自分にとって有意義となりそうな環境をおのづと作り出しているものと思われます。それは物事は偶然ではなく、ひとつの機会として与えられているからだと私は思うからです。

その機会を自分自身を生かすために使うも押し殺すために使うもそのときの自分自身にかかっています。

だからこそ、自分が今、置かれている状況に気づくことが大事であり、そこから自分は何を学び、何を学習しなければならないのかを考える習慣が身につくのだと思います。

そのためには、ひとつの見方として、輪廻の、生まれ変わりの考え方を肯定しなければ、よく見えてこないところが多いのではないでしょうか?

 自分の人生が何度もあるという考え方は、対人関係においても大きく影響します。

自分に偶然関わってくる人たちの意味が少しずつわかるようになってきます。自分に関わる人たちは、誰一人として偶然はないと言われたりしますが、偶然が偶然でなくなるには、私たちひとり一人の自己洞察力が必要です。今の自分に関わりあう縁があるということは、自分の中の何かがその縁を惹き起こしているといえるからです。

 

結局、ひとは、そのひとの自己洞察力に応じて、人と出会い、関わりあいを持つということが言えると思いますが、その縁ある機会が実を結ぶものにするかどうかは、くどいようですが自分自身にかかっています。

つまり、自分自身への気づきが問題なのです。

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2009年10月23日 (金)

自己への道程(1)

生は永遠に滅びることのない顕現だ(和尚)

人生はひとつではなく、私たちは幾つもの人生を味わってきた。これまでも、そしてこれからも‥

ただ、前世はかけがえのない一つの生であり、来世もまたかけがえのない一つの生である。そして、それは、自分の生を新鮮にする。

輪廻を否定する人たちにとって、良い事があります。

それは、この生が一回きりであり、過去や未来への影響を考えなくてよいということです。

ある意味で、このひとつひとつの生がつながっていないということは

    その新鮮さにおいて、かけがえのない体験ができるということ

    それぞれの生が独自性をもっており、その個性は一回限りのものであるということ

輪廻を否定する人たちにとって、良くない事もあります。

自分の生は一回きりなのだから

     どんなに悪いこと、ひとの嫌がることをしても、自分の死を以って裁かれる以外に責任をとるということはないということ

     いつまでも若くありたいと願うあまりに、歳を重ねることにおびえてしまうということ。

     世の中に対する執着、特に権力欲、そこから派生する物欲、支配欲(所有欲)異性欲などへのこだわりから、自分の死に対しての恐怖と病気といった未来に対する不安が絶えずつきまとうこと

     人生のその節々の瞬間を真に楽しめないということ、好奇心によるあらゆる冒険を躊躇してしまうということ

     人生は一回きりなのだから、すべきことがたくさんあり、健康な体であり続ける間に色々なことを経験したい。そして、何かすることに対してあわただしくなってしまうということ

輪廻を否定することは、その利点よりも、弊害のほうが多いと思われます。それなのになぜ人は自分の人生に対して、深く考えないのでしょうか?

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2009年8月27日 (木)

知性(4)

‥誰もがひとつのおおいなる約束として誕生する

だがその約束を果たすのは、ごくわずかな人々だけだ

‥自らの生に潜む約束を実現させなくてはならない

なるべきものになることだ

授けられた天意をまっとうすることだ

(「夜眠る前に贈る言葉」OSHO市民出版社より

知性的であるということは、自分の中に潜むこの約束を予感し

自分がなるべき自分へと、日々、まい進していくことなのだろうと思う。

授けられた天意とは、自分に与えられた資質を開花することであり、そのために知性的にならねばならないのだということ。

言い換えれば、生かされてあるこの自分が、出会った人たちや

関わりあう人たちに対して、今自分にできる、できる限りのことをするということなのかもしれない。

私たちは、日々の生活に追われて、自分にできるその少しでもできないで

後から後悔してしまうことが多い。

それは、生きていく上で、何が一番大切なのかということを

私たち自身、よく理解していないからなのかもしれない。

自らの生に潜む約束、あなたの場合、それは何なのだろうか?

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2009年8月22日 (土)

知性(3)

知性とは自分に与えられ、可能性として備わっている資質のことではないだろうか。

どんな職業に就いても、それを楽しめないとか、単なる生活のためにとかいうのならそれも仕方のないことである。しかし、ならばそれ以外に自分の知性を発揮できる場を見つけられなくては社会にとって実に大きな損失ではないだろうか? その場で生かされた自分は職場においてもなんらかの良い影響を与えるものである。

自分で自分の知性を見つけようとも思わなくなったら、生きるのがつらくなる。

なぜなら、人は自分の知性をもって社会に唯一その存在意義を示せるものであるのだから。

そうでなかったら、人はただ他人から与えられた仕事をいやいや仕方なくこなしていくだけの苦痛に満ちた日々を送ることになる。生活第一ではあるが、それだけで人はしあわせにはなれない。

楽して豊かな生活をしたいと望むひとは、自分自身の知性を見つけるのを放棄した人に他ならない。楽することで、一体何か楽しく、わくわくするような出来事でも降ってくるのだろうか?豊かな暮らしが必ずしもしあわせではあり得ない。人間は生き生きしていることが、本来の姿なのだと思う。

存在の神は、自分の知性の何たるかを知り、それを世界に生かし、還元していけるひとを大いに幸福にする。それは自ずからしたくなるような行為となって、周りの人たちをも変えていく力となるかもしれない。しかし、本人はそんなことは気にも掛けない。

要するにあなたは、自分の知性によって生き生きとした日々を送れるかということだ。それは他人に聞いても決して答えは得られない。だから自分で探すしかないのだ。

しかし、一度自分の知性をみつけたら、あなたは生き生きする。それが何よりの報酬であり、それが自分の本質を生きるということなのだと思う。

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2009年8月18日 (火)

知性(2)

必要なのは、自分で自分の才能がどこにあるのか見い出すことであり、これからの教育にとっては大切な課題でもある。それは教育次第ということがいえる。しかし、残念ながら、そうした自己教育の啓発は近年ようやく始まったばかりである。

現代の教育は、社会、とりわけ企業にとって即戦力のある人材が望まれているが、そういう人材は簡単に育つものではない。現代社会が求める人材とは、物をうまく作り、会話能力を持ち、自己表現力があるということ。

企業にとって人はなんでもこなせる人材を求めている。しかし、そのような人は少ないし、教育次第ではある程度育成も可能かもしれない。しかし、やはり数年そこそこで、その人の能力を最大に伸ばし社会に還元できるとなると、やはりその人の天賦の資質である知性がどこにあるのかを見いだしていくほうが早いのではないだろうか。結局、現代人は物に貪欲になったから品質の良い品物や、できそうもないと考えられていた物は手に入れることができたのであるが、それと人の能力までを混同してしまった。そのためにできない期待をかけられどれだけの人間がストレスなどによる精神疾患で社会から脱落していっただろうか。役に立つ人材を求めすぎる現代の風潮に疑問を抱かざるをえないのです。

 自分の赴く方向が結果として、他の人と似たような知性の持ち主であったとしても、それはそれでいい。

要は人の真似をして、自分を見失わないことだ。

何が、どの方向に自分が向いているのかやってみないとわからない。しかし、向いているということは①継続して続けられるものであるということ。②楽しんでやれるということ。③それをやるのに少なくとも努力しているとか、苦痛であるとかあまり思わないこと、であると思う。

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2009年8月14日 (金)

知性(1)

人はみな知性をそなえて生まれてくるのであって、ただひとりの例外もない。

あなたは自分自身の知性を

それがどこにあるかを見つけ出すだけでいい。

ひとたび自分自身の知性を見いだしたら、あなたは明晰になる。

「黄金の花の秘密:和尚」めるくまーる社刊

大学で教えるようなことだけが知性なのではない。

陶器職人が納得の行く焼き物を創るのにある種の知性が必要だ。

彫刻家がそのなかから仏像を掘り出すのに単なる技術だけでは魂の抜け殻に過ぎなくなるように、そこには別の知性によって彼自身の仏像を作り上げる。

人によって自分の知性の発揮する職業や、場面はまちまちである。

語学が得意な人にモノ作りを強要しても、その人は能なしだとさげすまれるだろう。無口で人付き合いの悪い人が、有能な職人だったりする。

「人はみな知性をそなえて生まれてくる」‥のであって、その知性は残念ながら百人のうちどれだけの人が発揮されているのかは疑わしい。

そもそも、近代教育は、個人のそれぞれの知性を伸ばすような工夫をして来なかった。

学習能力をテストで計るというやり方では、その人の才能は埋もれてしまう。

誰にでもわかる記憶力とか、計算力とか、暗記力とかでその人の才能は決して計れない。

政治家になるにはある種の人をたくみに騙すパフォーマンスとずるがしこさ、口上手さ、世渡り力などが必要となってくるが、それもその人の才能であると言えなくもない。

あなたはどんな才能を持っているのだろうか?

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2009年7月18日 (土)

野心(2)

 もし社会の根幹を見たら、不正というものは私たちの条件付け、教育、しつけが自然に成長したものであることを知るだろう。

 野望が腐敗を招く。野心的なマインドは、腐敗する運命だ。野心こそが狂気の種だ。それなのに、すべての教育が野心志向であるとは! 

あなたの父親は言う、「名のある人になりなさい!」と。そうやって野望は作り出されーあなたは病気になってしまう。

太字-「グレートチャレンジ 和尚:市民出版社より」

 野心とは、いわゆる世の中の重要な職業、人気の職業に競争で勝ち抜こうとしている人たちのこと。自分でその職業に就きたいと自発的に望んだ場合はそれだけで野心家とはいえない。

問題は親が子供にその職業に就くことを強く希望し、または過剰な期待から子供の意思を尊重せず心理的に支配している場合が問題となる。また、受験勉強に勝ち抜いて、他の同世代の人たちより抜きん出たいと思うように教育されることが問題なのである。それがなぜ悪いと言う人もいると思うが、一体何を比較して他の人より優れようとしているのだろうか? 

そのひとの持ち味は、社会のなかでどんな職業に就くかということが大事なのではない。どんな職業に就こうとも、そこでいかに自分らしく生きているかが問われるのである。自分らしくあることが強いてはそのひとの潜在する能力を開花させ、周りの人たちをも豊かにしていくのである。

自然があなたに授けた特性をあますことなく表現できる、またそれを可能にする社会づくりが望まれる。そのために、あらゆるルールは、お互いの自由を侵害しないためのものであったはずが、いつしか一部の権力者のための都合の良い手段になってしまった。その根底にあめものは、他人を支配したい、という根強い願望である。野心家は、それを自分の夢の実現のためにという、ベールで覆い隠そうとする。

人々それぞれが自分の野心のために活動すればするほど、世の中は住みにくくなってしまう。野心家の根底には、人を自分の支配下に置きたいという権力志向がある。

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2009年7月10日 (金)

野心(1)

私たちの社会は私たちの人間の道徳レベルの総体で作られている。だから、私は社会に起きているさまざまな事件には無関心ではいられない。

子供の頃、社会は正しい組織で運営されているものだと思っていた。

私たちは、必然的に腐敗が起こるような社会を作り出してしまった。というのも、社会のまさに根本が腐敗しているからだ。

 

社会のまさにその基本を変えない限り、必ず腐敗にいきつく。これまでずっとそうだった。

社会の形態は変わっても、腐敗の構造はそのままだ。なぜなら私たちは、いまだに腐敗不可能な社会を作り出してはいないからだ。

和尚は、この社会を作り出す基礎となっている教育体系が野心志向であること、野心を抱かざるを得ない社会が腐敗する運命にあることを言っている。これは国家の支持政党を変えたらいいという小手先の対策だけでは問題は解決しないことを物語っている。

動機なき不特定殺人が増えたり、家庭内殺人が増えていたり、精神疾患患者が増えたりしているのも、それだけ世の中が腐敗しており、より病的な社会が進行していることの現れである。

そして、このことは、ニュースでの出来事などではなく、いつ身近に起きてもおかしくない自分自身のこととして受け止めねばならないのだ。そのことの自覚が私たちにはまだ欠けているように思えてならない。

太字-「グレートチャレンジ 和尚:市民出版社より抜粋」

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2009年6月27日 (土)

過去の遺産(2)

肉体は過去をとどめる。思考は過去をとどめる。重荷を背負ったこの状態ゆえに、人は今ここにあることができない。人は、自分の過去と折り合いをつけねばならないのだ。

‥残っているものすべてを解消せねばならない。そこには何百万もの遺物がある。

肉体は過去をとどめる。過去に受けた傷や快楽、肉体に与えた痕跡は今も刻まれている。思考は過去をとどめる。過去に考えたことだけでなく、生活習慣となった思考形態も今の自分の一部として働いているのだ。

自分の過去とは、単にこの生だけでなく、過去に生きてきた幾つもの自分も含まれているのだとも和尚は云っているのだと思う。そして、これら過去の過ちやこころのしこりが今を生きる自分の人生に大きな影響を及ぼしている。と同時にいま、周囲の環境が自分につきつける課題は、自分がイメージしたり考え続けた思考などが招き寄せた結果であるだともいえよう。

「なんで自分はこんなに苦しまなければいけないのか?

その原因を他人のせいにせず、今の自分に与えられた、乗り越えるべき試練と受け止めよう。

私たちは常に過去の無意識な記憶を携えている。その記憶が今を生きる自分に影響を与えている。いいことも悪いこともみんな、過去の記憶や過去にした行いが反映されているのではないだろうか? それゆえに、私たちは、「いまここ」、無限のなかの一瞬を全面的に生きることはできない不自由な生き物なのだ。

しかし、「いまここ」を全面的に生きることは可能である。そのとき、真に今の瞬間を純粋に生きる者の成長した姿がそこにあるのだと思う。

少なくとも、私たちが過去をひきずった思考や肉体を携えていることの不自由さをまず感じなければ、何も始まらない。不自由さのしるし、それは苦痛や不安である。

‥それが、人生のアートのすべてだ。一瞬ごとに死に、後に何も残らない。

ひとつの関係が終わる。 自分はそれを引きずりはしない。それに死ぬだけだ。‥ それを受け入れ、それに死ぬ。完全な気づきを持ってそれを落とすだけだ。そうすれば、人は新しい瞬間の中に蘇生する。もう過去をたずさえてはいない。

太字:「そして花々が降りそそぐ OSHO(市民出版社刊)」より引用。

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2009年6月21日 (日)

過去の遺産(1)

人は過去をすべてたずさえる。過去の一瞬、それぞれを。これまでに、自分は何と多くのものであったことだろう。子宮の中から今このときまで、自分は何百万の人格であり、それらすべてが自分の中に、何層にも重なってたずさえられている。成長しても、それはそこにある。頭の中だけではなく、それは体の中にさえある。

和尚の云う過去とは生れてから今までに引きずってきた過去の記憶である。たとえば子供の頃に理不尽なことで誰かから叱られて、それに対抗して何も言えなかった自分がいたとしよう。そのことは憎しみとして、あるいは何も反論できなかった自分自身への怒りとして心の片隅に記憶される。そのときの傷は、大人になった今でも、何らかのきっかけを通して繰り返されるというのである。

もしも、その時に言いたいことがきちんと言えたなら、その後には嫌な記憶としてそのことは残らない。

「それは体の中にさえある」というのは、たとえば相手に対して怒ったときにその感情を表現しなかった自分がいたとする。その自分の怒りは体のどこかにしこりとして残る。そのしこりが体の変調を引き起こすのである。

和尚によると感情的なものは相手にぶつけて表現したり、抑圧したりしても解消しない。それはその感情を意識的に理解することで解消するのだという。ここのところは別に詳しく説明する機会を待とう。

相手に怒りを表現すると、今度はその怒りによって相手がしこりを残すことになり、その発散のはけ口をまた、他の誰かをみつけて求めることになってしまう。

感情を抑圧することは、自分のこころや体にしこりを残すことになり、同じような状況を何度でも引き起こし易くなり、その状況は本人がその傷口を解消するまで続いてしまう。

何よりも、感情の抑圧は、その人をその段階で成長をストップさせることで一番良くないことなのである。子供の時に受けた傷は、大人になった今でも時々顔をのぞかせ、そのひとを子供がえりさせたり、幼稚な行動を起こさせる原因になったりする。

最近は、催眠セラピーなどにより、そのひとの心の傷の原因となっている子供の時の場面にまで退行させて、過去の自分を慰め、受け入れて感情をはけ出させるというのがある。

これはその人の今では記憶となってしまった過去の感情に対して、気づかせて、それを開放してやるというものである。

感情を意識的に理解することは大切である。その心の傷の原因となっている感情を冷静に見つめさせる作業によって、その時の怒りや憎しみなどのエネルギーは解放され、自分の中から消えていくのである。

これらは単にひとつの例を示したに過ぎないが、人は否定的な感情を幾重にも蓄積させて、子供のままに取り残された自分を大人になった今でもたずさえているというのである。

これが人の成長を阻むだけならいいが、人の心の病や、体の特定部分の病気の原因とさえなっているから、やっかいなのである。

太字:「そして花々が降りそそぐ OSHO(市民出版社刊)」より引用。

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2009年5月 3日 (日)

存在

存在という言葉は和尚を理解するひとつの鍵である。神、永遠などといわれるが、和尚が使う存在は独特の響きを持っている。

私たちは生きている。それもいつかは死ぬべき定めを引き連れて‥。

生きるということは、死に対して如何に準備を整えるか、ということだと思う。もし、この生が死というものを約束されなかったら、どれほど長い久遠の時間を退屈して過ごさねばならないか。死があるからこそ、生きている今を生き生きと、しかも新鮮に過ごすこともできる。

 

生は死と相対的であり、一方が他方なしに存在することはありえない。

これに対して、存在とは生死を超えて在るもの、時間を越えて常に在るものを指している。

 

 覚えておくがいい。死を超えるものは、生をもまた超える。それゆえに神は生きているとも言えないし、そのように言うのも愚かなことだ。死に支配されることのない神を、生きているとみなすのは無意味だ。‥ 神にはいかなる生もない。彼は存在を手にしている。

いや、むしろ神は存在そのものだ。(和尚)

 私が思うのは、存在とは生死を超えて常に在るもの、そこから生命のあらゆるものが湧き出してくる泉、源泉であり、永遠の泉なのだ。

 私たちは、以前はそこに居た。というよりは存在として分かたれていない意識であり、光であった。私たちが生まれてくるということは、そこから個々に意識が分かたれてこの有限の世界に仮の住まいを得たということでもある。だからこそ、私たちは帰るべき場所もあり、日々自分自身を研磨しなければならないというのも、存在こそが吾が唯一の永遠のふるさとではないかと思えるからである。確証は無い。しかし、道に迷ってしまったら、私たちは「自分が一体どこから来たのか?」考えてみるのも良いではないか。なぜ私たちが限りある生を与えられたのか、その理由を考えるのは、日々をただ生活に追われて生きるだけの状態から、一歩前進したということでもある。

 毎日の生活に困らなくなった時、自分の生きてる意味を考えないのは、死ぬ時に必ず後悔するのではないだろうか。それでは死ぬことの不安をいつもどこかに抱いて、毎日を人間として充実して生きているとはいえないのではないか。存在について考えることは、単に神とか自然、道について考えることではない、それ以上に自分自身のルーツについて深く掘り下げていく試みなのではないでしょうか? 

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2009年4月25日 (土)

置かれた状況(2)

自分の身の回りの環境が求めているささいなことに耳を傾けてみよう。

環境はあなたを求めている。あなたを必要としているのだ。誰がということではない‥、それは環境があなたに何かをさせようと訴えているのだ、そう考えられないだろうか。

適材適所ということがあるが、ひとは必ずしも適した場所に生きているわけでもない。それには様々な理由が考えられるが、一番の大きな理由は、私たちはひとり一人が抱えるカルマの数が多いので、あれもこれも一度に処理することはできない、ということ。だからこそ、現実に身の周りで起きてくる出来事という課題に対して、ひとつひとつ処理していかなければならないのだということ。しかし、自分一人では処理仕切れない問題が起きてくることもある。そのときは、一旦そこから離れてみるのもいい。まだ、自分にはそれを解決する力が身についていないのかもしれない。手助けしてくれる誰かが現れるのを待たなければならないのかもしれない。

また、自分に起きる出来事に振り回されていては、冷静な判断もできない。それに巻き込まれないためにも、自分についての内省、自分自身について絶えず振り返ってみることも必要だということ、なのだと思う。振り回されていると感じる時こそ瞑想するのにふさわしい機会なのではないだろうか?

 呂祖は「自分が置かれた状況を受け容れなさい。それはあなたにふさわしい状況にちがいない。だからあなたはそのなかにいるのだ」と言っている。<存在>があなたの面倒を見てくれている。それは何らかの理由があってあなたに与えられている。それは偶然ではない。偶然に起こることなど何もない。

何であれあなたに必要なものがすべて与えられる‥。

「どうしてこんなことばかりさせられるのだろう? 」

「俺にはもっとしたいことがある、こんな仕事やってられない」

「仕事がみつからない、明日どうして生きていこう‥」

「友達もいないし、結婚もできない、孤独で寂しくて仕方がない‥」

「毎日生きてるのがつらいょー なぜ私は生きているのだろう」

「生きてたって仕方がない‥」

今の自分の置かれた状況に意味がある。もし、そこから抜け出したかった、そうなってしまった状況ででも、自分にできることがある。そこから逃げられないし、逃げられないのだったら、どうしてそうなったか考えてみることだ。考えることもできなかったらその状況を存在があなたに与えた試練と受け止めよう。そこから逃げない限り、その状況は決していつまでも続くことはない‥。

‥あなたがどのような状況のもとにいようとも、それは神が授けた状況なのだから、拒絶してはいけない。それはひとつの機会であり、成長するための好機だ。もしその機会から逃げだしたら、あなたは成長しない。‥

どんな状況も、それは自分に与えられた乗り越えるべき試練なのかもしれない。

以上、太字「黄金の華の秘密:和尚/めるくまーる社」

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2009年4月18日 (土)

置かれた状況(1)

 人は最初から何かをやりたいとか、自分の夢を抱いて生きているのではない。

そしてその夢は現実に叶えられるためにはそのタイミングがある。一体、誰が江戸時代にプロ野球選手になりたいだとか、飛行機に乗りたいなどと思っただろうか。

それゆえに、夢や自分の目標、したいことなどは、その時代背景によって異なるものである。

今、自分のやりたいことが見つからない人のために、ひとつ視点を変えてみよう。

それは、人は自分の置かれた状況からしか動けないし、そこからしか、何も始められないということ。であれば、人が夢や目標を持つのは、それがいつも必要不可欠のものではなく、時の必要に応じて自分にもたらしてくれるものだと思えるのである。

どんな職業に就きたいとかいうのも、始めは漠然としているものである。子供の頃に抱いた夢や憧れが、単なる夢で終わってしまうのは、彼や彼女の環境が現実味を帯びないからである。人は周囲の環境によって育てられる。

それでは具体的な現実味を帯びるにはどうしたらいいか。それは自分自身で具体的な夢や目標を強く願うことである。願うだけでは夢は叶えられないなどと、人は云うけれど、それは結局は、自分の意志がそれだけ強くなかっただけのことだと思う。ポイントは自分自身の心の底から真に願えることしか、夢が叶えられないし、周りの環境も夢が叶うように整っていかないということなのだろうか。どうしても叶えたい願望なら、どんな障害も乗り越えて行こうとするものである。

自分の心の底から真に願えることこそ本者だと思うが、そのような願いは実際にそうなかなか待っていて起きてくるものではない。では、今真に願えること、夢や目標がない人はどうしたらいいのだろう。

私は、① 自分に今できること、 ② 人が考えないことを自分が思いついたらそれを実行していくこと、が良いと思う。

自分が今できることは、言い換えれば他の誰かに今、自分が必要とされていることでもある。その自分の必要性を自分に求められていることを行動していけばよいのである。

もうひとつの、人が考えないことで自分が思いつくこととは、他人がしていることで、「自分ならこうするのになあ‥」といったことがあると思う。その時に、あなたは多くの人の気がつかないことにあなたは気がついている、ということだ。そのことは自分自身の生き方の方向を示しているのだ。それを他人に「こうしなさい、ああしたほうがいいですよ」と説教する人の多いことか。

他人に言う前に、それを気がついている自分が率先してやる。そのことで、周りの人が喜ぶのである。他人に指示して、命令してやらせると、相手はやらされている感じかするし、自発的な行為ではないから、その後が続かないのである。だったら自分がやればいいではないか。

公園のゴミを拾ってゴミ箱に集めているいるご老人を見れば、彼はいうだろう。「私は今自分のできることをしているのです。見苦しいと思ったし、毎朝散歩に出ていてそれに気がついた私がやらねば、誰がやるのでしょう」。

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2009年4月11日 (土)

遊び心

遊び心とは、生きてく上で決して無くしてはならないものだ。それなのにどれだけ多くのひとがこの遊び心を無くしてしまっていることか。

人生を深刻なものにしているのは自分自身だ。そのことがわからない限り、ひとは決して創造的に人生という果ての無い航海を楽しむことはできない。しかし、このことは誤解も多い。ただの娯楽として、息抜きとして捕らえると問題の本質を見失ってしまう。適当に努力しないで軽く、浅く楽しめればいいというものでは決して無い。みんなに嫌われたくないからと、共通の話題を見つけて世間の中に埋もれてしまってもいけない。

また、ゲーム感覚で命の大切さもわからずに他人を簡単に殺してしまうという事件が断たないのも、現実をきちんと生きていない、生きようとする気もない人たちの増えていることが原因ともとれます。

要は、自分が何をしたいか、したくないのか、自分はどうありたいのか、周りを気にせずに自分の目で確かめ、自分の意思を持つことが、生を創造的に楽しむための前提にもなっている。なぜ人に合わせようとするのか、なぜ楽して、安全に生きたいのか、自分らしく生きようとしないのか、そこには様々な問題があります。本題に入ろう。

 生は、解くことのできない神秘だ。もし説明できるなら、神秘などではない。生の中に使命などというものはない。なぜなら、神秘に使命などありえないからだ。ただの戯れ、リーラだ。

 この全存在は、ただのエネルギーの戯れだ。戯れとは、無目的な何か、あるいはそれ自体が目的である何かを意味する。達成されるべきものなど何もない。まさに行動そのものが、達成だ。生は何の使命も持たない。というのも、生それ自体が、達成だからだ。

だからあなたは様々に生きることができる。たくさんのことができる。それはすべて、たんなるエネルギーの流出、目的のない宇宙の戯れだ。だからこそ神秘なのだ。

以上太字「グレートチャレンジ 和尚(市民出版社)より」

 私たちが生まれ変わりを信じて、何かこの世界にやり残しがあって生まれ変わってくる、というのは半分は本当のようにも思える。それは、会いたいひとに出会えなかったとか、豊かな暮らしができなかったとか、権力を手に入れることができなかったとか、死ぬ時に、様々な思い残しや、マインドの痛みがあるからに他ならない。その自我の苦痛に閉ざされた想いが次の生へと流れてゆくのかもしれない。しかし、ここでいえる事は、それでも、それは自分で選んだことなのだということ。仮にそのようなつもりがなかったとしても、基本的に新しい生を得た後に、何で私はこんなに苦しまなくてはならないのかと思うとき、その種をまいた自分に少なからず責任がある。

 また、使命感をもって、何かをやろうとして、志し半ばで死んでしまうこともあるかもしれない。そんな時はその続きを次の生で実行し、夢を叶えようとするのかもしれない。そういう風にして、自分の生というものが回っていくのだとしたら、逆に自分の心の変化ひとつで、あっさりと肉体を持った生を終わらせることも可能ではないだろうか?

 

私たちの小さく狭いこころは、いつも何かに執着し、しがみつこうとする。もし、気持ちの整理がついたなら、執着する気持ちがなくなったなら、きっとこの人生が本当にただのエネルギーの戯れであり、達成されるものなど何も無いのだと、笑い飛ばすこともできよう。そういう視点もあるのだとこの文章から諭されるのです。

それは私たちが子供の頃にやる人生ゲームのように、それにのめり込んでいるけれど、夢中になっている自分の存在にいつも気づいているということができるかどうかが鍵となるような気がします。そうした気づき、意識付けは、自分の生に少しばかりのゆとりをもたらしてくれるのではないでしょうか?

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2009年4月 4日 (土)

個人と群衆(2)

 私は、世界にどんな群衆があることも望まない。彼らが宗教の名のもとに集まっているのであろうと、国家の名のもとに集まっているのであろうと、人種の名のもとに集まっているのであろうと関係ない。

群衆というものは醜いものであり、群衆は世界でもっとも重大な罪を犯してきた。なぜなら群衆には意識がないからだ。そこには集団的な無意識がある。

太字「反逆のスピリット:和尚ラジニーシ(めるくまーる社)」から抜粋

 いままで起きてきた国家間の争いも殺戮も、群衆心理のなせる技である。自分が群衆であるかどうかは、自分自身の意思に基づいた判断で行動ができるか? ということだと思う。しかし、これは自分が育ってきた環境から自由にならないといけない。今まで自分の意見だと思っていたものが案外、身についた習慣による思い込みであることが多いものである。

また、群衆であるということは、他人のすることが原因になって行動を起こしているということでもある。それが復讐であれ、報復であれ、偽りの愛であれ、他人の行動により従って自分は反応しているという現実に変わりはない。それはまさにイエスの云う「相手にしてもらいたいことを他人にしなさい」ということだ。いわゆるカルマの法則とは、自分のした行いが跳ね返ってくるというものだが、それを期待して良いことをするというのでは、未だカルマの法則に囚われているということだろう。囚われていることが悪いというのではないが、自分のしていることが自分自身にどう返ってくるかを常に想像することは賢明になるためには必要である。

さて、相手の反応を見て行動するというパターンがある限り、世界は良くならないし、世の中、群衆心理で歴史が動いてきた史実をみても、それが悲惨な状況の繰り返しであったことを思い起こさずにはいられないだろう。どんなときでも、状況に振り回されず、そこを離れてみる視点を持つことが、本来の自由な自己の在り方であり、私たちはそこへ向う旅人でもあるのだ。

個人であるということは、反応ではない。自分自身の自発的な意思、湧き出てくる動機に従う者が個人である。そして、和尚は、「寄せ集めの群衆から個人を連れ出し、彼らに<個性>と尊厳を与えること」をワークにしてきた。私も、群衆から抜け出したいといつしか思うようになった一人である。しかし、気を緩めると、いつの間にか群衆に立ち戻ってしまう自分がいる。なぜなら、群衆心理とは、集団無意識のことだからだ。集団無意識は、気づくこと、気づきの努力がなければ常に私たちを自動的に包み込んでいる便利な無意識でもある。

無意識ということが否定的に使われるなら、例えば「思わず‥‥してしまった」というようにそれは相手を傷つける刃物にもなる。意識的になれば、そのように過ちを犯す機会も減ってくる。現実は住みづらい世界である。この認識がまず出発点である。

言い換えるなら、意識の光で自らを照らし出すことが、ひとりひとりに求められている。至福に至る道のり、永遠の泉への道のりとは、この無意識状態からいかに、意識的に、個人として目覚めてゆくのかという過程に他ならないのである。

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2009年3月28日 (土)

個人と群衆(1)

 世の中は、群衆でいっぱいだ。私は群衆ではないと言えないが、少なくとも個人になりたいと思っている者の一人である。群衆について和尚は次のように述べている。

 群衆というものはすべて寄せ集めの一団だが、個人は決して寄せ集めの存在ではない。 個人はみな真正な<意識>だ。しかし、群衆の一部になった瞬間、人は自分の意識を失ってしまう。そうなったとき、人は集団的で機械的な精神に支配されるようになる。

太字「反逆のスピリット:和尚ラジニーシ(めるくまーる社)」から抜粋

 群衆とは個人と対立するものだ。というより、殆どの人は無意識な状態でこの世に生を受けた。そして、人はそれぞれが、自分自身が群衆であるということに気づかざるを得なくなる。私たちのこころは群衆心理そのものである。

群衆心理というものは、メディアの催眠術にかかったように、自分の意見と思っていたことが、それは常に有名な誰かの言ったことと変わらないことを示している。別に変っていることが良いことだというつもりはない。しかし、今日のように情報収集が大量にしかも多彩に入手できる昨今では、人は簡単に情報操作によって大衆心理に陥り易いのだと指摘したいのである。

そして、私たちは、自分の体験をもとに自分の意見を見出す以外に個人として歩む術はないことを知るのである。

私は何故、人が個人になろうとするのを拒み、群衆にとどまろうとするのか?

その理由は自分に自信も持てず、他人に認めてもらうことや、一緒に行動することで自分自身の孤独と向き合う恐れから回避できるからだと考えています。

私たちは自分らしくあること、自分自身で立ち上がることと引き換えに、他人の敷いたレールを歩くことや、他人と同じ考えや、生活様式に守られて生きる気楽さを得てきた。

しかし、自然は人にいつまでもそのような状態でいることを支持しない。

 

人が個人として生き始めることの素晴らしさ、美しさを過去の賢者たちは幾度と伝えてきた。しかし、そこへたどり着くまでの道のりが険しいがために、その代用としての権力やお金、他人を利用した様々な欲望が渦巻いている。そう考えれば、この世はまさに、ひとが群衆から個人へ向うには絶好の人間道場であるに違いない。

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2009年3月20日 (金)

欲求不満(2)

 私たちの関心は常に、世界を変えることにある。それはただの逃避だ。他人を変えることに関わる人々は、実は自分たちの欲求不満から、自分自身の葛藤、不安、苦悩から逃避していると、私はいつも感じてきた。彼らの行為は、心の焦点をほかの何かへ向けるということだ。ほかの何かに関りっきりにさせている。- というのも、自分自身を変えられないからだ。自分自身を変えるよりも、世界を変えるほうが簡単だからだ。

 小さな自分のこころは色々な習慣、社会の規則、親の影響などでがんじがらめにされてきた。親や国家、すなわち社会があなたに期待してきたものが、あなた自身の重荷となり、それが今度は他の誰か、友人や子供、身近な人に自分の叶わなかった思いや欲求不満を投影してしまう。

あなたはあなたとして存在している。それは、存在があなたに与えた一度っきりの可能性に過ぎない。それを他人の願望のために犠牲にしてきたことの問題は数え上げればきりがない。本当の自分を取り戻すためには、今一度、自分とはいったい何なのか問い直すことだ。そして自分自身を変えてみようとすることも大切だ。

 柔軟なこころでいることが、色んな人の立場も理解でき、そのことが、それぞれの立場を離れた視点で冷静に見ることもできるようになるのではないだろうか?

 人は誰もが期待する。そして、期待の輪の中で自分たちが自ら不自由な存在となってしまう。この滑稽な現実をあなたはどう診るだろうか?

 世界は欲求不満だ - それは事実だ。そしてあなたは、なぜ自分が欲求不満なのだろうかと、その理由を探し出そうとする。原因は自分の期待のせいだということを見つけるだろう。それは種子だ。根本原因だ。それを投げ捨てなさい!

太字-「グレートチャレンジ 和尚:市民出版社より抜粋」

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2009年3月14日 (土)

欲求不満(1)

 誰のこころの中を覗いてみても、そこには何らかの欲求不満がある。

なぜ欲求不満があるのだろう。そこには期待があるからだと和尚は云う。

期待をすれば欲求不満が生じる。だから、期待しないことだ。そうすれば欲求不満もない。欲求不満は副産物だ。期待すればするほど、欲求不満を作り出す。

欲求不満は、本当の問題ではない。結果としてそうなるというだけで、期待こそが真の問題だ。

 自分に対して、何でも用事を言いつけられて、友達でもないのにと思い、それで相手のことを嫌になったりすることはないだろうか? 相手にしてみれば、それは自分の自我の望みを叶えてくれる良いカモだと思っていることだろう。そして、相手の期待はどんどんとエスカレートしていく。

自分は相手のために犠牲になっていると思い、欲求不満になる。さて、自分は相手に対して何を期待していたのだろうか。彼に対してはいわゆる「いいひと」思いやりのある優しい人であることを期待していたに違いない。

 自分だけが期待していないと思ってはいけない。相手も、自分もそれぞれの自我の要求や価値基準に従って、「これこれこれだけのことはやってくれるだろう」と淡い期待を抱いているのではないだろうか?

 

期待はだれもが抱き持つ。そして、「あの人にはこういうことをしてあげたのだからきっと‥」なにか返礼がきて当たり前だと思っている。そして、してあげたことの見返りが来なかったら、「裏切られた」と思うだろう。

 人は誰も他人のために生きてはいない。この事実から逃げることはできない。

誰かに期待を寄せる前に、自分が愛情豊かな人になればよいではないか。相手に期待するということは、相手に振り回されるということ、そこに個人としての自由は無い。だから、人は個人ではなく、大衆であると云われる。

 世界のことなど考えてはならない。自分自身のことを考えなさい。あなたこそが世界だ。それに、あなたが変われば世界は変わる。あなたの一部が、あなたの本質的な部分が変わり始めたら、世界は変わり始める。

太字-「グレートチャレンジ 和尚:市民出版社より抜粋」

 自分から変わらなければ、相手は決して変わらないとよく云われる。それは意識のうえでは、お互いに切り離された関係ではないからだ。しかし‥‥

 だからといって世界を変えようとするつもりで自分を変えようとしてはならない。それは結果でしかない。動機が問題となる。相手が変わるのは自分が変わったからであり、それを取り違えるといつまで経っても関係は良くならない。相手に対する淡い期待をまず無くすことだ。それは難しいとまた、いうのである。それは感謝する気持ちが少ないからではないだろうか? 感謝する気持ちが大きければ、それだけ期待する気持ちも少なくなるのではないだろうか?

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2009年3月 7日 (土)

美への追求

 日本人は恥の文化ともいわれるくらい、他人にどう見られるか、無意識に感じ取り、これをしたら恥ずかしい、と自分の行動を律してきた。今の政治家にはそういった態度も見受けられなくなってきている。それは政治家だけなのだろうか?

 自分がしていることが恥ずかしいと感じること、そこから物事の美しさについての理解が始まる。

 美への追求とは醜いもの、自分がそれをしたら見苦しいと思う行為をしないところから始まるように思う。別に見苦しいと思っていないのであれば、その人に成長の可能性はない。しかし、見苦しいと思いながらその行為を止めることができないのなら、その行為が他人に及ぼす不快感について思いを巡らせてみよう。

 醜さは他人に対する一種の暴力だ。この醜さは、どんな形でもとり得る -あなたの行動の中に、言葉の中に、あるいはほかの形の中に存在し得る。

 行為だけではない、自分の言動のなかに、その一言ひとことのなかに、相手を不快にさせる言葉がないだろうか? 自分自身にこころの美しさを望むのであれば、そういった言動に対しても気づきを持つ必要がある。

 しかし、一体人は本当にこころの美しさなど望んでいるのだろうか?

私は、人はそれを望む前に、自分のあれもしたい、これもしたいという自我の欲求、または、本能としての動物的な快楽のみを求めているのではないだろうか?

自我の欲求は、それが決して全面的に叶うことが無い。だからこそ、人は目の前に幻覚である人参をぶらさげて、いつまでもそれを追いかけることになるのだろう。

 自我の欲求は人間の豊かな暮らしを支える基盤になる。しかし、自我は必要以上の快適さを求め続ける。欲求不満がさらなる欲求を追い求めるようにできている。

 これに対して、美への追求とは、こころの豊かさなのだと私はいいたい。その行ない、その言葉によってお互いに心地よく感じられるような環境作りへの追求なのではないだろうか?

 権力や欲望によって誰かが満足し、誰かが傷つき、犠牲になるような世界は真正ではあり得ない。現在の社会、それは分離感を漂わせた自我が単に自己満足のみを追い続けた結果である。

 自己満足によって他の誰かが傷つくという現実に気づこうとすることが、美への追求の一歩だと思う。そして、自分が良くても、自分に関わる人たちが不幸になることに、こころを痛めずにはおれない。

 わたしは、あなたが宝石を身に付けていても、間違ったことをしているとは言っていない。わたしが言っているのは、宝石を身に付けていても結構だが、あなた自身も宝石になってはどうか? ということだ。

 

‥ 美とは何かを、理解するよう努めなさい。すると、真理と善がおのずとついてくるのに気づくだろう。善とは何かを理解したらあなたは美と真理も理解するだろう。

以上太字「ディヤン・スートラ(瞑想への道):和尚:市民出版社より」

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2009年2月28日 (土)

感謝(2)

夢や目標が、固定的なものであってはならない。

私たちは、ひとつの目標に向かってゆく時、その途上で目標に修正を迫られる時もあるだろう。なぜなら、私たちは生きており、絶えず成長の途上にあるからだ。目標は自分のためにあるのであって、目標のための人生であってはならない。

自分にとって何が相応しい道で、何が相応しくないかは、誰にも決められない。それどころか、その時の自分でさえもわからないことの方が多いではないか。

同じように、自分の能力も、何に向いていて、どの方向になら自分を生かしていけるのかなんてわからない。本当にやりたいことがその道だということもあるだろう。けれども‥。

 何かをやろうとする時、周りのことに気づかないといけない。自分が今、できることは何だろう、身近で応援してくれる人は誰だろう。誰が心の支えになっているのだろう。あなたは、今何を一番望んでいるのだろう。それなしでは一歩も前へ進めないという心の飢えは何なのだろう?

 必要なものは与えられる。しかし、それは自分の真摯な切望に対して与えられるのであって、単に小さな自分の心を満たすだけの願い事に対しては、環境が変わってはくれないのではないだろうか?

 自分の足元にあるささやかな幸せに感謝することから始めよう。そのなかから、感謝するところからしか、真摯な願い事は生まれることは無い。その願い事こそ、自分の進むべき方向なのかもしれないのだ。

受け取るものに感謝の念を感じなさい。受け取らないものに煩わされてはいけない。これが感謝の基本だ。あなたの中に気楽さと明快さが生まれるのは、この基盤の上だ。

以上太字、「ディヤン・スートラ(瞑想への道):和尚:市民出版社より」

 自然があなたの進むべき方向を与えてくれる。自分が受け取ったもの、今受け取っているもの、それが良いことだろうが良くないことだろうが、すべて自分にとって意味がある。だから、今の自分を取り囲む状況に感謝しよう。

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2009年2月21日 (土)

感謝(1)

身近なもので、自分を幸せにしているものに感謝しよう。

 人が常に不幸なのは、自分の持てるものを忘れ、手に入らないものを得ようとするからだ。生に対してこのような基盤を持つのは、完全に間違っている。自分の持てるものを理解し、それをもとに生きる人間になりなさい。

以上太字、「ディヤン・スートラ(瞑想への道):和尚:市民出版社より」

 例えば家族の一人一人に対して、自分のことを思ってくれている親兄弟姉妹がいたら、その人に感謝しよう。

 欲しいものが手に入らないから、欲求不満になり、それが手に入って初めて自分が満足するのだという考え方は一般的だ。私たちは、日頃から何かを手に入れようと、計画し、あるいは夢や目標を抱いて、それに向かって努力する。何も努力することがいけないのではない。目標を持つことで、時間の使い方にめりはりがつき、自分が、目標に叶うような人間へと変化していくからである。しかし、問題は、夢や目標が叶わないといけないもの、それなしでは自分が生きられないものであると、事は深刻になる。

 私たちが常に犯す悪しき習慣は、既に手に入れてしまったものに対しては興味を失い、まだ手に入らないものばかりに目がいき、それにエネルギーを費やそうとしてしまうことだ。これは私たちが持っている基本的な自我の習性といっていい。そのために、足もとにあるものを大切にできず、常に欲しているものを、まだ叶えられていないものを得ようと躍起になっている。

 もし、今あるものを、そこで立ち止まり、深く見つめることができたなら、そこには現在もたらされているものが、数々の偶然的な出来事の積み重ねによってもたらされていることに気づくだろう。そして、その結果として今もたらされているものに感謝せずにはおれなくなる。そうしたことを今ここで、気づかなければ、何を絶えず求めていても、決して自分にとって真に価値のあるものは得られない。

逆説的だが、いまもたらされるものの意味について考えるとき、それがそこにあることの大切さに気づき、それとともにある自分に何ができて、どうしていけばいいのかが見えてくる。そしてそれが自然に生きるということであり、自分自身を取り戻す生き方でもあるのではないだろうか?

一度、立ち止まってみたい‥。

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2009年2月15日 (日)

バランス(2)

「‥‥私は、理性と同時に共存している非理性的なものに賛成だ。私は、そのふたつの間に永久的なバランスを取るようにとすすめる。

 重荷が感じられたらすぐにバランスが失われたと思いなさい。そしてそれが要求されるところはどこであれ、必要な重荷を加えることによって復旧を始めなければならない。

 もし知性が重いのなら、何か不合理なことをやるのだ。」

以上太字「グレートチャレンジ 和尚(市民出版社)より引用」

 この話で和尚は、理性によって何かを論理的に理解しようとする習慣づけられている人は、その人のこころの奥では、非理性的な部分が表現したがっているのだという。それは、例えば意味もないこと、ばかばかしいこと、それらは感じることを主体とした生の側面が生きたがっているということだ。そうやって人はこころのバランスを取ることが健康な生のあり方だという。

 

 生は合理的では決してあり得ない。私たちがたとえどんな人生設計を小さな自我の野望で実現しようとしても、たとえそれが自我の思い通りになったとしても、何かが欠けていると思うだろう。夢が叶わなかったらそれは自我の苦しみになり、執着が強まることになる。そうした、かたくななこころに捕らわれては生は重荷以外の何者でもなくなってしまう。

 

もっと楽に生きてみよう。人生はこうあらねばならないというものではない。また、生は死によってすべてを失うものでもない。そのような見方ができない私たち自身の中にこそ、生きることの苦しみの大半があることにいづれ気づく時がくるのだといいたい。

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2009年2月 7日 (土)

バランス(1)

人間は、その肉体を持っている限り、限定的に生きることを強いられている。

例えば、女性としての性、男性としての性、どちらかで生きなければならない。両方で生きることはできない。

しかし、こころの内面の問題として理性と情緒、頭とハート、善人と悪人、加害者と被害者、支配者と奴隷、これら対立するものは誰しもがどちらか一方を表面に出し、もう一方は無意識の闇の中に隠される。そのようにして私たちは、極端なこころの偏った傾向を抱きやすいのだ。このような偏ったこころの傾向を続けていると、次第にそれが重荷になってくる。

 役者は色んなひとの役柄を演じることで、生き生きすることができる。それはつまり、現実の自分が生きられない可能性を役柄を演じることの中で生きることが可能だからだ。

自分はこんな人間なんだと思ったら、そう思うこと自体が重荷になる。私たちは、自分で思うよりはるかに多面的な意識を可能性として持っている。残念なことにそれらは、ただの可能性で終わらせてしまっている。

 私たちは、いまだに完全な文化、全面的な人格、全面的な心というものを、考えたことすらない。

 全面性とは、相反する両極を、ひとつにしたものだ。だから全面的に首尾一貫した人格とは、不完全で部分的だ。それはある意味で、狂気へと続く途上にある。これは危険だ。首尾一貫した心に、表現や注目されたことを否定された部分は復讐するだろう。あなたの不合理な部分は苛立ち、恨みのこもった荒々しい力で、理性のすべてを粉々にするだろう。

‥心の両方の側面に、自分を自由に表現する機会を与えなさい。常にそのふたつのバランスをとりなさい。お互いを補足し合っているふたつの中で生きなさい。

以上太字「グレートチャレンジ 和尚(市民出版社)より」

 家族はもちろんのこと、友達関係や職場関係が固定されればされるほど、安全なことはない。しかし、その安全と引き換えにあなたは、人生をもっと生き生きと生きる権利を放棄してしまったのではないだろうか?

 自分の可能性とは、知り合い、関係する人たちの数だけ開かれているように思える。その関係の中で自分の色々な側面を表面化し、気づかされ、自分のこころの領域を広めていくものだと思っています。

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2009年1月29日 (木)

信頼(3)

信仰にとって疑いは敵となるが、信頼にとって疑いは敵ではない‥

信頼は疑いを通して成長する。

信仰は疑いを抑圧することによって成長する。

信仰が一種の薬物であるのはそのためだ。薬物はまさにそのように働く。それは、あなたが愚か者にならないようにひたすらあなたの意識を醒めさせ、あなたが空想の餌食とならないようにしている疑う力を抑圧する。宗教は昔からずっとそれをやりつづけてきた。

‥そして「信じていれば、見えてくる」と言う。「信じていればやがてわかる」と。

最初に絶対の信があるのではない。少なくとも不信感を払しょくするまで疑い続けて、やがて疑うことが無意味になる地点まで、疑うことがばかばかしくなるまで疑い続ける果てに絶対の信頼があるのだと思う。しかし、これはデジタル志向、すなわち論理的思考の心の持ち主にのみ当てはまる。アナログ志向、すなわちイメージと直感志向、ハート志向のひとには当てはまらない。それはデジタル志向の人が自己の展開する論理的思考の矛盾点を導き出した果てにあるものだ。

信頼というのはまったく異なる現象だ。それは薬物に冒されていない意識、開かれた意識から生まれてくる。信じることもせず、不信感も抱かず、信と不信にとらわれた結論を抱かない、完全で純真無垢な意識から。

疑いは役に立つ。真理に到達するまで、疑いは助けになる。疑いは信頼の友だ。疑うというまさにそのプロセスが空想の餌食にならないように助けてくれる。

ひとが、瞑想のなかで成長する妨げになるものに自分の空想やイメージがある。イメージの力は大きいので、自分がそのイメージした通りのことが現実を通して起こると、それがあたかも自分に起きた出来事のように錯覚してしまう。

疑いとは、たとえ、自分自身が招いた空想でも、それを現実と受け止めず、立ち止まって傍観者として見る姿勢なのだ。

やたらと何でも信じたりしないこと、しかし、信じるべきものは存在する。しかし、そのための虚偽は自分から作り出してしまうこともあるのだと心に留めておくこと。

成長にエレベーターはない。それは一歩一歩自分の足で進まなければ自分のものにならない道のりなのかもしれない。

太字「黄金の華の秘密:和尚(めるくまーる社)」から抜粋

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2009年1月16日 (金)

学び(2)

 和尚は、その著書のなかで愚か者には3種類あるのだと云う。

その①単なる愚か者

なにも知らない上に自分が知らないことも知らない単なる愚か者。

その②学のある愚か者

知らないのだが、知っていると思っている愚か者、複雑な愚か者。

その③祝福された愚か者

自分がしらないことを知っている愚か者。

私たちの殆どは、この②の学のある愚か者に分類される。そして私たちが向かっている方向は

‥ まず知識に達し、罪を犯さねばならない。罪、知識、神ヘの不服従、そして世の中という荒野に下り、道に迷い、己の自我を生きてはじめてすべての知識を落とせるようになる。

‥ 祝福された愚か者は、理解に達する最も大きな可能性を持つ。なぜなら、知識は不毛であり、あらゆる知識は智への障害であると知るに至ったからだ。知識は智への障害だから、知識を落とし、ひたすら理解する人となる。まさに、物事がはっきり見えるようになるということだ。その目には理論も思考もない。そのマインドはもはやマインドではなく知性そのもの、純然たる知性、もうガラクタや借り物の知識は散乱していない。その人は、ひたすら気づいている人、気づきの炎だ。

 私たちは、知識人から、知性、英知ある人に向かわなければならない。知識を集めただけでは、知性は決して培われない。

‥ 知識とは、情報や体験を集め続け、分類、記憶し続けること。

  学びとは、何も集めず、ただ、起こっていることや起こるであろうことに対して、受け入れ態勢を整えておくことと、マインドが開いている状態にあることだ。

知識が増えれば増えるほど閉じていく。持っている知識が常に間に入り、それを避けられなくなるからだ。

 

私たちは、他人の意見を受け入れる時、それまでかき集めてきた知識の体系から、それに当てはめようとするか、拒絶しようとして、分析し、批判し、その意見を価値付けようとする。他人の意見を聞くということは、そうではなくて、相手の価値判断や、意見の背景にある動機や、欲求を想像して、相手の立場を推測しながら聞かないと、その真意は正しくつかむ事ができない。なぜなら、私たちはいつも、お互いのマインドというフィルターを介して、意見をし合い、議論しようとしているからだ。

環境や人から学ぶということは、言葉や意見よりもそれを包む全体像から理解するということなのだと思う。その人となりから、人を理解するというのは難しいけれど、少なくとも自分の心のフィルターを通して何かを学びえるということは決してない。

学ぶマインドとは、過去に邪魔されることなく注意深く聞こうとするもの、まさに開かれたもの、何であれ、ありのままに映す鏡のようなものだ。学び始めれば、智に達する。自分が何も知らないことをあなたが悟るうえで、智は役に立つ。真実を知るに至ったものは、己の無知に気づく。自分が知らないことを知る。この智における無知は、転換、変容、革命となる。

祝福された愚か者の状態に跳躍しなさい。私の祝福は、すべて祝福された愚か者たちに向けられる。

太字ー引用「死のアート:OSHO(市民出版社)

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2009年1月10日 (土)

学び

 自分は他の人より物知りだと思う時、謙虚さが失われる。

そこで、自分は自分より知識のある人からしか学ぼうとしなくなる。こういう過ちはいつでも起こりうる。

‥悟った人からしか学べないわけではない。あなたは、学ぶための知性と理解をもたなければならない。

‥‥もう一度言おうー この世で聖人が教えられないことを、あなたの敵が教えてくれる。あなたが明敏で、学ぶ知性を持っているなら、生のありとあらゆる石くれから、梯子を作ることができる。しかし無知な人々は、踏み石さえも障害物だと思い、立ち止まってしまう。あなたが知性的なら、どんな石でも踏み石にできる。あなたが知性的なら、あらゆる石が階段になり得る。

「ディヤン・スートラ(瞑想の道):OSHO(市民出版社)より」

 物知りということが知性的なのではないし、頭が良いとか、記憶力が良いということが知性というのでもない。自分の好き嫌いや、価値観の違いを超えて相手から何かを学び取ることができるかどうか? ということなのだろう。

 自分は悟ってはいない、苦悩する数ある群集の一人に過ぎない。そんな自分が自分の価値観で人を正当に評価などできるのだろうか?

 反面教師として、悪い手本としてみせてくれる人もいよう。

ただそれだけなのだろうか?

 その人にはそのひとなりの存在価値があるのではないだろうか?

 人間一人一人が持っている自我とは、断片的なものだ。だとしたなら、それぞれに長所があり、短所がある。短所とは、自分にないものをいう。その他に自我にはそのひとなりの経験に裏打ちされたクセがある。それぞれのクセは第三者にしかわからない。また、自分と似たようなクセのある人もいよう。それらは、客観的に眺めないと気付かないことが多い。どんな相手からでも必ず、見る目を養えば学べることがあるはずだ。

 人々は、お互いに相手に何かを気づかせてくれるきっかけを与えてくれている現実をみるとき、誰ひとりとして意味もなく生きている人はいないことを知る。

 あらゆる人から色んなことを学ぶことができる。

それはひとえに、自分の心がけ次第だ。しかし、そうした謙虚な意気込みも、いつしか忘れてしまう。そんなとき、いつも心の中に書き記しておきたい言葉がある。

 自我中心的な視点の考えは何であれ、間違いになる。私にとって善悪とは、一般とは異なった言外の意味を持つ。

 私にとって、その中心に自我のあるものはすべて悪であり、中心に自我を持たないものはすべて正しい。そしてあなたが宇宙とひとつにならないかぎり、自我が溶け去っていかないかぎり。正しい視点を持つことはできない。

「グレートチャレンジ:和尚(市民出版社)より」

 いつの世にも、悟った人はいる。そのひとをみつけたなら、真摯に彼の、彼女の言っていることに聞き耳を立てよう。そして私たちは、この自我中心の視点が消えないかぎり、お互いに学びあわねばならない有限な存在者なのだ。私たちが謙虚にならなければいけない理由はそこにある。その意味では、誰一人として有能ではないし、誰一人として無能でもない、そう‥ 賢者以外は‥ 。

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2009年1月 4日 (日)

女性の資質

 女性の資質はこの先、未来の人類にとって重要になる。

 戦争と平和を繰り返してきた歴史は男性主導の世界だ。今、自民党政権が疲弊し、世の中の目まぐるしい動きについてゆけなくなった。世界が変わろうとしているとき、必要なのは既成の概念などではない。異なるアプローチが必要だ。その時代にあって今、女性の資質が注目されている。

 愛、信頼、美しさ、誠実さ、正直さ、真正さー これらはすべて女性的な資質であり、それには男性がもっているどの資質よりも遙かに偉大だ。しかし、過去全体は男性によって、男性の資質によって支配されてきた。当然、戦争では愛は役に立たない。真理は役に立たない、美しさは役に立たない、美的感覚は役に立たない。戦争では、ただ憎しみが、怒りが。破壊しようとする狂気が必要なだけだ。

 三千年もの間、人間は五千もの戦争をしてきた。そう、これもまた強さではあるが、人類にとっては何の価値もない。これは私たちの、動物の遺産として受け継がれてきた強さだ。それは過去のものであり、去ったものだ。が、女性の資質は未来のものだ。それはやって来つつある。

 言うまでもないが、人は男性、女性に関わらず、自分のなかに異性の資質を備えている。

不思議なことに、肉体としての自分の衣服に合わせて、ひとは自分の中の男性性、女性性を開花させていくのだ。しかし、自分の身体の性と反対の性については、そこにいる異性を通して少しずつ意識的に目覚めてゆく。ひとは、心理的には両性の性を潜在可能性として持って生まれてくる。生まれてくる時は片側の性であるが、人間として成長するためにはこの両性の資質を兼ね備え、均衡をもたらし、統合する過程を歩まねばならない。そういう意味で私たちは、異性からより多くのことを学び、理解することを、意識しようとしまいと、この生を通して行なっているのだ。

 自分の女性の資質を喜び、あなたの女性の資質の詩を創りなさい。それは自然から受け継いだ、あなたの偉大な遺産だ。それを投げ捨ててはいけない。男性はそれをもっていないからだ。

 私は世界中が女性の資質で満たされることを望んでいる。そのときにのみ戦争がなくなる。そのときにのみ結婚がなくなる。そのときにのみ国家が消え去る。そうなってのみ私たちはひとつの世界、愛情豊かで、平和に満ち、静かで美しい世界をもつことができる。

太字「ニューウーマン誕生:バグワンシュリラジニーシ(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン)刊行」より抜粋

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2008年12月27日 (土)

試練(4)

 この世の苦しみの最たるもののひとつに死というものがある。以前にも記しましたが、生かされているこの生が不確かなものであることは明らかです。そのなかにあって、人はお金や権力、地位や名声を得ようとする。そんな一連の野心を抱く自分に虚しいと思ったことはないだろうか?

 毎日死んでいく人がいる。それはひとごとではなく、自分が明日、生きていられるだろうか? と逆に問われているのだ。

と、なぜ考えないのだろう。それほど生は不確かなものなのだ。

特に大切なひとを失う悲しみ、これほど深いものはない。それでもこの生に何か意味はあるのだろうか? 人生に虚しさを感じ始めたときから、あなたは不確かでないもの、確実なものをみつけようとする。しかし、確実なものを見つけたい、そういった欲求さえも、自分自身が持つ痛みの原因であることになかなか気付けなかった。今でもその欲求は捨てきれない。

 欲求のあるところにマインドがある、自我がある。なぜマインドがあってはならないのか?  それはマインドが苦しみの根本原因であるからに他ならない。それは言葉での理解にとどまらず、いくつもの試練を乗り越えた時に、それは初めて実感できるもののように思う。

 束の間の幸せを追い求めたいのなら、それもいい。ただ、それに執着する心が、苦しみの原因であることに気づかなければ、人は永遠の泉の入り口にもたどりつけない‥

この世はすべて 束の間の砂で作った城

風に吹かれていずれ崩れ去ってしまう

 生のすべては‥‥ いかにして我が家へ帰るか、いかにして死ぬか、いかにして消えるかその訓練に他ならない。あなたが消えた途端、神があなたの中に現れるからだ。あなたの存在は神の不在であり、あなたの不在は神の存在なのだ。

「死のアート:OSHO」市民出版社刊から

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2008年12月18日 (木)

試練(2)

世の中理不尽なことだらけだ。

どうして、優しくて良い人だと思える人にはつらいことが多く、のうのうと、何の苦労もしないで人生を幸せそうに生きている人たちが一方でいたりするのか?

生から逃げることは問題外だ生を試練と見なしなさい。そして、周りの人すべてが自分を助けてくれることを覚えておきなさい。

朝あなたを罵倒した人も、あなたを助けている。ー 彼はあなたに機会を与えてくれた。あなたが望むなら、自分の中に愛を見いだすことができる。

あなたに対して怒りを表す人も、あなたを助けている。批評する人も助けてくれている。あなたの全身に泥をはねかける人も、あなたを助けている。

あなたの道にいばらを敷く人も、あなたを助けている。

なぜなら、それもまた機会であり、試練だからだ。それを超えられたら、あなたは彼に恩義を感じるだろう。

この世で聖人が教えられないことを、あなたの敵が教えてくれる。

「ディヤン・スートラ 瞑想への道:市民出版社」OSHOより

 自分につらくあたる人、自分を苦しめる人、嫌いな人、自分にとって有益でない人が周りにいるということは、それだけ何かの理由があるのだろうか?

人生のどんな節目でも、自分を助けてもらった人の恩義は思い出すし、忘れはしない。しかし、自分に不快な思いをさせたひと、自分を死ぬほどつらい目に合わせた人に対しては恨みこそ残るものの、決して相手に感謝などしない。

周囲にあるすべての機会は自分にとって、それが良いことであれ悪いことであれ起こるべき出来事なのだろうか?  だとしたら、身に降りかかるどんな出来事もそれを試練として受け止めていかなければならない。人は、自分が納得しようとしまいと、試練となる出来事によって大きく成長する機会を与えられているのかもしれない。いいことばかりでは、人は決してその先の意識に目覚めることはないのだろう。

苦しいことがある、つらいことがある、それから逃げても、その状況はいつかまたやって来る。だったら、今、それを解決しないとならない。今解決できなかったら、神様はまた、別の形で同じ課題を自分に与えるのだろうか?

試練こそ、人が生きて学ぶことのできる最大のレッスンなのかもしれない。

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2008年10月25日 (土)

生きる意味(4)

生について、その目的を考えることは、方向を見出す助けになるー 川を漂う木片のように生きるべきか、風が運び去るままに吹き飛ばされていく枯れ葉のように生きるべきか。それとも一個人として、一人の考える人間として、生における指針を持ち、なりたいものとなるべきものを決意し、自らの生とその展開を手中に収めた者になるべきなのか。

人間のもっとも偉大な創造物は自分自身だー 人間のもっとも偉大な創造は自己実現だ。それ以外に人が創造するものにさほど価値はない。それは水に線を描くようなものだ。

しかし人間が内側に作り出すもの、自分自身を生み出すことは、石を彫るのに似ているー それは決して消え去ることなく、永遠に自分自身とともにある。

「ディヤン・スートラOSHO:市民出版社から」

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2008年10月16日 (木)

生きる意味(3)

前著「死のアート:和尚(市民出版社)」から

 あなたの生の意味をあなたに教えられる人はいない。それはあなたの生だ。その意味もあなた自身のものでなくてはならない。ヒマラヤに行っても無駄。あなた以外にそれと出会う者はない。それはあなたの生だ。あなた以外に近づける者はない。生きることによってのみ、その秘密は明かされるだろう。

 私たちは、お互いのことを理解したつもりでいること、説明して、分かり合えたと思うことが、実はわかっていないことの方が多い。人それぞれ顔が違うように生きる目的も違う。といっても、帰ってゆく道のりが違うだけなのだが‥。

 それぞれが自分自身にいきつかねばならない。第一に目的地が違えば行き方も違うはず、一人ひとりの生き方の違いはそれぞれが目指すものが違うということ。

 最初に言っておきたいのは、生の意味を自分以外のところに求めてはならないということだ。私に求めないこと。聖典や巧みな言説にも求めないことー それらは言葉巧みに説明するが、本当の説明にはならない。あなたの空っぽの頭を満たすだけで、存在するものを気づかせはしない。頭に死んだ知識が詰まれば詰まるほど、鈍感で愚かになる。知識は人を豊かにし、感覚を鈍くする。詰め込まれると重荷になる。自我を強くはしても、人に光を与えたり道を示したりはしない。それは不可能だ。

  第二に、人は自分自身の気づきを待たねばならないということ。気づきは自らの光を礎にするということ、その自らの光が照らし出すように意識的になることが必要です。ここで、何に意識を向けるかで、気づきの方向性ができる。そして、人は心から求めるものしか受け入れない。他人の忠告はそのなかから、自分がその時に心から求めるものにだけ感応する。だから、本当に求めるものは、周りの環境を通して与えられる。

それゆえに人は外の指導者のアドバイスを手がかりに自らの指導者に行きつかねばならないということ。きっかけは外から与えられるが、求める者は自分自身の中にあるのだということ。自分が求めてもいない知識に一杯になったら、そこには偽りの自分、肥えた自我しか存在しない。

 生はすでに、あなたの内側で湧きあがっている。そこでしか、生に触れることはできない。寺院は外にはない。あなたが聖地だ。生の何たるかを知りたければ、何よりもまず、覚えておくべきことがある。決して外に求めない。他人から答えを引き出そうとしないということだ。生の意味を他人が明かすことはできない。極めて偉大な師たちは、決して生の意味を口にせず、いつもその人自身に生の意味を投げ返した。

 例えば、人が愚かだと自分が思う行為を説得して止めることはできない。その人自身の愚かな行為を通じてしか、その人自身の気づきは得ない。自分についても同様だ。いたずらに自分の生の意味を問う必要もない、ただ、自分が心から何を望んで生きていこうとしているのか? そのことをまず明らかにすべきなのだ。そして、それさえも見失って、或いはわからないまま、ただただ流れていく時間を無為に過ごしているのなら、自分が何をしているときが一番しあわせなのか、問うてみたらいい。

 求めるものが定まれば、環境もそれに応じて整ってゆき、日頃は見逃してしまうことの多くが、ひとつひとつ、発見ときづきの旅になる‥。

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2008年10月13日 (月)

生と死

今日は「死のアート OSHO:市民出版社」から紹介です。

死のアート

見出しで、和尚は本当に生きたければ、死ぬ用意をすることだ。

生を理解した者は、死を受け入れ歓迎する。

その人は一瞬一瞬に死んで、一瞬一瞬に蘇る。

過去に対して死に、何度も何度も未来に蘇る。

とあります。

私たちは、死ぬときに自分の所有物や、宝物、親しい人たちから別れを告げねばならない。死の視点から生を考えなければ、生きていることは、ただ虚しいだけのものになってしまう。ひとによれば、「私は私の生きた証を残したいのだ」といわれます。誰かの心に自分の存在が刻まれることは大切なことなのだ、と…

しかし、それよりももっと重要なことがある。それについてこの本には色々と書かれてあります。

 いったん生を知れば死をも知る。

 普通私たちは、死は生の終りにやって来る、死は生に対立する、死は敵だ、と考える。だが、敵ではない。もし敵と考えているのであれば、生を知り得ずにいることを暴露しているに過ぎない。

 死と生は同じエネルギーの、同じ現象の両極ー 満ち潮と引き潮、昼と夜、夏と冬だ。死と生は別々のものでも反対のものでも、対立するものでもない。それらは補い合っている。死は生の終わりではない。

実のところ、それは一つの生の完成、クライマックス、最終局面だ。いったん生とその過程がわかれば、死が何であるかもわかる。

 与えられた生を懸命に生きようと思うなら、死について考えざるを得なくなる。そして死について考えるところから、自分の生を見たとき、それだけでも人生に対する姿勢が変わって来る。そこに一貫して求めるキーワードは、「誠実」「清浄」「至福」「知性」「自分を知る」‥ である。

 生きるためには、生活し、豊かになるためには競争に勝ち残り、成功しなければならない。生存競争に生き残るというのは、動物の本能的な資質だ。しかし、それだけでは生きている意味がない。人間は生きる意味を絶えず問い続ける。それがひとを高みにいざなっている。そのことを決しておろそかにしてはいけない。世の中が厳しくなって来た今だからこそ、生存競争に明け暮れ、呑み込まれてしまうだけの生は虚しすぎると思いませんか。

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2008年9月21日 (日)

笑い(1)

「生・愛・笑い」オショー:めるくまーる社から紹介です。

和尚は本文の中で愛と笑いの吟遊詩人といわれる程、笑いについて言及しています。

私たちは、ふと気付くと、生きてることにかなり深刻であることがわかります。この深刻さが生を台無しにしているというのです。ではそのなかから…

 生全体は、すばらしい宇宙的なジョークだ。それは深刻な現象ではない。ーそれを深刻に受けとめたら、あなたは生を取り逃がし続けるだろう。それは笑いを通してのみ理解される。

 私の人間に対する定義は、人間は笑う動物だというものだ。笑うコンピューターはない。笑うアリはいないし、笑うハチはいない。笑うことができるのは人間だけだ。それは成長の極みだ。そしてあなたが神に届くのは、笑いを通してだ。-なぜなら、あなたの内にある最高のものを通してのみ、あなたは究極に届くことができるからだ。笑いが橋にならなければならない。

 ‥私たちは世界中の人々に、もっと深刻ではなく、もっと感受性豊かになって欲しい。もちろん誠実であっては欲しいが、けっして深刻ではなく。

私たちは、世界中の人々に、ユーモアのセンスは宗教的な人間のもっとも基本的な資質のひとつだということを学んで欲しい。

 もし笑えなければ、あなたは生における多くのものごとを見逃す。多くの神秘を見逃す。あなたの笑いは、あなたを幼い無邪気な子供にする。あなたの笑いは、あなたを存在に結び付けるー どよめく大海に、星々との沈黙に。

言うまでもないが、人の不幸を笑ったりすることを述べているのではない。自分が心から笑うことが、他の人も楽しませる、笑わせることが生の本質だと言っているのです。もし、この与えられた人生も幾つものドラマのなかの一つの舞台に過ぎないことがわかれば、物の見方も変わってくるかもしれない。だからといってこの与えられた生の今、この機会は取り換えのできないかけがえのないものである。

一度限りの人生を一生懸命に、しかし、笑いを忘れず余裕を持って生きよという、和尚のメッセージがここには示されているように思う。

 

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2008年8月23日 (土)

エネルギーの使い道(2)

前著、「ディヤンスートラ ー瞑想の道」から続き

 わたしは、あなたがたに感情の方向転換をしてほしい。この平凡な生を創造的な方向へと向けてほしい。心配することはない。家の周りに庭をつくり、草木を愛で、それに喜びを得ればいいだけだ。たいしたことをする必要はないー 石を磨き、彫像をつくってごらん! 知性ある人はみな、生業に加えて何か創造的なことをするべきだ。創造性に時間をさかない人は、悩みに暮れて自らの生を滅ぼすだろう。

 ちょっとした詩を書いてもいいー たいしたことをする必要はない。病院へ行って、病に臥した人に花をあげてごらん。通りで物乞いを見つけたら抱きしめてごらん。ただ自分の喜びのために創造的なことをしなさい。何かを与える必要はないし、何かを得る必要もないー 行為そのものが喜びだ。

 生において、単に喜びのための行為を選びなさい。あなたの全エネルギーをそれに向けなさい。すると破壊的なエネルギーは残らないだろう。創造的になればなるほど、ますます怒りは消えていく。怒りは非創造的な人間であるしるしだ。‥

 単に喜びのための行為、仕事や家事においてそれを見いだせるのなら、それでいい。

趣味に見いだせれば、それもまたいい。ただ、他人の喜びを我がことのように喜ぶのだけは創造的とはいえない。日常のどこかに、自分の行為が、本心からしたいことがひとつでもあれば、それが創造性につながっていく。怒りや嫉妬、否定的な感情はそれによって解消される。いまもなお、精神疾患者が増えている昨今、創造的に生き、生を楽しんでいる人が必ずしも多くはないことを示しているように思う。

 

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2008年8月16日 (土)

エネルギーの使い道(1)

前著、「ディヤンスートラー 瞑想の道:OSHO」(市民出版社)から紹介です。

この世の誰も罪人ではないし、聖人でもない。人は単にエネルギーの通り道だ。体内には、蓄積された多くのエネルギーがある。このエネルギーを創造的に使わなければならない。

 だからまず、感情が湧きおこったら、どんな形の運動でもいいから、身体を通してそれを解き放ちなさい。次に、創造的になるようにしなさい。あなたがたはみな、創造性を持ち合わせてはいない。

‥近頃、あなたがたは創造の喜びを失ってしまったー 手作りの品はあまり残っていない。あなたは何も作らない。現在の世の中のあり方では、手づくりの品はまったく残らなくなるだろう。何かを創造することで得ていた喜びは消えてしまった。それが損なわれてしまったら、このエネルギーすべてに何が起こるだろう?

それは破壊的になる。エネルギーは本来、破壊か創造のどちらかへ動かざるを得ないものだ。

 創造的な生を送ることを学びなさい。創造性とは、単なる喜びのために何かをすることだ。彫刻をしてもいいし、詩を書いたり、歌を歌ったり、シタールを弾いてもいい ー  何をするかは問題ではない。だが仕事としてではなく、ただ喜びのためにそれを行なうことだ。生活の中で、単なる喜びのための何か、仕事ではない何かをやりなさい。すると破壊的なすべて変容され、創造的になるだろう。

 仕事ではない何か、仕事だと、スケジュールに追われ、成果を出すことが必須条件となる。人は何をしたいかと問う前に、どんな仕事でもできることからやらなければ生活は成り立たない。また、趣味が仕事に変わったら、したいときにいつでもする、気が乗らないときにはやらない、という訳にはいかなくなる。だから、仕事以外に創造的な自分が楽しめる遊びを必要としている。

 今に始まったことではないですが、いつの時代にも戦争は存在し、それによって犠牲になってきた人達がいる。犠牲者は恨みのエネルギーの塊となって、世の中を破壊する方向に持っていくことに参加する。破壊の悪循環を断つことが求められている。

日本社会も例外ではない。格差社会と言われ、虐げられている弱者が少なくないにも関わらず、なぜ虐げられている原因の張本人たちを懲らしめようとしないのか?  という裏には単なるあきらめ、無知以外にもあるのではないだろうか? 自分一人でも世の中を良い方向、創造的な方向に変えたいと望もうとする意気込みがあるひとが少ない。それはなぜなんだろう。それはこんなに苦しめている相手ではなく、苦しんでいる自分自身の破壊に無意識にエネルギーが注がれているのではないのだろうか? それは全くないとは言えない。

和尚の言葉に、どうか耳を傾けてほしい。

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2008年8月 9日 (土)

生きる意味(2)

私たちは、人生から何かを問われている存在です。だとしたら、その問いを問うているのは誰なのか? その問いに答えることこそ私が求めるところの終着駅なのです。しかしそれは世界の真理を知りたいという気持ちに他ならない。

世の中の出来事すべてに意味があるのだとしたなら、それは世界の真理を知ることでようやくつかめることなのだと思います。自分の行っていること、置かれている環境についての理解が深まるにつれて、自分と世界との有機的つながりをますます実感してくるものです。その理解から、自分がしたいことと、すべきことのつながりも見えてくるように思えるのです。

前著:「黄金の華の秘密」和尚から

いいかね、超越的なものを夢見ることを止めてしまったら、人は無意味な生を生きることになる。意味というのは人が大いなる全体の一部、自分よりも高次なものの一部、自分よりも大きなものの一部となってはじめて生まれるものだ。

‥‥あなたがたに語っているとき、私は彼岸から語りかけている。それゆえ、私はそれを借り物の知識から語っているのではない。私は自分の体験から語っている。私は不可能なことが可能になりうることを知っている。私のなかで実現したのだから、それはあなたのなかででも実現しうる。ひとたびあなたの内なる実存が光で満たされれば、ひとたびあなたの内側に闇がないことを知れば、あなたは宗教的になる。

‥‥人間はこの世で最もすばらしい潜在能力を持っている。欠けているものがあるとしたら、それは自分自身を超えたいという大きな夢が欠けているということだ。あなたは世俗的なもので満足してしまっている。あなたは身を伏せて、大地を這いずりまわりはじめている。あなたは上をみあげていない。遥か彼方から呼びかけてくるものがある! 遥か彼方から挑みかけてくるものがある。彼方からの挑戦を受け容れる者のみが真の人間だ。そうでない者たちは「人間」と呼ばれていても、人間の姿はしていても、真の人間ではない。

 人間でありなさい! 未知なるもの、彼方なるものの挑戦を受け容れなさい。それをあなたの実存の大いなる夢にするがいい。

 世の真理を追求はしても、決して今を生きることにおろそかであってはならない。彼方から問われている存在としてのこの゛自分゛自身を見失ってはならない。ひとは人それぞれの立場で人生から問われ、それぞれのやりかたで答えようとしている。そのための苦悩が、その情熱が、単に生活するためだけのために生まれてきたのではない、人間としての存在理由となっている。

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2008年8月 2日 (土)

生きる意味(1)

このタイトルで多くのことが語られる。一方で、全く語られることもない、単なる言葉遊びになってしまうかもしれない。それでも、不安定で明日どうなるか知れない世の中だからこそ、ひとり一人が考え続けねばならないこと、それが生きる意味についてではないでしょうか?

最初に取り上げたいのは、和尚についてのガイドブックを何冊か出されている著者のなかからです。著者はフランクルという「夜と霧」で著名な実存心理学者が、強制収容所で体験した中から生まれた人生観、収容所で起きた出来事をひきあいに出してこう綴っています。

 ‥そこで重要だったのは、カントに習っていうと「コペルニクス的」回転だった。それはものごとの考え方を180度転換することだった。その転換をしてからは、その転換を果たして後の彼らはもう「私は人生に何を期待できるか?」と問うことはなく、それからは「人生は私に何を期待しているか?」と聞くだけとなった。

 つまり、私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、初めから誤っているのだ。私たちは生きる意味を問うてはならない。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているのだ。私たちは問われている存在なのだ。私たちはその問に答えを出さなければならない存在なのだ。そしてそれは生きていることに責任を担うことだ。

こう考えると、恐れるものはもう何もない。どのような未来もこわくない。未来がないように見えても、こわくない。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからだ。すべてはもう、その都度私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのだ。その際、どんな未来が私たちに待ち受けているかは、知るよしもないし、また、知る必要もないのだ。

 ある無期懲役囚が移送の途中火事が発生して、この黒人懲役囚は手錠を解かれ、十人の人を救って、その働きに免じて後に釈放となった。このようにどんな人にもどんなことが待ち受けているか、誰にもわからないのだ。どのような重大な時間が、どのような一回きりの機会が、まだ自分を待ち受けているのか誰にもわからないのだ。

 この人生が出した問いに答えることで、瞬間の意味を実現することができる。

 人生にイエスといおう

 自分の意味よりも、人生の問いに答えるというコペルニクス的展開によって、人はどんな現状でも生きてゆくことができる。どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれだけ最善を尽くしているかだけだ。最善を尽くして、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけだ。各人の具体的な活動範囲では、一人一人の人間がかけがえなく代理不可能なのだ。

以上 「和尚の超宗教的世界:玉川信明」社会評論社より

和尚(ラジニーシ)の超宗教的世界―トランスパーソナル心理学との相対関係

 私たちは、人生に意味を求めるのではなく、現実問題としてある、身の周りから問われている問いについて気づき、それに真摯に答えていこうとする姿勢が大切なのだと言える。そしてそれは、ありのままの自分と向き合うことでもあり、今そこに居る自分自身から始めていくことでもある。

私たちは、自分がすべきこと、成長に向けて必要な課題といったものは既に与えられているのかもしれない。どんな些細なことでも、それは自分にとっては意味あるものだと思えたなら、そのときから、自分のどんな人生の状況にあろうとも、それは耐え忍ぶことができる。私は、最初にこれを紹介することで、ひとりひとりが自分の背丈で自分自身と向き合うことの大切さをいいたい。ひとは、いま自分のいる場所からしか始められないのだから。その一歩一歩が時間を大切にするということであり、個々の瞬間に生きていくことに限りなく繋がっているのだと思うから…。

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2008年7月25日 (金)

生のゆくえ

生とは、死と彼方の世界にそなえて身仕度を整える機会だ。

死と彼方の世界に対する準備を怠っているとしたら、あなたは愚か者だ。あなたは大いなる機会を取り逃がしている。

生とは機会にすぎない。あなたが知っているこの生は、本当の<生>ではない。

それは本当の<生>に到るための機会に過ぎない。本当の<生>はまさにこの生のどこかに隠されている。だが、それは呼び起こされねばならない。目覚めさせられねばならない。それは深く眠りこけていて、まだみずからに気づいていない。そしてあなたの本当の<生>がみずからに気づいていなければ、あなたのいわゆる生はたんなる長い夢にすぎなくなる。しかも、それは甘いものではありえないー それは悪夢になる。

本当の<生>に根を下ろさずに生きることは、大地に根をもたない樹のように生きることだ。美が欠けているのはそのためだ。優美さが欠けているのはそのためだ。ブッタたちが語る人間の輝きがあなたに見えないのはそのためだ。

前著、「黄金の華の秘密:和尚、市民出版社」より抜粋

 自分たちがこの生と呼んでいるものは、未だ実現していない、自分自身の可能性、自己実現し、生がわたしに与えた能力を開花させるための機会であるのだという。

一方で本当の<生>、死と彼方の生と和尚が呼んでいるものは何だろう?

私たちは、自分自身の影として、この生を受けたに過ぎない。この影の生を私の生であると思い続ける限り、不毛な人生はどこまでも続いてゆく‥‥‥。

光として、エネルギーとして、魂としての自分を想起すること、そこに今、影として生かされている私たちの進むべき方向が見えてくるように思えるのです。

自分の影としての生を謳歌することは、それはそれで楽しいけれど、それは永遠ではあり得ない。永遠でないものにすがるとき、人は暗闇へと引き込まれてしまう。自分が自分であるために、環境が自分に対して求められていることや、自分のやるべき事柄、今置かれているおのれの立場の中に、常に新しい自分の発見ができれば、それが、本当の生に近づくことにつながっているのだと思うこの頃です。

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2008年6月29日 (日)

暗闇から光へ(2)

不安定な基礎の上に建てられた家、それはいずれは崩れ去らねばなりません。著者はよく暗闇から光へと向かう人間の意識の道筋を、海から発生した一滴の滴が海に還る様子に例えたりしています。二度生まれ変わる必要があるというのも、一粒の種子にたとえて、種子が一度死ななければ芽を出すことはないというふうに述べています。

ディヤン・スートラ―瞑想の道「ディヤンスートラ」から引用です。

あなたの探求は至福に向かっている。神性を探究する人とは誰もいない。あなたの希求は至福へと向かう。至福とは神だ。ーわたしは完全なる至福の状態を神と呼ぶ。完全な至福の境地にある瞬間、あなたは神性だ。つまり、内側に欲望が残っていないとき、あなたは神性になる。完全なる至福とは、欲望が残っていないことを意味する。まだいくらかの欲望があったら、依然としていくらかの惨めさもある。もはやどんな欲望もないとき、あなたは完全なる至福の中にあるー そのときはじめて、あなたは存在とひとつになる。

「存在」とは、この世界、宇宙そのもの。およびこの宇宙を開眼したらしめている根本原理とでもいうもの。この一回の生で死ぬまでにやり残したことなく終わることができる人は殆どいない。次に生まれ変わったらあれをしたい、これをやりたい‥。欲望が残っているとはどういうことなのか?

それは自分に欠けているがためにそれを補うための何かを必要としているということだ。お金がたくさん欲しいのも、それで必要ななにかを満たしてくれる。安全を保証してほしいのも、自分だけは死なない存在であってほしいから。愛情が手に入らなくて、さまざまな形でそれを奪い取ろうとするのも、自分に重大な何かが欠けてるから…。

本当は何一つ欠けてなどいない。本当の自分、時空間から自由な永遠の生とでもいうもの、永遠の魂があるのなら、何も欲望したりはしない。その生に向かうが故の、個別に生まれた人生ではないのだろうか。

ある者はイエスを見、ある者はクリシュナを見るー すべてはマインドの作りごとだ。神は、目に見えるいかなる形も持たない。神性には、顔も動きも形もない。意識が形なきものに入り込む瞬間、それは神性へと入る。

あなたは神性と出会うのではなく、それとひとつになる。あなたが片側に立ち、神がもう一方に立って対面するといった出会いはない。一滴のしずくが大洋に落ちるように、あなたが無限なる存在に溶け入る瞬間がやって来るのだ。その瞬間の体験こそ、神性の体験だ。あなたは神に出会ったり、見たりするのではない。一滴のしずくが大洋に落ちるときに感じるように、あなたは存在と溶け合う体験をする。

ちょっとコーヒーを飲んで一休みします。

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2008年6月28日 (土)

暗闇から光へ(1)

イエスキリストが人々のことを迷える子羊と言った。人は暗闇の中で生まれ、光を求めて今という時を手探りで歩いている。私たちがいまここに生きている所は仮の住処であり、仮の姿である。そもそも砂の城を作ることしかできないこの世界に、私たちは何を求めて生きているのだろうか。少し理解のある人は、「それは感動を味わうためなのだ」と言う。もっと理解のある人は、「自分たちが成長するために」と言う。

動物はほぼ無意識の生を送る。その中でも人間は、意識の光をさまよい求め続ける。それはこの時空間の世界で、本来の自分を表現するためでもある。本来の自分とは、そこにある永遠の生とは何か?

今日は魂が暗闇から光へ向かう必要性は何か? という問いに答えた名言を紹介します。質問者は「なぜ、魂は存在と溶け合う必要があるのですか?」と問うところから始まります。

ディヤンスートラ:市民出版社より

魂が神性へと消え去らねばならないのは、生というものが、痛みや苦悩を通しては決して満たされないからに他ならない。別の言葉で言えば、生は常に、苦悩を受け入れられないということだ。生は常に至福を求める。苦悩することは、神性から離れることだ。あなたが神性とひとつになったら、生は至福となる。

だから、これは神や神性の問題ではない。あなたが苦悩から至福へと向上する問題であり、内側に存在する暗闇から光へと向かう問題だ。

だが、惨めでいることに満足できる人などいない。惨めさは、まさにその性質からして、あなたを自分自身から引き離す。至福は、まさにその性質からして、あなたを自分自身に引き戻す。世俗は惨めなものであり、神性は至福だ。神性と溶け合う必要性は宗教的な必要性ではない。神性と溶け合う必要性は根本的な必要性だ。

ちょっと一休みしましょう^_^;

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2008年6月11日 (水)

人生の波

人生における六つの波、「エンライトメント」:市民出版社から紹介します。

エンライトメント―ただひとつの変革 神秘家・アシュタヴァクラ

人生には六つの波がある、とアシュタヴァクラは言う。これら六つの波とは、飢えと渇き、悲しみと幸せ、誕生と死のことだ。飢えと渇きは肉体における波だ。これらは肉体の欲求だ。暑い天気だと、涼しいときよりも喉が渇く。これらは肉体の欲求であり、肉体における波だ。飢えと渇きは肉体のものだ。悲しみと幸せはマインドのものだ。だれかがあなたのもとを去るとき、そこには不幸がある。なぜならマインドはしがみつき、執着を生み出すからだ。愛する人と会う時、そこには幸せがある。その愛する人が去るときは不幸だ。気に食わない人と会う時は不幸で、その気に食わない人が去ると幸せだ。これはマインドにおける波だ。

そして誕生と死ー 誕生と死は生命エネルギーにおける波だ。誕生の瞬間には呼吸は始まり、死の瞬間に呼吸は止まる‥

呼吸とは誕生だ。呼吸とは生命のプロセスを意味している。人が死ぬと、呼吸は止まり、生命の過程が停止する。これは瞬間ごとに続いている。息が入ってくると、生命は入ってくる。息が出ていくと、生命は出ていく。誕生と死は毎瞬の出来事だ。あらゆる入息は生命だ。あらゆる出息は死だ。これらは生命エネルギーにおける波だ。アシュタヴァクラは言う、これらは六つの波であり、あなたはこれら六つの波を超えているー あなたはこれらの観察者なのだと。

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2008年6月 7日 (土)

生というもの

生とは何か? を問う時には同時に死とは何かが問われる。生きていくのがつらいとか、苦しいとかで死にたくなったりするのは、それだけ生に執着心があるからに他ならない。ほんとうに生きるのがどうでもよいのなら、人は自殺などを考えたりしないだろう。生と死は生の川の流れのまさに両輪なのだ。

普段、私たちは自分の時間に限りがあることを意識してはいない。けれど、この限りある時間というものを意識していないと、人生はそれほど実りのあるものではないということがわかってきた。何か目標を立ててやろうとするとき、それは自分からではなく、誰かに言われてすることがよくあった。その時、自分には無理だとよく思ったものだ。無理なのは目標も立てずにだらだらと過ごしてしまう自分自身の態度が原因だった。人は切羽詰まったときでないと、その潜在的な能力を発揮できないものだ。

生きるということも、時間を限定してこころしてかからないと、死ぬ際に後悔してしまう。

もし、自分に残された時間がわかっているのなら、もっと生きてる時間を大切にするのではないだろうか? 親との出会い、友達との出会い、恋人との出会い‥そして、愛する人との出会いの大切さ、貴重な時間というものは、失ってみて初めてわかるというのは何とも皮肉な話である。

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2008年5月 3日 (土)

生の不確実性

およそ生きもの全ては生かされている。しかし、自分で生きていると思っている人は多い。そのような人は未来に希望し計画を立て、夢があるから生きていけるという。それはそれで結構です。但し、自分の身体は借り物であることを忘れないことが肝要です。老後の安心のために健康保険制度があるけれど、システムに問題がある国の制度はなぜ強制されないといけないのだろう? それよりも将来の安心、今の安全にしがみつくあまりに、今を生き生きと生きていないひとが結構見受けられる。あなたは安全にすがりつくために、苦労を味わいたくないがために生きているのだとしたら、一生で味わえるはずの感動の十分の一も得られないのではないだろうか。残念ながら自分にも、身の安全を守るために、自分から変わろうとしないこころがある。

前著、黄金の華の秘密から

生で唯一確かなのは、それが不確かなものであるということだけだ。人は不確かさより他には何も当てにすることはできない。

私たちは、人の事故死や病死を他人事のようにみてしまう傾向がある。しかし、これはいつ自分に起きてもおかしくない。そのように生とは不確かなものだ。この明日がどうなるかわからない覚悟で今日を生きられたら‥

人々は変化を心底から恐れ、変化に対して大きな恐怖を抱いている。ものごとが良い方に変わっていくときでさえ、恐れる。彼らは新しいものを恐れる。心というものは古いものには実に賢く振る舞えても、新しいものに出会うと必ず当惑するものだからだ。心は新しいものをイロハから習わなければならない。

例えば、いま幸せを手にしているひとはより自分の環境を守ろうとして、かたくなになる。周りがどうあろうと、自分の家族、自分の職場、自分の国さえよければと思ってしまう。しかし、それはずっと続くものではあり得ない。

‥彼らはどんな変化も毛嫌いしている。いいかね、この傾向は多かれ少なかれどんな人間のなかにもある。あなたは変わりたくない。あなたは変化を恐れている。なぜなら、変化とともに新たな責任、新たな挑戦が生まれるからだ。そしてあなたは新しい状況に対処できるかどうか不安に思っている。古いものならうまく扱えるし、手ぎわよくさばけるから、古いものに寄り添っているほうがましだ。古いものは意のままに操ることができる。新しいものはどうなるかわからない。思いどおりになるかもしれないし、ならないかもしれない。

学ぶことができるのは子どもたちだけだ。子どもたちには何も過去がないので、しがみつくべき古いものがいっさいないので、いつでも嬉々として学ぶことができる。大きくなればなるほど学ぶことができなくなる。

イエスキリストが「幼児のようにならなければ神の国へは入れない」といったのも、自分たちがそれまで溜めこんできた思考パターンや生活様式、文化などに縛られてしまっているからです。

生において確実なものはなにもない‥ そう思うことで、自分の中に大事にしていた宝物が色あせてくる。ひとは成長するためには、失うものがあることを避けては通れない。何も失いたくないと思うこころが、人生をつまらないものにしてしまう。ひとは幸福なとき、ほとんど考えることをしないものだ。それはそれでいい。けれど、不幸なとき、悲しみに打ちひしがれたとき、そのつらさのなかでこそ学ぶべきことがたくさんある。その苦しみは、自分が変わらなければならない試練の時なのだ。生は流れる、その流れとともに自分が変わることを恐れてはいけない。それが自分も生の流れそのものになり、自分の人生を真に生きるということだからだ。と、今の自分にも言い聞かせているのです。

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2008年4月10日 (木)

生はただ、流れる川

生きることの意味を問うている時、見えなかったことがある。

この世界に生きて、因果の法則というものに縛られている自分がいると思った。

 私たちが目的を持ち、計画をたてて物事を進めるのは、それが思考するのに都合がいいからだ。それと同列で生きることの意味を語ることの愚かしさにしばしば陥ってきた。

 人はみんな光の存在です。その光はもともとはひとつであり、そこから私たちという個々の分魂ならぬ、無数の光の化身が生まれてきている。この光の化身としての私たちは、何度もこの世界で生まれ変わることによって日々成長し、指導霊となり、さらに高みを目指して成長する途上にあるという。これが私たちの生きる目的であり、意味なのだ?

それでは、なぜ今、これ以上何もすることもなく十分至福を感じることはできないのだろう? なぜ、今の自分ではいけないのだろう?

私たちは時間という幻想の世界に翻弄されているだけではないのか? 因果の法則というのも、時間なしには考えられない。私たちの思いが世界を作るということは即ち、それは時間を作るということだ。成長するということも、時間抜きには考えられない。カルマの法則は確かに存在する。しかし、それは私たちの思いが生み出した世界の仕組みではなかったのか。ゲームをするにもルールがなければ、ゲームそのものを楽しむことはできない。因果の法則とはこのルールのことだ。ルールを無視したり理解できないからこそ、そのゲームは楽しくなくなって、行き詰ってしまうのだ。

 人が生きる意味を問うのは、不幸な時とか、今の自分に満足していないからであり、また、生きることのはかなさ、つらさ、悲しみから逃れることができない状況に置かれているのが人間である。そして生きる意味を問うことが既に時間の中におり、因果の法則下に私たちがとらわれていることの証でもある。

 しかし、生死を命の一連の流れととらえ、その流れに気づくことで生の神秘の何かが明かされるかもしれない。

生きることは祝祭であるべきだ」と云った和尚の言葉が浮かんでくる。

それはただ、流れることだ。強いて言えば、生という川の流れの気づきのために私たちは生かされ続けているのでは、と思う。

子供が時間を忘れて遊びに没頭する。そこには現在しかない。その現在には時間のない永遠の至福の一瞥がある。

生は、ただ流れる川

この言葉をヒントに故郷へ向かう私の旅は続いてゆく‥

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2008年2月23日 (土)

旅と人生

旅はひとを新しくする

それまで抱えていた日頃の問題から解放される

なにか行き詰ったら旅に出てみるといい

旅先では また違った自分が顔をのぞかせる

まったく知らない人の中で過ごすのもいい

ひとはいつもいる自分や

身近な知人を固定観念で見ている

それは生活する上で都合がいいのだけれども

本当は自分も、他人も、時間とともに

その外側も、中身も移り変わってゆくもの

だからこそ、毎日、新しい自分やひとの発見が必要だ

日常生活ではそれが難しい

旅先では こころが一時的にせよ解放される

まさにその時、

新しく顔をのぞかせたこころの声に耳を傾けてみるといい

また違った自分の居ることに

とまどうとともに、

こころが洗われ、素顔の自分に喜べる瞬間が

きっとみつかる

そしてまた、明日から

生きてゆく力にもなる

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2008年2月 7日 (木)

自分の人生

その人の一生を、誰に頼るかであなたの人生は違ってくる

「私をしあわせにしてくれる人を探しています」

あなたをしあわせにしてくれる人など誰もいない

「みんな自分が一番かわいいのだ、自分に何かしてもらいたいから

誰かのために何かをしようとするのだから」

かわいいといいつつも、決して自分のことを大切にしているのだろうか?

ひとは一体誰のために生きてるのだろう?

誰とも関わり合わなければ、人間おかしくなる

けれど、誰とも関わり合わないなかで

あなた自身が見えてくる

あなたは、他の人との関わりのなかで

あなたであるのに過ぎない

そんなあなたが

他の誰かに何ができるのだろう?

あなたのすることひとつひとつが

自分自身にはねかえってくる

だから

誰もあなたを救えない

あなたを不幸にするのも

あなたを幸せにするのも

あなた自身に他ならない

そして

誰かの喜ぶ顔がみたい

そう思う自分がしあわせではないだろうか?

そこでもう一度聞こう

あなたは誰?

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