瞑想

2008年12月23日 (火)

試練(3)

 自分が苦しい時、その原因には自分でこしらえた苦しみと、他人から押し付けられた苦しみがある。その多くは、これらの原因が積み重なった複合型だ。けれども、最初にすべきことは、自分からもう苦しみを作らないと決めることだ。本気でそれを決心するなら、物事は整理がついてくる。

 自然なものは何でも、静かに見守りなさい。そして、誰かに押し付けられた苦痛すべてに反逆しなさい。

 和尚は、苦しみには他人から押し付けられた痛みと、自然な痛みがあるという。

 「あなたの痛みのほとんどは、自分で選んだものだ‥」これは真実だ。あなたのあらゆる惨めさ、あなたのあらゆる痛み、  そのほとんどは他人から押し付けられたものではない。他人から押し付けられたものに対しては反逆しなさい。しかし、自分自身で選んだものは落としなさい。それを見守る必要はない。ただ、「自分で自分に押し付けている」という理解だけで十分だ。捨てなさい。見守るのは他人に任せればいい。あなたは捨てるのだ! それを捨てるあなたを見て、彼らもまた、理解するだろう。「なぜ不必要に苦しむことがある? 隣の人たちは彼らの深い悲しみを捨て去っている」と。

 なぜ、自分で自分に苦しみを科すのだろう?

過去の色々な行為や想いから、自分自身を責めてしまった。その結果、後悔と罪悪感にさいなまれたおのれの姿がそこにあるのではないか。ひとは誰しも少なからず過去の過ちに対して、意識しまいと罪悪感を持っている。それが自分を苦しめるような環境を生んでしまうことがある。 

誰かに苦しめられている時、そこには苦しめて欲しい、自分が苦しむのは仕方がないというもう一人の自分が隠れてはいないだろうか?

あなたの嫉妬心、あなたの怒り、あなたの貪欲ー これらはすべて痛みをもたらす。あなたのさまざまな野望、これらはすべて痛みをもたらす。そして、これは自分で選んだものだ。

 自分の所有欲、貪欲から生まれる痛みは微妙だ。それは自分の小さな心から生まれたものであるから、その願いが叶わないとなると自我はイライラしたり、怒り出す。それはあなたが自分の本心を、こうしたいということを相手にずっと伝えてこなかったストレスが溜まったものかもしれない。

また、自我が未熟でわがままな赤ん坊のように、周りを自分の思うように支配できると思いこんでいる我欲の人格支配によってもそれは起こる。

 あなたは既に怒っている。他人に怒りを表す前に、そのことで自分自身をすでに不快にさせてしまっている。その苦痛がある‥。それ自体がひとつの罰の表れでもある。

 自分の怒りにもっと冷静になろう。そして、それがどこから湧いて来るのか。他人が原因なのか、それとも、自分の欲が絡んでいるのか。

 自然な痛みは観ていなさい。静かに観ていなさい。なぜなら、それはあなたの内なる医者が、自然が、病気を癒すための苦い薬だからだ。

‥しかし、何が自然で、何が人工的なのか、はっきりとわかるようにしておきなさい。それに対して反抗できない自然なものであれば、現に在るものであれば、ーそうだとしたら、惨めにならないようにするがいい。そのときには、感謝をもってそれを受け容れなさい。それは、あなたを癒したいと望んでいる。あなたをもっと高い意識の段階に連れて行きたいと望んでいる。見えざる神の手だ。しかし、自然でないものであればーー どんな隷属状態に身を寄せようとも、それはあなた自身の魂を破壊することだ。奴隷として生きるくらいなら、死んだ方がましだ。

  以上太字「ニュー・ウーマン誕生:オショーエンタープライズジャパン㈱発売」より引用

 繰り返そう、苦しみの八割方は、自分で作りだしたものだ。あとの少しに対して、不当な不自然な、運悪く降りかかったものに対してはたとえ身が滅ぼうとも戦い抜く覚悟が必要だ。どちらにしても、自分が真生に生きるということに対して真摯になれということを、これらから読み取れるのです。

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2008年12月 7日 (日)

本質と実存(2)

  イエスはニコモデにいう、「もう一度生まれてこないかぎり、あなたはわたしの神の王国に入ることはできない」。かれはなにをいっているのか? ニコモデはまず肉体として死なねばならないのか?

イエスはそれとは全面的に異なることをいっている。かれは自我として死ななければならない。かれは個人として死ななければならない。かれは過去として死ななければならない。かれは心として死ななければならない。

あなたは心として死んではじめて、存在として生まれる。

肉体として死ぬことは自明の理ですが、自我として死ぬとはどういうことか?

私たちは個人として生まれてきていますが、それは無意識の過去やまだ来ぬ未来への想いを引き連れた自我としてこの時間の世界に「個人」として生きています。それらをひっくるめて「心」といい、ある人はこれを「小さな心」「小我」とも言っています。そうしたこの「小さい我」、「われ」というものはこの世界で自分の望みや欲求を満たすために仮に存在しているのです。

だからイエスのいう「神の王国」も我執のない「こころ」「大我」「無我」といった状態でいるときしか入れないということです。それはわたしが、個人がということは関係ない。存在のあるべき状態として、「わたし」、という欲求の塊が抜け落ちた状態です。

東洋では、わたしたち覚者を二度生まれ、ドゥジャと呼んできた。ほかの人びとは一度生まれだが、覚者は二度生まれだ。生命という最初の贈り物は両親を通じて与えられるが、二度目の贈り物は、みずからの手で自分自身に与えなければならない

 さて、人は実在としてではなく、ひとつの機会、可能性として生まれると、紹介しました。その可能性、自分の本質を実現するためには自覚をもってみずからの生を選び取る必要があるとも述べました

 見逃している何百万もの人びと、かれらは選ばなかったがゆえに見逃している。かれらはただ待ち望んでいる。なにかが起こってくれるだろうと期待している。だが、そうやってものごとが起こったためしはない。なにか価値のあることがあなたに起こるためには、なにか本質的なことが起こってほしいと望むなら、あなたはその下地となる情況、空間をつくりださねばならない。

   以上、太字「ダンマパダ:永遠の真理」OSHO(めるくまーる社刊)

 私は「自分でちゃんと人生の選択をして生きている」と言い切れますか?

そう言いきれる人はそうはいない。もし、自己の責任において、人生の節目でちゃんと生き方を選択していると思っているなら、なぜ、生活状況の好転を政治家に頼ろうとするのですか? なぜ、困難な問題を、自分で解決できるかどうか考える前に誰からの助言に頼ろうとするのですか? 自分なりに悩んで下さい。そうして初めて解決の糸口の手助けも生きてくるというものです。

それと同じように、自分自身の価値というものは、人から評価されて確認され与えられるものではありません。仕事の成果、家事労働の評価といったことは、生活の必要からくる労働に対して行われるもののであって、その人自身の評価や価値ではありません。

では、その人自身の価値とは何か?

それはあなたが、あなたでいられるもの、あなた自身が創造し、他の誰かにとって変えられるものではないもの、他人の評価ではなく、あなた自身の内面の価値基準によるものです。

そうしたものを生きているうちに見つけることが重要なのです。でなければ、あなたはいつまでたっても自分自身を見失ったままの子羊で、この世界で単なる生きるために生きている生活者で終わってしまう。

生きるということは、まさに自分自身を創造することです。それは誰かのまねをすること、誰かに頼ることでは決して生まれません。私たちは、この世界でもう一度生まれ変わらなければならない存在なのです。遅かれ早かれ‥‥

 

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2008年11月21日 (金)

尊敬と畏敬(2)

「シャワリングウイズアウトクラウズ:和尚」(市民出版社)より続く

 だから、畏敬と尊敬は大きく異なる。このことを理解しなさいー 尊敬とは嫉妬の入り混じった畏敬であり、畏敬は嫉妬が含まれない尊敬だ。では、畏敬とは何だろう? あなたは、その人の中に自分の本性のこだまを観ると、その人に畏敬の念を抱く。また、その人の名から自分の野心の成就を見ると、その人を尊敬する。‥

‥そして、その人の中に自分の本性ー 野心ではなく、あなたの本性が映し出されるのを観ると、あなたはその人に畏敬の念を抱く。その人はあなたの鏡になってくれる人、本来のあなたを見せてくれる人、あなたの本性を教えてくれる人だ。

 野心はいつか達成できるものだ。あなたは、あなたの将来がいま起こっている人を尊敬する。それはまだあなたに起こっていないから、そこには痛みもある。彼にはそれが起こっている。だから、嫉妬と尊敬は共存するのだ。

 本性とは何だろう? たびたびあなたの本性というが、それは自分の本質的な部分、実存的な存在の核を意味する。尊敬が、その人をして未来の自分の姿を夢見ることが可能なのに対して、畏敬は取り換え不可能な資質に対して言っている。

 畏敬とは、あなたから奪い取ったものではないものを、私が持っているということだ。‥畏敬の念は、学ぶことはできても剥奪できないものを持っているひとに対して湧き起こるものだ。

と、和尚が言うとき、何をその人から学べるのだろう。

畏敬する人が本来のあなたを見せてくれる人、あなたの本性を教えてくれる人であるというのは、その人が自分の持っている種から花を咲かせたように、その花の芳香があなたに、あなた自身の持っている種の花を咲かせるようにと促しているかのように私には思われた。

 人は、自分の手足で、自分の力で生きているように思っていると、錯覚することもあるけれど、私たちは生かされている存在なのだ。誰に? 本来の内なる自分に、本来の存在の神に‥

狭い自分の殻に閉じこもってしまったら、生き方を間違えてさまよい始めたら、それまでの他人の意見や自分の凝り固まった考え方を一度手放してみよう。

「‥まず本性を正しく知るがいい。そしてその理解を通して、神が望むことを起こらしめるのだ。神は、君が本性から行動することを望んでいる。そして、ただの乗り物になるがいい(和尚)」

 

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2008年11月18日 (火)

尊敬と畏敬(1)

 以下は、女性の覚者、サハジョについて講話の際に、サニヤシンから受けた質問の答えから抜粋したものです。

 質問者:「‥私は あなたを途方もなく尊敬しているのに、嫉妬がそれに毒を注いでいます。私は自己嫌悪と苦悩を体験しています。畏敬の念は、この毒のある尊敬を超越するのでしょうか?」

人を尊敬するときは常に、自分にないものをその人に見るが故に尊敬する。

自分もそうなりたいものを、その人の中に見るから尊敬するのだ。

乞食は皇帝を尊敬する。それは自分が皇帝になりたいからだ。だから一方で尊敬しつつ、もう一方で自分がまだ皇帝ではないから嫉妬を覚える。彼は皇帝になりたい。皇帝は、乞食が成し遂げたいと思うものを達成している。つまり乞食は、皇帝が成功したから皇帝を尊敬するのだ。「俺は列のずっと後ろに立っている。あなたは俺が行きたい場所に辿り着いている。権力を持ち、知的で、賢明で、力強い。だから俺は、あなたを尊敬するんだ」。だが、内側では嫉妬の炎も燃えている。「もしチャンスを手にしたら、俺はあんたの場所に居たい。あんたを追い払いたい」。そしてこの乞食がチャンスを手にしたら、彼は皇帝を排斥し、追い出し、王座に座るだろう。

 だから、尊敬の中には嫉妬が隠れている。まったく考えたこともなかっただろう。あなたは、尊敬は偉大な質だと思っている。尊敬は嫉妬のひとつの側面だ。あなたは尊敬の背後に、隠された嫉妬を抱いている。‥(続)

              「シャワリングウィズアウトクラウズ:OSHO」(市民出版社刊)

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2008年7月31日 (木)

光と影(2)

前回の続きから…「一休道歌:めるくまーる社」

"心"小さな"心"は時間の一部だ。そして、"こころ",宇宙的な"こころ"は永遠だ

"心"は"こころ"の一部でもある。永遠が時間を貫く。

まさに月が湖に映るように、ほんとうはそこにないが映っている。

 私たちの小さな"心"は大いなる"こころ"の影にすぎない。月が昇る、満月だ。と、そのとき、地上にある無数の湖がそれを映し出す。そして、さまざまな海や川や池が‥‥。少しでも水があれば、どこでも月は映る。が、月はひとつで、影は無数にある‥‥。私たちの小さな"心"も同じだ。"こころ"はひとつだー。

それを覚者の"こころ"と呼んでもいい。全体なるものの"こころ"、宇宙的な"こころ"、神と名付けられた"こころ"と呼んでもいい。これらは名前が違うだけで、同じリアリティを指している。

 このちいさな"心"には、始まりと終わりがある。その大いなる"こころ"には始まりも終わりもない。

さて、言葉を聞きなさい。

 はじめなくをはりもなきにわがこころ

 うまれ死するも空の空なり

実に矛盾に満ちた声明だ。一方で一休はこう言う。「はじめなくをはりもなきにわがこころ‥‥」彼は"こころ"のことを言っている。

それから彼はこう言う。「うまれ死するも‥‥」彼は今度は"心"小さな"心"のことを言っている。小さな"心"は生まれ、そして、死ぬ。大いなる"こころ"は存続する。小さな"心"は影にすぎない。影は生まれ、そして死ぬ。

 あなたは影として生まれ、そして死ぬ。影に執着しすぎたら、あなたは苦しむ‥‥。それが苦悩の何たるかだ。それが地獄の何たるかだ。愛着を持ちすぎなければ、影に執着していなければ‥‥。

肉体は影だ。この心は影だ。この<生>は影だ。もしそれを静かに見守れば、これらの影がすべて過ぎてゆくのをみることができる。そうなったらあなたは、こうした影がそのなかのを過ぎてゆく鏡に気づくようになる。

その鏡は永遠だ。その鏡に達することこそ、真実が何であるかを知ることだ。

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2008年7月27日 (日)

光と影(1)

前回、影としての自分について述べましたが、では本体である光としての本当の自分との関係はどんなものなのか? それについてわかりやすい比喩で示した箇所があります。比喩はあくまで比喩なので、そこからイメージしたものに縛られてはいけません。哲学的理解を得るために和尚は語っているのではないからです。真実は言葉では表せない、その表せないものをかすかに感じ取るために比喩があるのです。

引用図書:「一休道歌」:めるくまーる社

はじめなくをはりもなきにわがこころ

うまれ死するも空の空なり

 心は、二通りに理解しなくてはならない。ひとつは"こころMind"だ。それは普遍的な"こころ"、宇宙的な"こころ"ー 全体そのもの、存在に満ちわたる意識だ。それは意識する存在だ。それは生きている。核そのものに至るまで生きている。あらゆるものが生きている。あなたはそれを知っているかもしれないし、知らないかもしれない。それは触知できないかもしれないし、目に見えないかもしれない。だが、あらゆるものが生きている。生のみが存在する。

 死は神話だ。死は幻想だ。無意識もそうだ。岩さえも無意識ではない。岩はそれなりに意識している。それは、私たちには手にいれることができないかもしれない。それを知ることはできないかもしれない。というのも、意識的である状態は無数にあるからだ。人間のありようだけが唯一の状態ではない。樹はそれなりに意識している。鳥もそれなりに、そして動物や岩も。

 意識はありうるかぎりの形で表現されうる。この宇宙には、あらゆる表現が無限にある。

 "こころ"は宇宙的な"こころ"だ。それこそ達成するべきもの。仏陀が<無>と呼ぶものはそれだ。彼が鏡のような<空>と呼ぶものはそれだ。

 そしてもうひとつの心がある。私たちが話し続けている"心"小さな"心mind"だ。

そうなると私の"心"は違う。あなたの"心"は違う。人間の"心"は樹の"心"と違はう。樹の"心"は岩の"心"とは違う。そこには違いがある。そして、どの"心"にも限界がある。それはとてもちっぽけだ。

 人は小さなものから限りないものへ消え去らねばならない。"心"は"こころ"のなかに溶けてゆかねばならない。

ここで、"こころ"と"心"の違いに目を向けてみよう‥ 続く‥

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2008年5月24日 (土)

永遠の一瞥②

時間とともにあるこの世界は、自我(エゴ)なくしては生きてはいけない。エゴとは欲求のことだと言った。未来に対して何かを実現するという目的があって、その目的のためにエゴがある。しかし、このエゴのために、永遠の瞬間を見逃してしまっている。

はじめてみる景色、山や見知らぬ土地で見る夕日や朝やけに感動したりするのは何故だろう? それは初めての体験だから感動するのだろう。そのとき、わたしの中にエゴはいない。

「光と闇の瞑想:市民出版社」から引用です。

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あなたが静寂であるとき、エゴはない。なぜなら、静寂であるとき、マインドは機能していないからだ。それこそが沈黙の意味だ。

初めて見る光景の前では、私のこころ=マインドは機能を停止する。そのとき感動の瞬間を垣間見る。

しかし、静かになるということは、たまにしか起こらないし、しかも、ほんのしばらくの間だけだ。だからこそあなたは、沈黙の起きる状況を素晴らしいものと感じるのだ。そしてそんな状況を求めるようになる。そこで山へ行き、朝、太陽が昇るのを見つめる。すると突然、歓喜が湧き起こる。あなたは至福を感じ、美が自分の上に下るのを感じる。それはいったいどういうことか。静かな朝、静かな日の出、そして木々の緑、山‥‥そうしたものによって内側のおしゃべりが停止するのだ。その現象が偉大であるからーまわり全体がかくも美しく、平安で静寂であるからしばらくの間、あなたは停止する。その停止のなかで、あなたは無エゴ状態を認識する。むろん少しの間だけだ。

これはいろいろな状況で起こる。セックスの中でも起こるし、音楽の中でも起こる。自分を圧倒するような偉大なもののなかでは、いつものおしゃべりも、しばらくの間押しやられる。

エゴがないときには微妙な至福が感じられるというのだ。

その至福は外側に由来するものではない。山や、日の出や、美しい花や、セックスに由来するものではない。それは外側に由来するものではない。外側はたんに機会をもたらすだけだ。-それは内側に由来するものだ。だから外的な状況を何度も何度も繰り返したら、それは現れなくなる。免疫になってしまう。‥‥慣れっこになってしまう。

自分を至福へと導く感動の体験は外側に由来するものではない。このことはそれによって自分の何かが活性化されたということだろう。誰かに、何かに自分の至福をつい依存してしまうけれど、その至福は自分の内側に元々存在するものなのだろうか?  だとしたら、このエゴが取り除かれる瞬間に人間存在の意識の秘密があるようです。エゴの無いひとときが、永遠に続く瞬間であるならば、そこに生きる魂の本質があるのだと、いつしか私は確信していました。

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2008年5月18日 (日)

永遠の一瞥①

その一瞬に時間が止まったような感覚、そんな体験をしたことはありませんか?

心(マインド)は自我の欲求です。欲求があるというところに時間があります。大雑把に言えば欲望=時間ということです。私たちは作り出された時間のなかで、自分たちの様々な夢を描き、実現しているのに過ぎません。その経験が自我を本当の自己=永遠の存在へといざなっているのです。一度でも、時間のない体験をしたならば、それをもう一度と願うでしょう。残念ながら、そう願えば願うほどその体験は遠ざかってしまいます。

永遠の一瞥を得る瞬間について、幾つか紹介していきます。

「瞑想ー祝祭の芸術」めるくまーる

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4839700095/nifty0b5-nif1-22/ref=nosim

深い愛のなかでは、どのようにか欲望が消える。まさにその瞬間だけで充分になる。そこには未来への欲望は一切ない。私が誰かを愛したとすれば、まさにその愛の瞬間には心はなくなる。その瞬間は永遠だ。私にとって、この瞬間には未来はない。私は未来にはまったくかかわっていない。そして過去もない。私はそれによって乱されることはない。思考過程はその実存の瞬間にすっかり止まってしまった。突然、その無欲の瞬間に扉が開く‥。

ゆえに、愛はしばしば神なるものを一瞥する。たとえわずかな間でも、ほんとうに恋したことがあれば、あなたはこの部屋のなかに長くはいられない。あなたは、すでに<彼方>なるものの味を味わったのだ。

誰かを本当に愛することは私たち人間にとってほんの一瞬、ひとときに過ぎません。けれどそのひとときの、現在という瞬間で満たされている至福のひとときを垣間見た者は、その後の人生におおきな影響を与えてしまいます。そして、私は、ふいにやってくるそのひとときを期待せずに待ってしまうという矛盾のなかで生活しているのです。

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2008年3月20日 (木)

二羽の鳥

ウパニシャッドの経文のなかにある一節

「二羽の翼も美しわしき、契りを結べる伴侶ありて、ともに同一の樹を抱く。その中の一羽は甘き果実をくらい、他の一羽は、唯だ傍観するのみ」(ウパニシャッドからヨーガへ:平河出版社)

人間は、宇宙の樹に泊る二羽の鳥のようなもの。一羽は宇宙の時間と空間の流れに乗ってその宇宙自らの展開する生命体のなかに、誕生し、そして死にゆく存在である。

もう一羽は、その一部始終を見守っている。

そして、私は自分が誰なのか問うとき、この両親から授けられた身体と、周りの環境によって教育されてきた心とをもって私と答える。

しかし、身体も心も与えられたものであって、明日も決して同じではあり得ない。

ならば、これが私と言えるものはなんだろう?

そこでわたしは自分の幼い頃に嗅いだ匂いが、大人になってからまた何かのきっかけで

嗅いだとき、その時のがよみがえってきた。

とは、時を越えて変わらないもののなかにこそ、見出されるべきだと、思った。

永遠に変わらないわたしを求めて、その時から自分の旅が始まった。

束の間のしあわせなど取るに足らない。この世界は、誰かがしあわせになったら、

他の誰かがふしあわせになってしまうという悲しい世界である。

だからわたしは、私自身の意識の源であるもう一人の自分を想起した。

瞑想とは、自分自身を想起すること。その旅は長い道のりだ。

けれどそこに、同じ自分の道を歩んでいる者がいれば、それはとても心強いこと。

みな、自分自身の道を歩いていけたら、世の中、不幸ということはなくなるのに

でも、それはたんなる理想のひとつにすぎない。ならば、あなたに問う。

この生きてる世界であなたはなぜ生まれてきたのか?

そして、これからどこへ向かおうとしているのか?

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2008年2月28日 (木)

すべては変化に他ならない

およそ、世の中のすべての出来事は、変化に他ならない。この変化する出来事の背後に変化しないものがある。それが本当のあなた自身だ。

至福にして永遠なるもの、真実にして常なるもの、不死なるもの、生そのものの中へと

「覚醒の深みへ:市民出版社」

私たちは時間という川の流れの中でともに出会って、別れる生き物である。そしてこの時間の中にいる限り、本当の自分、すなわち時間を超えて存在する変わらぬ自分の存在を自覚することはない。

瞑想の技法のすべては、この永遠の自分をいかに知るかということに関わっています。

自分の体、自分のこころ、考える自分、そういった自分は対象化することができます。

そして、対象化できない主観となる意識、すなわち知る者を意識するというのが瞑想の目的でもあります。

そういった数々の技法について、この瞑想カテゴリーで紹介していけたらと思います。

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