瞑想

2012年1月 3日 (火)

正しい思念

正しい思念とは、「無為にして為す」という意味で使われる。それは自我の思考が静まり、こころが神によって動かされるときのことをいうのだと和尚は云う。何が正しくて何が間違っているのか判断するのは依然として自我の思考活動の領域であるというのだ。

自我の思考活動によるものは全て間違っており、自我からくるものは自分を苦しみのなかへ連れていくという。

和尚いわく

 自我を落とし、ものごとが起こるにまかせなさい- 風が吹くと樹が揺れ動き、太陽が昇ると鳥たちが歌いだすように<全体>に身をまかせきってしまいなさい。あなたはこの生を独りだけで生きているわけではない。神があなたを通して生きるがままにさせなさい。そうすればすべてがよきものとなる。神から生まれるものはすべてよい。

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2010年11月20日 (土)

精神の物質主義(4)

さて、目覚めた心の状態が、築き上げられるものではなく、むしろそれを妨げている混乱を焼き尽くすことで得られるのなら、私たちは常日頃言っている、精神的な成長とは一体なんなのであろう。それは太陽が曇って見えないので、その雲をひとつひとつ取ってゆく作業によって可能であるるだとすれば、私たちは、成長ということではなく、心の混乱状態から抜け出すこと、その曇りを吹き払うことで本当の自分自身を発見できるのではないだろうか‥。

常にあるもの、時間に流されることの無いものこそ、自分の本質であるのだと、和尚も述べていた。

精神的な成長とは、時間の経過による「成長」ではない。それは横軸に時間軸をとると、時間のある地点からの垂直方向による飛翔なのではないか。人は、あるきっかけによって本質的な自己を見出す。それは成長によっては決して見いだせない。それは時間軸上にはないものだから、それは自明のことだろう。そのきっかけさえあれば、人は本質的な自己を見出せる。

悟りとは、時間からの飛翔である。とはいえないだろうか?

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2010年11月13日 (土)

精神の物質主義(3)

精神的な道とは心の混乱を切り払い、目覚めた心の状態をさらけ出すことだ。目覚めた心の状態が、エゴと、エゴにまといつくパラノイア(妄想)で混雑すると、本能的な資質が強調された状態になる。したがって目覚めた心の状態とは築き上げられるものではなく、むしろそれを妨げている混乱を焼き尽くすことに関わってくる。私たちは心の混乱を焼き尽くしてゆく過程で、悟りを見いだす。‥‥中略‥‥

もし悟りというものが創られたものであるなら、エゴがふたたびその存在をあらわにし、心を混乱した状態に引き戻す可能性がつねにある。悟りは永久的なものだ。なぜなら、それは作られたものではなくて、発見されたものだからだ。」

以上チョギャムトゥルンパ著:「タントラへの道」から抜粋

私たちの心の混乱の原因は「わたし」という固定化し継続した自分がいるのだと思うところにある。と著者は云う。

「わたし」が継続するところのエゴとは?

それは過去の記憶だったり、未来への希望だったり、

あるいはこの考え、思考する「わたし」だったりする。

エゴとは時間の産物であり、常に今ここに存在する、「永遠の今」ではない。

「永遠の今」の住人こそが本当の自分であるのかもしれない。

それは私たちが個別にある「自分」という概念からはかけ離れているかもしれない。

私たちは過去の経験や知識を決して無くしたくないと思う、そう思うことが自分を保つことであり、一貫した自分でいられることで安心するのである。しかし、それは単に時間の中で束の間に存在するだけの現象なのかもしれないのである。

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2010年11月 6日 (土)

精神の物質主義(2)

精神的な道への渇望は、世間の苦しみと混乱から出発して、その源を探りたい、そしてそこから抜け出したいと思うことからはじまる。しかし、自分のエゴは、てっとり早く一時的な避難所を作り出して、そこに自分の家を築きたいと思ってしまうのだ。なぜなら、精神修養の道のりは長く遠い道のりに感じられてしまうからだ。それというのも自分のエゴがこの混乱した世界に完全に飲み込まれ、それが存在しうる唯一の世界だと思い込んでしまうところにある。

エゴは混乱すればするほど、そこを隠れ蓑にして継続的な自分を維持しようと努めるからだ。エゴはこのように複雑で混乱した世界の住人でいることを常にのぞんでいる。

しかし、世界の真にリアルな実相は、シンプルなものであると思う。それは雲のない晴れ渡った空であり、果てしなく広がる「空」そのものではないだろうか?それは永遠であり、無時間的な性質のものなのだという気がしている。というのも、私たちが時間を意識するのは何もない空に雲が発生し、前面にさえぎり出したときからだということ。

雲が流れ始めたその瞬間は雲が発生すると同時であり、そこから時間が動き出したのではないだろうか? もちろん、これはひとつの喩えに過ぎないのだが。

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2010年10月30日 (土)

精神の物質主義(1)

精神の物質主義とは、チベット仏教のチョギャム・トゥルンパが、その著「タントラへの道」(めるくまーる社刊)で説いた有名なことわざである。

精神的な道を歩むことは、山の尾根をつたうように慎重なバランスを必要とする。それは半歩でも踏み外せば、ゆがんだエゴの巣に迷い込んでしまうようなものである。

自分は精神的に成長していると思い込んでいても、実は伝統的な宗教の教えや精神性をエゴの満足、あるいは知識を寄せ集めて、自分の精神性の高さを誇示しようとする。これが精神の物質主義である。エゴは、自分の精神性の権威を得るために知識というがらくたで身をまとい、人々に教えを提示しようとする。

本当に精神の修養に必要なのは、今のありのままの自分を示すことであり、そこからしか始めることはできないはずである。しかし、エゴは自身の利益やプライドの保持のために、人々の上に立ち続けたいのだ。あなたがたは私よりは知らないはずだから、教えてあげようと。このように、私たちは、スピリチュアルな生き方をしようとすれば、自分のエゴの存在証明のために他人を巻き込みたがるのである。

さて、かくいう私も、こうしてブログを立ち上げているということは、そこに微妙なエゴが介在していることは否めない。この微妙な私自身のエゴと戦い続けながら、それでもやはり、和尚ラジニーシのことを紹介したくなってしまうのです。

あらゆる知識を寄せ集めても、浅くひろく読みあさってみても、教えの意味するところは決してつかむことができません。教えが生きた教えとして自分で体験されなければ、それはただのがらくたに過ぎません。それは自分の体験によって噛み砕き、消化されるべきものである。

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2010年10月23日 (土)

エゴの落とし穴(5)

私たち凡人は、他人より何らかの知識を、それぞれの専門分野で得ています。しかし、それが同じ人間として、他の誰かより比較して秀でているということは、社会的には意味がありますが、真理を得るということに関しては全く意味をなさないということです。

みなさんは、それぞれに得意分野があり、その分野で社会的に貢献したいと望んでいます。社会で成功すること、すなわち有名になる、権力になるといった、人間として抱き持つ社会的な欲求は、それが相手に認められることで自分をさらに高めていくという点で大切です。しかし、真理に向かうものとしては相応しくないということです。

そういうことで、私は、ともに真理を得ることへの情熱を燃やす人には賞賛を惜しみません。が、スピリチュアルなことで、社会的に何か名声や利権を得ようとしている人に対しては懐疑的です。

スピリチュアルな道とは、生活のための道でもなければ、賛同する同士を増やすためのものでもありません。結果としてその道で有名になったとしても、そこでエゴを手放せることの出来る人こそ本当の修行者なのかもしれませんが‥。

私は自身のブログを通して、同じく自分自身と向き合い、自分の内なる真理への道へ向かわれる人が増えてくれることを願っています。和尚の言葉によって本当の自分をそれぞれが一人で見いだしていけますように。

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2010年10月16日 (土)

エゴの落とし穴(4)

「エゴ以外に罪はない。‥ エゴはいつも自分を人々に印象づけることに興味を持つ。自分を人々に印象づければそれだけ、エゴは栄養を得る。‥エゴは他人の意見に左右される。」

これは耳の痛い話です。

私自身和尚の講和録に感銘し、ブログを立ち上げているわけですが、この他の人よりスピリチュアルの知識について知っているという優越感は少なからず持っています。それも自分のエゴの滋養になっているという。

自分を誰かに認めてもらいたいという欲求はねそれ自体悪いことではない。それは社会的に自分の居場所、存在価値を見いだす試みでもあるからです。自分というものの価値を社会から得たいわけです。しかし、和尚はそれをも否定する。

「人がその本来の姿になれるのは、‥ 思考が落とされ、意識が存在と直接向き合うと即座に、存在と触れ合う瞬間ごとに、人はその本来の姿になる。そのとき、人は初めてほんとうの自分自身になる。」

意識が存在と触れ合う瞬間とは、おそらく自分のエゴを介さない状態だと思います。そして、エゴがないとき、存在、つまり自然、道、全体とひとつになり、そのひとつである意識の状態が永遠の真理であり、絶対性であるという解釈をしています。

そこに自分自身はいない。自分という感覚、意識状態は、本来は存在しない。それは禅に通じるものです。全体とひとつになった自分の意識? はどうなるのか、と考え始めたら、また迷路にはまってしまいます。

道、自然とひとつ、一個人である私が、エゴを落として自らの内にある自然の命の流れに身を委ねた時、そこに目指すものがあるような気がします。そして、それは光明を得た人でなければ、何も語ることができない境地なのだと思います。

以上太字:和尚

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2010年10月 9日 (土)

エゴの落とし穴(3)

真理は学ぶものであり、教えられるものではない。‥ 学ぶとは、自分の回りのものすべてに対して敏感であることだ。そのものに対して敏感であることだ。‥

自分の思考がすべてなくならない限り、真理を得る道はない。真理を与えてくれる者は誰もいない。自分が真理になる以外に真理を得ることはできない。‥真理を得ることは、真理となることだ。自分が真理となるのだ。」私たち人間は真理を得ていない者として、皆平等です。平等ということは、私たちはお互いにお互いの行為から学びあえる人間であるということです。それは知識や技術のように師から弟子へ、先生から生徒へと教えられるものではないのだということです。何かテレビや書物から得た知識で自分自身がわかったつもりになる、そして得た知識を誰彼に教えたくなる、その危険性について和尚は説いています

スピリチュアルな道での障害について和尚はまた、次のようにも述べています。

「うぬぼれをもたらすものは何であれ、障害になる。無自我の感覚をもたらすものは何であれ、道になる。」

和尚はここで、罪人が自分の自我をゆさぶるという意味で、それは道に近く、道徳家や学者、専門家などの知識人が、微妙な優越感というエコ゛を強化させているという点で、道から遠ざかっているという。

以上太字:和尚

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2010年10月 2日 (土)

エゴの落とし穴(2)

自分と真理との間に立ちふさがる大きな障壁とは、他人を通して、自分がすでに真理を得ていると思い込むことだ。それは悪循環だ。第一に他人を納得させる。そして他人を納得させることができるのは、対象が目に見えないものだからだ。第二に、相手もそれを持っていないために、それが何であるかを知らない。」和尚語録

スピリチュアルなことは、目に見えないものだ。私は修行してきて、今の霊能力を得ました、と言って色々カウンセリングする人たちが居る。ヒーリング能力を身につけた人が、同じように他人にも力を与えたり、癒しの施しをしたりする。それらのすべては本当であるかどうかは疑わしい。それらは目に見えないものだからだ。それを彼や彼女が持っているのだとどうして確認できるのだろうか? 一時的に人々を癒しはしても、その人自身の存在を揺さぶることがなければ、またいつかは元に戻ってしまう。別の悩み事が出現してしまう。乗り越えるべき課題は、基本的に本人の意識が変わらなければ、またそのうちに繰り返されるものだと考えています。

それが知識であればなおさらのこと。自分を変えるほどの力を真理にはある。それは自分自身で気づくしかないものだと思っています。

そもそも知識は借り物に過ぎず、真理へ至るための階段にはなり得ない。少なくとも自分が教えられてきた知識は、自分を変えたりする力など無かった。

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2010年9月25日 (土)

エゴの落とし穴(1)

エゴの落とし穴(1)

自己が捨て去られるとき、そこに不足しているものは何もない。そのとき、人は満ち溢れる」

覚者と私たちとの唯一の違いは、私たちはひとりでいることができないということだ。

ひとりでいることができたとき、社会の何物に対しても興味や関心を示すこともなければ、欲求の対象をもつこともない。あらゆる不安や恐怖の原因も作り出すことがない。

 自己が捨てられる時、それは本当の自分、身体が生まれ変わったりしても、ずっと続いてゆく自分という意識をも超えて、誰でもない人、「無」に帰らなければならない。

「無」とは何か?

それは大海だったり、雲ひとつない青空だったりする。ではその青空とは、私たちの意識の源ということなのだろうか? それらはたとえに過ぎない。

覚者はこの「無」、誰でもないひと、大海、青空にたどりついた。それは永遠なるものに溶け込むということであり、それは一体どういうことなのか。

「そのとき、人は満ち溢れる」

そのときわたしはどうなるのか、想像すること、予想することは単に私自身のエゴを満足させるだけでしかない。私たちは、その境地を体験することでしか、言葉を使えない。

だから私たちは、覚者の言うことを絶えず自分の知識として身に付けてしまう過ちに対して、戒めなければならない。

私は覚者ではないのだから、何も知らない。しかし、「無」という言葉に私は以前から無性にひかれていたのだ。何よりも偽善じゃなく、自分に正直でいることが人間として大切だといつも思っている私は、この無について調べてみたくなりました。

太字引用:「そして花々が降りそそぐ(和尚)市民出版社刊」

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