2013年1月 9日 (水)

生きることの問い

人生の中で何に一番こだわっているのかと問えば、それは生きることだろう。

生きるのが嫌になって自殺する人もいるが、それも自分の生をもっと充実させたかったか、ちゃんとした目標や夢があってそれが叶えられそうもない絶望から自殺する人たちが多いのが実際である。それも生きることに対する執着心に他ならない。

不思議な事に、この生きる事に対するこだわりが強いほど、生を充実させられないという矛盾がはっきりしてきた。

身近な親しい人たちに対する、ずっとこのまま一緒にあって欲しいという願いも、生きることに対する執着なのだ。身近な人の安否を心配するあまり、自分自身の生活自体がおぼつかなくなり、集中力もなくなり、目の前の仕事や家事がおろそかになったりする。

本当に、生を充実して生きたければ、この生きることへのこだわりを捨ててかからないといけないことにようやく気付くのである。

自分の葬式や、死んだ後の御墓や住居の処理のことなどを考えること、いわゆる終活をする人が増えてきているという。終活をしている人たちの多くは、生き生きとして生活しているという。それは自分の人生の終わりをどうするかを自分で予想し、自分で解決しようという気持ちが、自分の人生に対する前向きな姿勢を培うからであるのだという。それは、自分の生に向き合い、限りある時間を意識するところから、本当の自分自身の生き方を考えるようになるきっかけともなるのだろう。

明日も、今日という日が続くのが当たり前だと思っているうちは、決して自分らしい生き方を見つけられない。毎日が、刻一刻と移り変わっていくのだという現実の理解と、そこから来る意識の緊張感が、人を前向きな生き方に向かわせるのかもしれない。

それを阻むものは、やはり執着心なのだ。

明日も、この幸せが続いて欲しいとか、いつまでも誰かと一緒にいられますようにとかいう願いはあっていい。けれども、それはいつまでも続くものではないという認識が心のどこかになければ、人は決して至福な生をまっとうできないのではないか。なぜなら生は時間とともに移り変わっていくものだから。そうした現実に目を向けさせないのが、夢やあこがれ、そして理想なのだ。しあわせに対する執着心こそが、生における最大のこだわりであるなら、それは同時に死ぬことへの不安や恐れとなって現れる。そして人は決して真に生をまっとうできないでいる。

生へのこだわりを捨てる事ができたとき、人はそこで初めて生死という輪廻の歯車から自由になり、生死を超えた、永遠の泉を手にすることができるのではないだろうか?

いや、手にするというと、そこにまだ「自分に対するこだわり」がまだあるから、永遠の泉に飛び込む事が可能になるといった方が良いのかも知れない。

人の最大の執着とは、この「自分自身」のことなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月29日 (土)

私が変わる?②

最近パラレルワールドとか、アセンションについてのブログの記事が目立つようになってきた。そもそも、この言葉は今に始まったことではなく、平行宇宙に関する書物は、私の記憶する限りではSF小説の中で30年も前にあった。 

宇宙論を科学的に研究した結果、やはり平行宇宙というのはあり得るという、その可能性が示唆されている。

ここで、気になっていることがある。

「僕が、あの人生の転機に戻る事ができたなら、そこでやり直してまた今の自分とは違った暮らしをしていることだろう」

これは、それぞれの自分がそれぞれ同時に存在する平行宇宙のなかで、まったく違った人生を送っているという誤解である。

確かに、それらは自分ではある。しかし、僕はその平行宇宙の別の自分の記憶の中には入れないし、その世界にまれに侵入することができたとしても、それは自分と同じ顔かたちをした他人でしかないのだ。

何をいわんとしているのか、

つまり「僕」は今の意識状態があるから自分なのであり、それはこの世界にただ一人存在するオリジナルなのだ。それは他の平行宇宙の自分に対してもそうなのだ。ということは、「僕」が、この世界にいることは、今の意識状態の自分自身の反映している世界なのであるから、決して他の宇宙の自分自身にはなれないということだ。もし、あの時、‥ していたら! があれば、その行為がなされていたなら、それは今の自分とは別人である。

アセンションにしてもそうである。もし仮に今の地球の意識レベルの波動が上昇していくのであるならば、その世界にその未来に移行できるのは、それに相応しい意識レベルの波動だけである。

私たちは、今の戦争が絶えない世界で、政治も腐敗や汚職だらけで、この先どんどん貧富の格差が広まっていこうとも、それは自分たちひとりひとりがこの世界を選んだ結果であることだろう。もし本当に、誰もが回りの人たちをしあわせにしたいと、本気で願えるような世界を作っていきたいのなら、今すぐにでも、そのようなパラレルワールドの住人になっていることだろう。

私たちは、この共有する世界で、共に困難と立ち向かっていかなければならない運命共同体である。であればこそ、自分だけが意識を高めて別の住みよい世界に移行するのだ、と思えば思うほど、この世界に縛られてしまう事になる。

ともに、より良い世界を形作るために、闘っていくこと、ともにこの世界の住人がしあわせになれるよう頑張ること、そう考えるのが本筋で、その結果は後からついてくる。

何の努力も行動もなしに、人は決して変わる事はできない。自分勝手、無努力、その罠にはまり続ける私たちは、いつまでたっても戦争と、つかの間の平和を繰り返し、人権無視の蔓延する世界に住み続けさせられてしまうのだ。といいつつ、それは一人一人の選択の結果だ。思うようにならない世界なのではなく、そのような世界にあらしめる自分自身の責任なのだ。一方でわざわざそこを修行の場とする人たちもいることはいるだろう。

このように、人はなかなか変わる事ができない。私は変われる、そう思った瞬間から、決して変わってはいない自分自身の悪夢から逃れられない。

そうはいっても人は変わることができる。それは真にピュアな魂がきらめき始めたときだ。人が変わるというのは、実は大変なことなので、その多くはとてつもない苦痛を伴う。それが嫌だから、私たちは、いつまでたっても変わろうとはしないのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年11月 4日 (日)

私が変わる?

世の中を嘆いていても始まらない。

自分がそれに相応しい環境に置かれているのだから。

このことを、私はよく理解していない。

私自身が変わらない限り

自分が変わっていかない限り、

ブログでは大したことは述べられない。

そう思い始めてから

文章が書けなくなってきた‥。

バシャールが

「あなたが人を変えるのではなく、

すでに変わった人々がいる周波数の世界に、

自分がシフトしていくのだということです。」

と述べていた。

私たちの住む世界は、お互いが教師であり、反面教師だ。

それぞれに学ぶところは多い。

大なり小なり、私たちは、この住んでいる社会のなかで

「あなたより、優れていることを誇示したい」

と願っているのだろう。

もし、そう思うなら、それは間違っている。

和尚はいう。

比較は障壁だ。なぜなら、比較は自我を、暴力を生みだすからだ」

比較するのは、野心があるからであり、野心持つことは暴力なのだという。

和尚はいう。

「私たちの世界は腐敗している。野心と共に罪人を、野心と共に聖人を生み出している。そして彼らは、互いに依存しあっている。というのも、その両方が同じ軸― 野心という軸の上に存在しているからだ。」

「愛はあなたがいない時、自我がそこに存在しない時にやってくる。あなたが野心的でなければ、自我もあなたも存在しない。非野心的な瞬間とは、瞑想の瞬間だ。野心的でない瞬間、すなわち何かを探し求めているわけでも、誰かに何かを求めたり、何かのために祈っているわけでもない時、自分自身であることに全面的に満足している時、自分自身を誰とも比較していない時― その瞬間、あなたは神聖なるものの深い源泉に触れている」

この自分を他の誰とも比較しないで、自分自身でいられる時こそ、神が自分を通して何かを表現している時ではないのだろうか? 神は一人ひとり、ひとつひとつの生き物を通して絶えず何かを表現し続けている。それは良いとか悪いとか、美しいとか、醜いとかいう以前の存在であり、命の表現の一形態だ。

バシャールのライフワークは、その著「未来は、えらべる」の中で

すべての人が、大好きなことをしていくのを応援する」と言っていました。

その意図は「もし、地球にいるすべての人が、大好きなことをして生きていけたとしたら、どんなにすばらしいだろうと、いつも思っています

というものでした。

お隣の国なのにいつまでも憎しみ合い、ののしり合うこの世界は、ほかならぬ、この世界に席を置いている私たち一人一人に原因があり、責任があります。

なげかわしい、みっともないというのでしたら、じゃあ、あなたはそんな争いのない世界に移動すればいいだけじゃないですか、と言いたくなる。

というのも、バシャールによれば

すべては、あなたの波動によってつくられたものです。

その波動を、より反映している現実に行くのです」

つまり、私も、あなたも、この憎しみ合い、ののしり合う世界の波動に共鳴している部分があるということ。それはつまり、私もあなたも、敵を作り、憎しみ合うことが、いまも

心の中の一部として、その可能性を含み持っているということなのです。ただ、いままでは、そういった環境に置かれなかったために、その憎しみ、恨みといった感情を発動させる機会がないということなのだと言えると思います。

自分が変わらなければ、別のリアリティという平行宇宙には決していけないという、

この厳しさを思う時、私は依然として変わっていない自分の心に愕然としています。

和尚、どうか、あなたの言葉の意味の一つひとつが骨の芯まで沁み渡るように私を目覚めさせて下さい と、叫んでいるわたしがいる。けれども、それ以上にこの社会で、この日本で、今のままの生活をずっと続けたい、現状維持でいいや‥ という自分がいる。

だから自分は、今変われていないのだ。

あなたは、他者を幸せに導いていますか?

ブログでの言葉で他人をしあわせにできていますか?

それはほかならぬ、本人の気づきによるものであって、あなたの言葉にその力はない。

だからこそ、自分が変わってからでないと、何を述べても空しいと思う。

それでも、私は変わりたい、

別の意識の波動を得たいと思う、そしてその情熱を

あなたにも持ってもらいたい。

私もあなたも、共に野心の充満するこの世界に身を置いているという事実を

しっかり受け止めよう。

そこから、共に一緒に旅を始めようではないですか?

誰もが、自分自身でいられることに、感謝を捧げられるようになるために、

自分自身でいられる幸せな世界に意識をシフトさせるために‥。

引用

「グレートチャレンジ:和尚」

「未来は、えらべる!:バシャール、本田健」

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年9月23日 (日)

責任と魂

人間は、その魂を確実に感じられるようになると、神様になる。この神様とはどういうことなのかよくわからない。

自分の生活の安全の保証を誰かにしてもらおうとか思っている間は、神様には決してなれない。自分も世界に生きる一人の存在として、世界に起きているさまざまな出来事には責任がある。東日本大震災が起こってから、そこで暮らす人々のその後のつらさを自分の事のように感じ、何かをしないではいられない人は、それだけで尊い存在だ。自身は、いつ自分に起きてもおかしくない。

戦争が絶えない世界はどうして続くのだろう?

なぜ、領土問題でいつもいがみ合わなければならないのだろう。

こうした出来事の一つひとつ、その不幸な出来事に対して自分のこころの在り方が問われている。

「わたしには関係がない」

などと言っていられる人は、自分の魂を限りなく曇らせているひとなのだろう。

シリアで銃弾をたくさん受けて亡くなられた山本美香さんは、あんな恐ろしい場所で

何年か前にもジャーナリストが犠牲になったにも関わらず、どうしてリポートを続けなければならなかったのだろうか?

それは彼女にしかできないこと、伝えられないことがあった、彼女ほど、その場所に行く使命に見合った人はいなかったからなのだろうか?

世界中で起きる悲しい出来事の数々が、その一端に自分の日頃の憎しみや恨みや、浄化されない想いにも原因があるとしたなら、そのことを知ったならどうだろうか?

ひとは最初から使命感を持って生まれてくるのではない。その人の自分の中の魂が見えてくる度合いに応じて使命感が生まれ、自分がいま、この場所に居ることの意味を知っていくのだと思う。

私もあなたも、いずれは自分の使命感から行動すべきときが来る、その前に自分がいまここに生きてあることの意味から知ってかかろう。

いずれは私たちも、世界の不幸な事件の数々に対して、自身の責任感から使命感を帯びて生きていくことになるだろうから。

普通私たちは、神は私たちに責任があると、全体は私たちについて責任があると感じている。ブッダは片方の極端まで行き、言う。「私は<全体>に対して責任がある。世界に醜さが存在するなら、私はそれに対して責任がある。なぜなら、私がそれを作ったからだ。もしこの世に憎しみが存在するのなら、その責任は私にある。なぜなら私がそれを作ったからだ。愛を選択できる時に、私は何度も何度も憎しみを選択してきた。私は、憎しみ、怒り、肉欲を選択してきた。そして私が選択すると、ほかの者がそれと同じものを選んでしまう環境を作ってしまうのだ。」

自分のことは自分に責任があると感じるのなら、あなたは魂となる。もし自分には<全体>の責任があると感じれば、あなたは神となる。その時障害は存在しない。あなたは<全体>となったのだーーー 「他」は消えうせたのだ。

「グレートチャレンジ、和尚(市民出版社)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月11日 (金)

子供へのいざない(2)

私たちは、一人ひとりが既に個性的であり、その種子を宿して生まれてきている。

このことは、一人ひとりの誕生がそれぞれに意図的なものだったからだ。たとえそのことを覚えていようと覚えていまいが‥

OSHO曰く

‥人間のほうが、そのもとで生まれるべき星座を選んでいるということだ。自分の天賦の可能性が何であれ、前回の生が全体としてどんな形をとったにしろ、また動機となる意識が何であれ、人は自分がなりたいものに従って、それにふさわしい星座のもとに生まれる。どの子供も、どの新しい命も、特定の瞬間にこだわる。子供は特定の瞬間に生まれる事を望み、新しい命は特定の瞬間に受胎することを望んでいる。両方とも互いに依存し合っている。(隠された神秘:市民出版社より)

新しい命は、神の分霊、子供は、過去生の記憶の総体であると解釈している。

私たちは、特定の時代を、社会を選んで生まれてきた、そしてそこで何かをなし得たかった。そしてまた、同時に分け与えられた命に対して、自分なりになすべきこと、自分にできる何かを示されてきた。そのことを私たちは、大人になるに連れ、見失ってしまっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 2日 (水)

子供へのいざない(1)

もう一度子供になりなさい

それであなたは創造的になれる

子供はみんな創造的だ

創造性には自由が必要だ

(マインド)からの自由

知識からの自由

偏見からの自由

(OSHO:ニューチャイルドより)

イエスキリストも、天国の王国に入るには、(幼な子のようになせなければ)と言っていた

そこらへんにいる子供は可愛いかもしれない、純朴であるかもしれない。しかし、その純朴さは無意識であるがゆえに、社会的な悪にも善にもどっちにも染まる可能性を秘めている。和尚はもう一度子供になりなさいと言っている。このもう一度というのが、いったん大人として、それぞれの生きる社会に染まった身が、また子供のような純粋さを取り戻すということなのだろう。

子供に戻るというのは容易ではない、しかも、以前のような子供の時に戻るだけでなく、あくまで意識的に子供に帰るということでもあるのだ。

子供に戻ったとき、再びとり戻せるものが「自由」と「創造性」だ。

これらは、私たちがどのように生き延びていくかではなく、どのように生きるか、生きたいかをしめす指標になっているからだ。自由がなければ私たちは単なる生活者として、生存競争に明け暮れてこの人生は終わってしまう。創造性がなければ、私たちは決して新しい未来の扉を開くこともできなければ、真実の神秘の海にたどり着き、感動を覚えることもない。

わたしたちは生来、この「自由」と「創造性」を携えてきた。

社会のいわゆる画一的な教育制度によって、私たちは知らず知らずのうちにこの両翼をもぎ取られてしまっていた。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年8月21日 (日)

実存の深みに(6)

自我は世界を作り出す。

私たちは、関係性の中で生きている。もし、私たちが無人島で独り取り残され、そこで何日も過ごさなければならないとしたら、そのうち私たちはいろんな幻想を抱き、そこに人がいるかのような錯覚に陥ってしまうだろう。そこでは気が狂わなければ、自我を保って生きていくことはできないのだ。

私たちは、お互いを必要とする。そして、このことが私たちを本来の私たちの実存(神の一部)から遠ざけてしまう。

執着がなぜいけないのか?

それは私たちを不幸にするからだという。

それまで依存していた人たちが亡くなったり別れなくてはならなかったりして、それまでの幸福から、不幸のどん底に突き落とされる。そこからまた、似たような依存対象を捜し続けて、ひとは依存相手を見つけるまで幸福にはなれない。

自分の内側を見つめ、あなたのどんなあり方が、自らを世俗的にしているかを見定めなさい。覚えておくことだ。あなたを世俗的にしているのは他人ではない‥

あなたは父親や妻に抱いている執着という感情のせいで、世俗的になっているのだ。

世俗的にならないことが、夢や幻の世界をつくらないことになる。

それは生まれては死んでいくこの有限な世界からの卒業という事になる。

宗教とは、あなたの意識の変容だ

自分が変わらなければならない。そして、物事の執着から離れていければいけるほど、真実の世界が開けてくる、人は自分自身の何物かを知るようになる。神の側にいられるようになる。

独りあることの至福を体験することができるようになる。それまでは、他人の言動一つ一つに喜んだり悲しんだり、傷ついたりして生きていかなければならない。

‥あなたは、自分だけが存在し、ほかには誰もいない中心へと、向かわなければならない。

そしてこの中心は素晴らしい。この中心を体験する人は、大洋の深みを体験するだろう。

(太字:和尚)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年8月13日 (土)

実存の深みに(5)

私たちは日頃、狭い自我意識のなかに閉じ込められて、あくせくと生活している。私たちの本来の意識の在り方というものはもっと普遍的で、広大なものではないかという気がするのである。

この広大な意識の領域から私たちは、個々に個別意識を持ち、分離されたという感覚を持って男女の交合の中に仮の魂として入っていく。その仮の魂というのは、個人個人が記憶の潜在下でうごめいている過去の思考の集まりやさまざまな出来事に対する感情の記憶なのではないかと思う。

「自我」は、私たちのなかにあって、その個人を特徴づける中心的なものである。それでいて、それは没個性的である。それは誰もがそれぞれの時代のなかで一様に競争する人間社会の価値観のなかで生き延びようとする本能と結びついているからに他ならない。

権力や名誉、セックスは単に誰もが求める本能であるばかりか、それは個人として生活者として生き抜く事を目的とする意識的主体が「自我」なのだろう。

そうした「自我」に支えられて私たちは生きているのであるが、一方で私たちは、それぞれにユニークな存在である。ユニークとは、それこそ各人がそれぞれに「世界にひとつだけの花」というかけがえのない存在という意味である。このユニークさとは、単に身体的な特徴とは別に、個人の精神的内面性の開花を目指すということでは、「個性」的である。

個人の全面的開花とは、この内面性、潜在的な個人の資質の開花であり、それこそ、全体としての神の多面性を象徴するものである。

私たち、ひとりひとりは、神の一部であり、神の表現の一部となっている。それゆえに社会は、個人ひとり一人の資質を伸ばし、開花させようとする場を提供しているようにも思える。そして自我は、誰もが持っている生存のための意識装置ではあるが、個人に与えられた神の資質を実現化させようとすると、障害物にも成りえるのである。だからこそ、自我を意識しつつも、それを超える自己覚醒が求められるのだろう。それは自己の奥深くに存在する、神と共にある無、超意識の状態なのだろうか? その状態は覚醒した者のみが知る体験なのかもしれない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年8月 6日 (土)

実存の深みに(4)

それぞれの想いを持つ「自我」は、思うに一種の記憶装置ではないかという気がする。

この記憶装置が、それぞれの人生で叶わなかった願いごとを引きずって、次の人生で完結しようとする。

自我は自分の物語を最後まで完結させたい。

この

私の中のこの考える自分というものは、不幸の源であるのだから、取り去らねばならない、という理由で人は「自我」というものを放棄しようとする。

ヨーガの思想は、瞑想の様々な技法を駆使して、この自分というものをいかに取り去り、本当の自分に目覚めるかに関わってくる。

しかし、自分を無くすことばかりに目を向ければ、却ってそれが執着となり、障害になって、本来の目指すところの「道」にそれてしまう。

思うに、自分を無くすことによって本来の自分が甦ってくるのではないだろうか?

より正しくは、自分の中の「自我」を認識し、それを客観的に眺めようとする自己の視点が必要なのだ。その視点をもたらすために、瞑想というものがとり行われている。自分の中の自我に振り回されることがなかったら、本来の神様から分け与えられた種子が自分のなかに芽生えはじめるのではないかと思うのです。それが「本来の自分」ということなのではないかと思う。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年8月 1日 (月)

実存の深みに(3)

私たちはこの世界で、しあわせなことも数々あるが、それに等しく、またはそれ以上に悲しい事、苦しい事やつらい事が多いのはなぜなのだろう?

それぞれが、それぞれの想いを持ち、それぞれの世界観を持っている者が集まって作られたこの世界は、似たような考え方をした数の多い人たちの勢いによって展開されていく。そして、この世界は自我を中心に、各人が競争し合って、自己主張し、自分の夢や利益を追い求める世界でもある。

そうならざるを得ないのは、この世界では誰もがせいぜい100年前後で死んでしまうからだ。この有限の生を与えられた私たちにできることといえば、限られた一生の間に自分がどれだけ幸福でいられるかが最優先される。他人の幸福のことまでかまっていたら、一生があっという間に終わってしまうというわけだ。

もし、人間の生が、いや生き物の生がこの先もずっと永遠に続くものであるという認識をどこかで得られたのなら、生き方に対する姿勢もずいぶんと変わってくるのに違いない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧