随想録

2015年8月 6日 (木)

平和は続かないのだろうか

日本はアメリカの傘下にあるからアメリカが喧嘩してたら、助けなければならない、
というより自分の国は自分で守らねば、誰も他人の家のことなどかまってくれない。
国民の三分の一以上が自民党の集団自衛権法案に賛成している。
半数以上は、憲法の改正の手続きを国民にとってから、法案を適法化させるべきだと言っている。

そもそも、原爆を唯一落とされた国である日本なのに、なぜ平和憲法を自衛権行使のために改変しようとするのだ。

アメリカ人の一部か多くは、未だに戦争を終わらせるために、「原爆投下は妥当だった」などと恐ろしい考えを持っている。広島、長崎で被害をこうむり、 生き残った人たちの悲痛な叫びを、彼らには推し量るだけのやさしさすらない。何の罪もない国民が、台無しにされた人生や地獄の苦しみを彼らも味わってみたらいいと、言ってしまいたくなる。
問題の本質は、泥棒から守るために、武器を確保するということだ。武器を確保することで、既にその国家の平和は崩され、戦争へと傾いてしまうのだ。それは、人間が持つ恐怖と不安感が原因である。4

そもそも他人が信じられないのは、不安に基づいている。自分自身が信じられない人類は、弱肉強食の動物の世界を人間にもあてはめてしまった。むしろ、人間はまた動物的存在であるということだ。
強い者はさらに強い者によって攻撃され、自身の自由と生を奪い取られる。しかし、その頂点に立った者は、結局は一人では、一国では生きていけないことを思い知るのである。
地球で暮らす人類はみな、自分たちで気づこうが気づくまいが、共存して、お互いに支えあって豊かな生活を成り立たせている。そのことを忘れてしまった人類の多くは、「敵にやられる前に、攻撃の準備をしなければならない」という。
侵略されたときのことを考えてしまうのだが、それこそ、人間が人間を信頼していないことの証である。それはつまり、自分自身を信頼していないことであり、絶えず誰かから襲われるのではないか、命を脅かされるという恐怖が潜在的にある。

このことは、私たちが長い間、物質世界で生きることになじみ過ぎた弊害でもある。
しかし、一方で私たちはいまだ、動物と対して違わない性欲を持ち、子孫を残し、苦悩や悲しみの絶えない世界の存続に加担している。
それは私たちが、魂という意識存在に到達していないからに他ならない。

「目には目を」そうした考え方で、過去に何度も戦争を起こし、科学文明がもたらした破壊兵器で生き残った者はいない。
頂点に立った者は、決して生き残ることはできない。それは、私たちの豊かな社会が、お互いの協力によって成り立っていることを少し考えるだけでもわかることだ。

人は襲われる恐怖によって武器を持ち出し、武器を持つことによって、攻撃的な相手を引き寄せ、結果として戦い、そして残ったものは決して、それまでにあった豊かな生活が決して取り戻せなくなってしまったことに嘆き悲しむのである。

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2015年7月20日 (月)

日本の未来

日本という国は住みやすい国だ。そのことは、島国であること、単一民族国家であること、

宗教上では、多神教を支持し、他国の支持する宗教に対して寛容であることなどが挙げられる。

自分の国が住みやすいというのは、単に戦争がないだけでなく、それに巻き込まれたりしない、貧富の差があまりないことなども含まれている。

しかし、今国会で衆議院が自民の安全保障法案の採決を可決したことによって、今後の日本は幾多の争いに巻き込まれていき、平和国家でなくなるのではないかという危惧が生じた。

隣の隣人が喧嘩で負けそうになったから、助けに行くのは当たり前だからとか、自分の家を守ってもらうためには必要なことだといった屁理屈が正当化されてしまうのだ。

そもそも、自公の法案は、憲法違反であり、それを無視して安全保障法案を採決することは、国民の総意である憲法を踏みにじっているも同じである。法治国家としての体がなくなり、独裁者による専制政治の始まりとも受け取られる。

アベノミクスは、この先さらに貧富の差を拡大させる政策を取り、言論の自由に対する弾圧を行う可能性は否定できない。

自民党の総国民の支持率が30%台であろうとも、いったんは半数以上の人が支持し、いまの強行採決を許す結果になった自民の議席確保を導いたのはわれわれ国民であることを、今一度理解する必要がある。

平和ボケしたわれわれ国民の意識状況に対して、過去の自分たちがいかにしあわせであった、などと嘆くような未来をつくってはいけない。

しかし、スピリチュアルな視点では、平和ボケして調子に乗っている国民に対して、ショックを与える事件も必要だ、ということになってしまう。

政治に無関心か、関心があっても、どうせ無駄だからといって、ほかに投票する政党がないからといって、何もせずにいることも、結果として自民や公明に対して賛同するひとつの意思になることを忘れてはいけない。

 

自分たちの未来は自分たちで創るのである。そこには例外はない。

 

無関心、無選択ということも、ひとつの選択肢であり、この先の自分の未来に多大な影響を与えることを平和ボケした私たちは、いまひとつ理解していないのではないか、日本の未来は、まだ決まったわけではない。

こうして今、ブログで自由に自分の言葉を表現することのできる喜びを、将来にわたって得られることを願ってやまないのである。

自分の意思をはっきりと、伝えましょう!

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2015年3月 6日 (金)

なぜ欲望から解放される必要が?

この世に生かされている理由のひとつには

神様から授かった能力を、個人として表現し、その喜びを分かち合うことだという。

もうひとつは、自我の欲望から解放され個人として死に、宇宙とともにあること。

それは自分がやってきた源への回帰である。

欲望から離れることは、すなわち執着心をなくすことでもある。

この執着心はマインドの一環なのだが、これがひとを寂しくもさせ、つらく悲しい思いをさせたりもする。

人の数だけある欲望は、その数だけの悲しみで覆われている。

なぜなら。人それぞれの欲望に色彩られた思いはみな、お互いの気持ちを分かり合えるのをじゃまするから。

しかし、じゃますることで、人は、自分が孤独でひとりぼっちであることを自覚する。

そして、このひとりぼっちの自覚から、一歩踏み出して、我(われ)という立場に捕われない純粋な願いのあることを知る。

その純粋な願いこそ、自分がこの世でできる皆で「喜びを分かち合うこと」であり、そのためにできることは自分が「無心」にならなければならないということだ。

その「無心」になるために、人として味合わなければならないさみしさや悲しみはどれだけ多いのだろうとも思う。

このように考えてしまっている今の私は、まだあのときから一歩も前に進んでいないのかもしれない。

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2015年2月11日 (水)

自分で創造

創造は想像から生まれる。

物事がスムーズに展開している人を観察してみると

若いころからやりたいこと、希望や夢がはっきりしていること

その夢が自分自身、しっくりいっていたことが考えられる。

この、しっくりいくとはどういうことなんだろう?

バシャールの「自分のワクワクする気持ちに沿って、選択して生きること」

を挙げられたりするが

物事の展開のカギは結局

自分自身が握っていたことになるのでした。

そのことに気がつかないでいるから

自分の人生に翻弄されて、コントロールを失い

社会の情報の波に押されてしまい、

自分らしくない生き方を強いられ続けてきた。

つまり私もあなたも、ただの社会の操り人形として

教育され、今日を生きてきたわけだ。

さて、これに気づきはじめたところで

自分本来のワクワク人生に

軌道修正するにはどうしたらいい?

自分の人生は自分が創っている。

そうなら、毎日ちょっとした選択の中からでも

自分の気持ちに正直になれる生き方を選択していければいい

その連続が、積み重ねが

本来の自分自身を生きることにつながるのだから

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2014年11月26日 (水)

本質的なこと

限られた生を与えられた私たちにとって

生きている間に

変わらないものを追い求めることが

唯一、本質的なことのように思う。

変わらないものが見えない自分たちに

「永遠のいま」などわかろうはずがなく

ただ、出会ってきた人たちのなかに

変わらない愛の一片を垣間見ることがある。

それはきっと、その時々の自分の器に応じて

与えられる、天からの贈り物なのかもしれない

それを感じるほどに

自分がまた、その贈り物にならねばと思ったりもする。

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2014年8月15日 (金)

理不尽

世の中は理不尽に満ちている。

理不尽な社会、それを創っている理不尽な人たちのせいで

貧富の差がますます拡大していく世の中

日本はまだいいほうだ、と思ってはいけない。

人々の道徳観念が崩壊してきている

守られなければならないことは

儒教などの説く礼節を尽くす ということではない。

それは形骸化されてしまっている。

その先にあるもの その本質を理解していない人たちが多い

「このひとにどう言ったら、嫌がられるだろうか?

どうやったら喜ばれるだろうか?

自分だったらどうだろうか?」

自分にして欲しくないこと、言ってほしくないことを思い浮かべる、

想像するだけで、相手を傷つけるようなことはしなくなる。

相手はどう思うのか、感じるのだろうかという想像力が働かない人たちが

多くなったせいで、道徳が強調され、罰則、規則がさらに強化されるように

なった。その結果、人々は規則さえ守れば何をやってもよいと思うようになった。

規則は却って人を縛り付け、不道徳を招く。

規則そのものが愛情の不在だからだ。

そうして人は規則に逆らい、犯罪的になる。

便利な世の中が進行することによって、愛が不毛になってきた。

何かがおかしくなった。

きちんと愛されて育つ人たちが減ってきたのではないのか?

不毛な愛、家庭がちゃんと機能しなくなった

文明社会で生きる価値はなくなりつつある。

自分たちは、何を支えに生きていこうとしているのか?

いまこそ、ひとり一人に、問いかけられているのだろう

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2014年8月 9日 (土)

自分自身の影

人は自分の嫌な側面を他人に見る。

世界があるのはその人にそれを見せることによって成長してもらいたいからなのだろう。

成長することは、自分の世界のすそ野を拡げて

自分のことを一つずつ、好きになっていくこと、

自分の嫌な側面をそのまま受け入れて、それを乗り越えること。

乗り越えるということは、嫌な側面にこだわらなくなり

それを手放すということなのだろう。

そうして人は、自分というものを深く掘り下げてゆく存在なのかもしれない。

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2014年3月14日 (金)

ゲド戦記(3)

私たちは、本当の意味でのこの生を生きてはいない。そのことに気づかされるということで、このアニメは私にとって意味があった。もちろん他の人にはそれはあてはまらないかもしれない。

なぜ、みんな普通に大学に入学し、普通に就職し、普通に結婚し、普通に子供を作り、普通に年老いて死んでいく人生を当たり前だと思うのだろうか?

そのこと自体が催眠状態ではないのか?大勢の周りのみんな、他の人の歩む道をなぞらえて、自分も同じように生きることが果たして生きるということなのだろうか?

子供をつくるのも、死への恐怖から新たに生命をつなぐことで、命が永遠だと思っているのだろうか? 生の流れのなかでは、それは正しいかもしれない。しかし、個人の生き方としての選択肢はあまりに狭くはないだろうか?

私たちは、生きているといいながら、自分が死ぬことに、または家族に、身近な人が死ぬことに潜在的な不安を抱いて生きている。そして、自分だけはまだ死なない、と思っているのだ。

 

「いつ死んでもいいように今日を生きる」ことこそが、真の生きかただと思う。明日どうなるかわからない。そう思うことで、今日、今生きてる時間を大切にできるのだ。そして何よりもいまできること、したいことを後回しにしないから、その時点で充足している。あのときああやっていれば良かった、などと思うことがないから、一瞬一瞬で完結しているから、次に、未来に未練などない、そんな生き方がしたいのだ。

生きるとは、その一瞬一瞬が生、死、生、死、生、死 ‥‥ 、その繰り返しだと和尚は言う。身体の組織そのものも、今日どこかの細胞が死に、代わって別の細胞が生まれている。そうだとすれば、私たちのこころの中も、どこかが死に、どこかが生まれているのではないだろうか?

そう考えてくると、死ぬことに対する恐れとは、自分の今の固まった自我の死に対する恐れではないのか? 毎日同じであって欲しいとか、この生活がずっと続いて欲しいとかは自我の願望ではあるが、それは不自然な願望でもある。この不自然な欲求をするところに自我の恐れが宿ってしまうのだ。いまさらながら、真に生きるということは、生死をセットにした生というものを生きることだということ、それは現在の何ものに対する執着も持たないこと、それは今もこの一瞬に満足し、自己完結できるような生き方が望まれるということなのだ。

自我の願望に従うのだから、それはそれでよいではないか、と言えそうだが。

では自我は何を願望するのだろうか? 安定、権力、野心、幸福、それらは歴史を眺めてもわかるように、心の安らぎにはつながってこない。何が一番しあわせな生き方かといえば、それはこころの安らぎの状態、それを和尚は至福の状態というがー だと思う。

自我の欲求するものは、それが得られる代わりに、今度は失ってしまう恐怖とか、仮に得られたとしても、もっと多くとか、もっと違う刺激を求める際限のない願望に振り回され、決して安らぐことはない。

いや、人間は絶えず刺激を求める存在だからそれで良いとも言える。この刺激を求める心とは世界から分離された自我の、魂とひとつだった状態への渇きに基づいている。だから、何かと決してひとつになれない自我は、絶えず刺激を求め続け、何かと自分を結びつける快感を得ようとしているのだ。刺激を求めることの中には決してこころの安らぎは降りてこない。そして自我はそれが何かを求める限り、決して魂の平安へとたどり着くことはできない。自我は、それが主張すればするほど、魂から遠くなってしまう。そしてますます口が渇いてしまうのだ。

 

真に生きるとは、今日を今を魂の赴くままに生きることでもある。それは自分の自我とは一切関係がない。私たちはこの自分の自我を自分の魂に委ねる、その仕方をしらないから、決して生きることができないでいるのだ。

「いつ死んでもいいように今を生きて」いますか?

私にはそう言える自身もない。私の死への恐怖が自我からきているのだとわかっていても、

この私の自我は、まだ、深い魂の海に委ねることを拒否してしまっている。それほど私の自我は、まだ何かにこだわり続けているのだろう。

 

 

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2014年2月14日 (金)

ゲド戦記(2)

この物語は、作者がどういう意図で描いたかはどうでもいいことだ。自分にとってどう感じたかが大切なのだ。同じように、アニメ映画化した作者にとって、これは父親に観てもらう価値の在る作品として作ったために原作者のシナリオを外れてしまったとしても、それは仕方のないことだと思う。アレンに語らせているくだりで、「偉大な父親の存在のもと、不安でどうしようもないことがある」

 

少女テルが主人公に、自分の恐怖心や不安から逃げては、真に生きることはできないというようなことを言った。その言葉が、私にも響いた。私も、死ぬことに対する恐れのために、生きることができないでいたのだ。自分に限らず、自分の家族の死に対する恐れが常にあるために、私は毎日を十分に生きているとはいえない。まさにその通りだった。

主人公は、父親を殺さなければならないほど、不安と恐怖が人格を支配し、闇が拡大していった結果、死ぬのがいやで永遠の命を欲したクモに付け込まれてしまう結果となった。分裂した影は自分に戻ろうとしてテルという少女の協力を必要としており、その結果光と影、生と死、二律背反の人格はもとの真の名取り戻すに至ったかのようだ。

 

最初、光である主人公は、自分の影である自分自身に怯え、彼が自分を乗っ取ってしまうのを極度に恐れた。そこに少女が現れ、彼女が結局彼の二つの側面を一つに結びつけることになる。それは、彼女が主人公の影を連れて、城のなかに入ろうとするとき、「ここからは僕は入れない、いつも君と一緒にいるから、きっと光である城にとらわれの主人公にたどりつけるよ」と言っていることから推測される。ある意味で、彼女はまた、アニマであり、主人公の女性性の側面であるとも言える。生と死、光と影、男性と女性、相反するものの統合といったアンチテーゼがここに示されている。

彼女が言いたかった唯一のことは「死ぬことを恐れていては、決して生きることもできない」ということだ。生とは、死とコインの表と裏の関係にあり、二つでひとつなのだ。どちらかひとつだけに拘ったらコインそのものがコインでなくなる。そのようなことを和尚は述べていた。ここから生の本質とは、生と死の流転する流れそのものにあるのではないかという推測が導かれる。だから、死ぬことを決して恐れてはいけない。死ぬことを恐れていては、生きること自体が難しくなる。

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2014年1月22日 (水)

本当の自分を生きる

永遠の泉では聖人、特に和尚ラジニーシを中心に書いてきた。

このブログはこの性質からそれ以外のものを書けないでいる。

 

「時空を超えて生きる」というKanさん著(ナチュラルスピリット)刊の本から引用してみる。

「本当の自分を生きるようになると、世の中の尊い教えをうのみにしたところから、

今、生きている等身大の自分と向き合うようになります。そのとき、「もしかしたら自分は、マインドをハートだと思っていないか」と見つめ直すことが起き、「聖人の言葉の温かさだけで満足していないか。それが証拠に、生きながら胸を痛めているではないか_ 」

 

思うに、和尚ブログは、単に自分が世の中を生きるつらさから逃れるための隠れみの、心の癒し、それこそ「マインド」の癒しになっていたような気がしてならない。

私は、和尚の言葉を理解したつもりでいて、単に安心していたのかもしれない。

 

「導き教えてくれる人たちの言葉を聞いて安心するのではなく、やはり、みずからが実感すべきではないでしょうかーー」

 

その通りなのかもしれない。

スピリチュアルブログで陥りやすい罠は、それを書いている自分が、成長しており、それに共感してくれる人たちの支持されることによって、エゴをさらに強化してしまうことがある。成長とは、単に時間の中でしか生きられない私たちの幻想でしかないが、時間を超えた存在に至らない私たちにとっては、エゴを宇宙の営みの中に委ねてしまわねばならないという魂の回帰願望がある。

魂にとって、この世を生きるにはエゴがなくてはならないが、それに使われてしまうことによって、魂が真に生かされていないという現実がある。

私にとって和尚は、単にエゴの癒しの場であり、強化の場でしかなかった。

これからは等身大の自分に立ち戻って、謙虚に、自分自身を見つめ直さなければ、現世を生きる意味もなく、徒労の人生に終わってしまうのだろう。

思春期に抱いた目標、それは、

「いつ死んでもいいように今日を生きる」

だった。誰の文句だったかも忘れたが、そんな人生にしたいと思ったし、今でもそれは変わらない。

日々の生活の中での新たな発見を言葉にすることの大切さを知った。

誰かの言葉で安心しても、それは自分自身の言葉にならないだけでなく、単に頭のなかで反応する機械のようにつぶやく機械人間と一緒になってしまう。

大切なことは、自分自身でみつけて、それを自分の言葉で現わすことなのだ。

そこには等身大の自分が居る。

いまさらながら、聖人的な目覚めに至ろうとしているひとが増えてきたことには驚かされる。それは年齢とか、過去の知識とかは関係がない。

今、目覚めるかどうかは、日常の生活で、どれだけ注意深く気づくことができるかにかかっていて、それは誰でも本気になれはできることなのだ。

なぜそれができないのかというと、私たちの周りにはテレビやラジオ、今はインターネットで欲しい情報がすぐに手に入ってしまう。そのことが、かえって自分を見失わせる要因になっているのだと思う。私が感じること、思うことは、身近な生活の中から語られるべきであり、仮に見知らぬ顔の人の知恵を借りようとも、それを日常生活の中で消化するのは自分である。世の中には自分で消化されない言葉が氾濫している。

それは、自分の言葉のようであって、実は誰かの言った言葉を写し取ったものでしかないことのほうが多い。

みんな淋しいから、共通の話題で分かち合ったとか、理解しあえると思っているのだろう。

現実はそうではなく、映画ひとつとっても、それを解釈する人の世界観、見方の視点がひとそれぞれあるはずなのに、どういうわけか、専門家や、多数意見をうのみにして、それをさも自分の意見のように主張したがる人も大勢いる。

大切なのは、何事も自分自身の視点を持つことである。しかし、それがいかに難しいことなのかも、和尚ブログを書いてきてよくわかってきた。

だから、これからは、なるべくニュートラルな偏見のない立場で、自分が感じたことを言葉にしなければ、人と人との真のコミニュケーションも叶わないも「三次元の世界で出会う人々は、すべて「一人一世界」のなかで出会っている」のであり、人と人との触れ合いは唯一無二のその世界のコミニュケーションであり、それを可能にするのがハートだということなのでしょう。

少なくとも、これからの私は、単に反応装置としての人間を脱して、ハート指向の人間でいたいと思っています。

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