随想録

2010年1月 3日 (日)

自由(3)

今年も和尚ブログ、よろしくお願い致します。

2010年、さらに意識の目覚めの輪が拡がりますように‥

自由(3)

社会の仕組みは、弱肉強食であり、人間も動物の性を基盤にしている限りその例に漏れない。それを知った上で、国家とは何か、社会とは何かがひとり一人の内面に問われなければならないのではないだろうか?

こっちの政党が駄目だったから、今度はあっちの政党にする、といった安易な私たちの傾向をもっと理解する必要がある。

私たちは、私たちのために何かをしてくれる政治家や、親など誰かに頼ろうとする。なぜ頼ろうとするのか、自分の何を満足させたくて人を頼るのだろうか?

あなたの願望を利用するのが政治家の役割だといっていい。しかし、政治家は決してあなたの望みを満たしてくれるわけではない。

裕福な生活がしたいのだろうか、精神的に満たされたいのだろうか。

相手に頼るのは自分が奴隷になりたいということであり、自分は無力であるということを証明することだ。ならば自分は本当に無力なのだろうか? なぜあなたはそこまで奴隷でいたいのだろうか?

実のところ誰も自分の行動の結果に責任をとりたくないのだ。あなたが自分の行動のひとつひとつに責任を取れるようになれば、それだけ自由度が拡がる。私たちは、個人としての自由と引き換えに束縛される道を選んできた。なぜなら、その方が楽だからだ。楽して人生を楽しみたい、そんな甘えが私たちの根底に潜んではいないだろうか?

私たちは人に何かをしてもらいたくてその代わりに自分の自由を与えてしまった。この代償は大きい。色々な意味合いで身体の自由、心の自由、そして魂の自由さえ奪われてしまった私たちは、外部から押し付けられるがままの人生にみずから甘んじてしまってきたのである。これは意識レベルの低い状態では問題とはならなかった。

自由を意識しだした人たちは、この世界の不完全さに気づくようになる。なぜなら、意識の発達しつつある個人にとって、この世界は苦痛以外の何物でもないからである。その苦痛は自由への渇望の度合いに応じて増していく‥。人生はより自由を求める者にとっては決して楽しくない。いや、この世界が楽しくないのかも‥。

ひとたび苦しみから自由になれば、人は真に自由になるのだ‥(和尚)

和尚によれば生とは祝祭だ。そこには遊び心も必要である。自分の生を楽しむためには少なくとも何ものにも縛られないこころ、すなわち「自由」を感じることが前提である。

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2009年12月27日 (日)

自由(2)

私たちは、時間軸のあるこの世界にあまりにもなじんでしまっており、そのために個人の成長とか、目標とか、成るべき自分なばかり焦点を当てすぎているのではないだろうか。

私たちの本性が神の分身であるならば、本来が清浄なはずである。それがその時々の時代の社会に養育された結果、型にはまった意識を持ち、型に捕われた社会規範を持って社会生活を営んできている。その意識の基礎には、その時々の集団的意識がある。その時代に特異な意識に縛られているために、個人が生まれつき持っている神から与えられた本性を発揮し、生き抜くことができないでいる。それはつまり、個人が真に生かされないという幼稚な社会の歴史をたどれば明らかである。そしてこのことはこれまでに多くの人たちの気づきの可能性を拒み続けてきた。

私たちがいままで社会から教育されてきたことは、いかにその社会に沿った無難な生き方ができるかであり、その社会になじまない者は生きてはいけないというもくろみのもとになされてきたことである。狡猾でずるがしこい考え方も、社会規範のなかに組み入れられてしまえば正当化されてしまう。

国会議員の決める法律が必ずしも的を得ていることは少なく、その殆どは、自分たちの都合の良い様に作られてきている。

一例を挙げれば、税金の複雑さに疑問を持ったことはないだろうか?

個人が本を買ってそれこそ勉強しなければ、還付申告もできないような税金の取られ方に疑問を持ったことはないだろうか?

公務員たる国会議員がなぜ私たちの弱者の生活水準を上回っており、議員活動という名目のもとに必要以上に色々な恩恵を受けたりなぜできるのだろう?

それは百姓と代官とい搾取するものとされるものという、つい最近の構図となんら変わることがないではないのではないか。

「政権交代だ」といいながら私たち選挙民のすることといえば、自分の思うような政治がなされないと、別の議員にすぐに目を向いてしまう。単に非難することを考えるばかりで、私たちは、自分に何かをして欲しければすぐ他の誰かや政治に頼ってしまう、何よりもそういった私たち自身の態度に問題があるのだと考える人は少ない。

私たちはこの誰かに絶えず依存していたい心がどこかにある限り、いつも誰かの奴隷であり、決して自分自身の主人となることはできない。

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2009年12月19日 (土)

自由(1)

仮説1

神は自由な存在である。我々は、それぞれが神の一員であり、それから離れたことは一度もない。

それなのに、この生まれ変わりの世界に関わったことで、不自由をもたらされた。

この生きるのに不自由な世界は何ゆえに存在するのだろう?

神は、自分自身を認識していないのではないだろうか?

神は自分を知るという過程において、さまざまな多様性を生み出してきたのがこの世界であるように思われるのである。その多様性の種族のひとつが私たち人間であり、そのなかでも私たち人間は、それぞれが自我という限られた意識を持った個人として生まれることになった。

したがって、私たちは誰一人として神から離れてはいない。それはこの世界に生きる他の動物植物、鉱物でさえも同じ事である。ただ、意識の度合いが違うだけである。

したがって私たちは天から生を享かった地点で、過不足はなかったはずである。それぞれが神の分身なのであるから。

世界を不完全なものにしているのは意識を持った人間それぞれの想いである。それらは良い想いも悪い想いも相交じり合っている。そのそれぞれの思いが交じり合ってこの世界の現実を形作っているのである。そして、何が良いとか悪いとかも、それぞれの時代の人間の意識状態に委ねられている。だから、この世界は魂の修行の場だともいわれる。

ここで私が思うのは、神の分身として生まれてきたはずの私たち魂がなぜ修行をしなければならないかということである。修行の過程は決して楽なものではなく、むしろ苦痛だらけである。そして、この苦しみの世界から、修行を積んで、また神の世界に還っていかなければならないのだという、この思想は一体どこからくるのだろう。

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2009年8月 8日 (土)

富の不公平

日本だけの話ではないが、国家は権力を握っている人と、富をたくさん得ている人たちの少数派で政治活動の殆どを支配している。

資本主義社会なのだから、そんなことは当たり前だろ、と言われそうだが‥

ならば何故、そんな権力者や一部の金持ちの人たちに加担するようなことを国民の多くはしてきているのだろう。

国民の多くは、自分が中流意識をもっている。戦後の復興途上の日本ならそうかもしれないが、今は、金持ちはもっと貪欲に富や名声を求め、貧乏人はさらに必要最小限の医療や教育を受けられなくなっている。そもそも、働きたくても働かせてもらえない人たちにとって生活の手段が奪われてしまっているこの現状に政治家はあまりにも無頓着である。

それというのも、未だに中流意識の強い国民が多いから、この現状をなかなか変えることはできないのかもしれない。

 

政治家たちは、すぎた尊敬を求めるべきじゃない。

かつての王様や皇帝たちは、乞食のところへ自分たちの敬意を表しに行ったのだという。

お金のある人は、お金のない人たちのところへ頭を下げに行くという風習があったというのである。

そもそも、金持ちは一部の乞食の存在によって金持ちなのであって、そこには幾ばくかの乞食に対する布施があって当たり前なのではないだろうか?

今の社会のおかしいところは、お金持ちはさらに富を得て、それを一人占めにしようとし、権力者は、国をうまく統治できなくても、それにずっとしがみついて離れようとしない。自分が置かれている状況をみようとしないのである。

和尚は述べている。

もしひとつの国で、政治家があまりにもエゴイスティックになり、彼らがすぎた尊敬を求めたりすれば、やがて軽蔑が忍び込んで来るだろう。やがてそこには謀叛が起こるだろう。やがてそこには革命が起こるだろう。やがて何もかも破壊されてしまうだろう。あらゆる道徳規範、尊敬、礼儀がぶち壊されてしまうだろう。

私たちの多くは日々の生活に困っていない。その困っていないことが、権力者に媚を売り、金持ちになろうとして躍起になっている。それは自分たちが同じ権力志向の持ち主であることを証明している。

本当に日々の生活に困っている者は、そのときはただ、毎日が満足に食べていければそれで満足です、と思っている。しかし、一旦その生活が叶えられると、今度は車が欲しい、海外旅行に行きたい、新しい家が欲しい、もっと贅沢で便利な暮しがしたい‥ と思い続けて欲望に際限がなくなってしまう。

それがいいとか悪いとかではなく、そうした人間の欲望の傾向をまず理解することである。そして、今の生活で満足していることが一つでもあったらそれに感謝することを忘れてはならない。感謝を忘れては、ひとはエゴイスティクになり、身の程を過ぎてしまうことになる。

国の格差のこの行き過ぎた傾向を止めるのも進めるのもあなた次第だ。自分の中流意識からその行き過ぎた欲望の渦に呑まれてしまったのなら、その先は国家の滅亡か衰退が待っている。

今、ひとりひとりがもっと謙虚にならないといけない。この日本をこの先もずっと繁栄させいのならもっと謙虚になろう。そう思わなければそれでも良し。自然はいつも不自然な状態を決して続けさせてはくれないのだから‥。

太字「TAO老子の道:OSHO」めるくまーる社刊より引用

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2009年8月 1日 (土)

総選挙前

 総選挙が近づいてきて、自分の政党を正当化するために競争相手の政党を非難する傾向が強まっている。この非難の傾向をただ醜いとばかり言ってられない。

なぜ、自分の政党の将来についての前向きな姿勢がでてこないのだろうか?

他の政党の悪口を言う心理の裏側には何があるのだろう。

一言でいえばそれは単に自分が所属する政党の方針、もしくは自分の政治家としての生き方に自信がないということである。

 

自分の生き方に胸を張れない政治家に国を任せることなど決してできないし、良い国政など到底望めはしない。

国民のひとり一人がもし、この自信喪失の政治家に一票を入れるとすれば、それはあなたが彼と同じようなタイプの人間だということになる。

少なくとも自分の生きてきた足跡が、あなたの今の言動に反映されている。それは評価されるべきことではなく、自分自身の課題ととらえなければいけない。

もし他人を非難する暇があったら、自分を振り返る時間に切り替えるべきである。あなたが今日生きてきた集大成がここにある。そして、いまここを起点に自分に奥行きと気高さを与えるのは自分でしかない。周りのすることをいちいち気に掛ける暇があったら自分のあるべき姿を思い浮かべるべきであろう。

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2009年7月25日 (土)

無力(1)

誰かの助けになりたいと思うとき、いつも挫折してしまう。

なぜ私は身近な人々、相手の苦しみから救い出すことができないのだろうか?

この自分自身の無力だと感じることは、自分が自身を悟っていないからだということはもちろんであるが、少なくとも自分の考えによって相手をその苦しみから救うことはできないという絶望がそこにはある。

自分の考えることなどよく考えたら、人を救うだけの力などないのではないか。そう思えて仕方がないのである。そしてそれは真実でもあるのだ。

人の価値観などというものは、簡単に否定してしまえばそれまでなのであるが、

しかし、ひとそれぞれ自分が培ってきた価値観というものは、両親や祖父母、地域社会や国家、その文化圏など色々と影響を受けてきたものであるだけに、そう簡単に自分の価値観を手放すということはできない。

そもそもなぜ自分の価値観を捨てる必要があるのだろう?などと思われる。

私はこう考えます、という「価値観」、その背景には実に多くの人の意見が入り混じっている。

自分に苦しみがあるとき、それは自分の価値観の何かが間違っているということであり、それに気づくすべもない。

一方で、特定の価値基準に従っているからこそ、まともに、自分というものを保っていられるのだ。

 誰でもひとは何らかの価値観にしがみつかざるを得ないし、そうでないと、社会生活などしてゆけないのだ。それだけ人は自分の価値観(たとえそれが無意識にせよ)にしがみついて、自分自身を保っているし、自信の裏づけにもなっている。しかし、それは偽りの自信でしかない。そこでは絶えず自分と同じ価値観を持つ人から認めてもらえなければその自信も崩れ去ってしまうのだ。

しかし、自分の価値観などというものはない。それは幻想に過ぎない。せいぜい社会生活を送るに便利な思考体系だと思ったほうがいい。

そもそも、自然は人の考えることなどそんなちっぽけな思考体系を相手にしない。

人がいくら考えたって真理には程遠いのだ。そのことを相手の苦しみから自分の価値観で救うことができないことをいやというほど知らされてきている。

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2009年7月 4日 (土)

権力志向

 私たちの多くは権力志向である。

なにも権力者に成りたい人だけが権力志向なのではない。というのも、肩書きや権威に弱い人たちも権力者に媚を売っている点では同様であるということだ。

著名人や有名人というだけで、好感を持ったり支持したりするのが良い例である。

元芸能人を政治家に持ち上げようとする国民感情とはとんなものなのだろう。

農耕民族である日本人は、あまり変革を好まない。自民党政権が今まで与党として続いてきたのは国民の保守的な心理傾向が強かったのだろうと思う。

しかし、政治家に成りたがっているタレントになぜ人々は弱いのだろう。なぜ応援してしまうのか。

 真の民主主義は権力国家のもとでは決して成り立たない。私たちは自分たちの手で何かをしなければならない時でも、他の誰かが、頼りになる誰かが「自分たちのためになにかしてくれるだろう」と思い込んでいる。そしてこの他人任せな姿勢がよこしまな権力者を排出し、のさばらせてしまっている。形だけの民主主義の中で国民一人一人が意識を高めないといけない。そうでなければ、この日本国家は衰退の一途をたどってしまうだろう。

政治家の多くは世襲議員でありお金に関してはなに不自由なく育ってきたはずである。そんな人たちに子供の教育を満足にできない親や、介護が困難な見捨てられた老人たち、不景気だといって真っ先に切り捨てられる労働者たちなど、弱者の悲痛な叫びなど果たして理解できるものだろうか? 自分が経験しないことに関しては想像力さえも持ちえない傾向の現代人にあって、政治家はそんな弱者の痛みなど表面的に理解しているだけなのだと思う。テレビなどで自己主張し、パフォーマンスを演じている愚か者は、単に権力者に自分を売り込み、自分も権力者になって自分勝手な自由の世界を思い描いているだけではないのか。

権力を得ようとする者は、それなりの知名度と資金力が必要である。世襲議員は家の資産があり、芸能人には知名度がある。そういう人たちばかりの集まりは、弱者たちの世界観とはまた別次元のユートピアを描いているものだ。格差社会が言われているが、これではますます格差が拡がっていくばかりであると思えるのは私だけであろうか?

あなたはテレビ画面に映る有名人の姿だけを信じて、このひとは良い人だなどとほざいているのか。その人のことを知るには付き合ってみないとわからない。そういうことを考えたこともないのだろうか。他人を評価する見方が表面的な人は、自分自身について掘り下げて考えたこともないのだろう。そういう愚か者の集団であっては、世の中住みにくくなるばかりである。

政治家は、自分を基準にした、自分の描くユートピアの実現のために、法律を変え、自分とよく似た考えの持ち主とけったくする。その人たちも当然お金に困ったことなどないはずである。そして彼らは国民のためといいながら、結局は自分たちの野望と貪欲さのために弱者を犠牲にするのである。

もし、まともな政治家を選ぶのであれば、弱者上がりの人を選ぶことをお勧めする。残念ながら、そのような政治家は少ないし、実際にあまりよく知られていない。そして人気のない政治家ほど、人は疑い、投票などしないのである。

弱者の中からこそ政治家を排出するべきである。そうならない現在の国家の仕組みは、この先も弱者と強い者、勝ち組と負け組を作り続け、ともに共生し、富のバランスのとれた世界はいつまでたってもやってこないだろう。

こんなときこそ、政党を超えて協力しあわなければならないのに、お互いのあげ足を取って批難し合うくだらない政治家のどんなに多いことか。ましてやその人たちが閣僚だったりすると事は深刻です。そんな連中を選んだのは他でもない、私たちなのだ。

「いいえ、私は、俺は誰も選んでなんかないそ゛」という人たち、そう云う君は選ばないことによって、今日の社会情勢に力を貸し、今の政治を認めてしまっていることに他ならない。そのことに早く気づけよ!

国民ひとりひとりの自覚が根本から変わらないといけない。

どうか良識のある人間でいようではないか。

非難ばかりしているあなたたち、他人の批難をする前に、そういう自分はどうなのか?

もっと自分自身と向き合ってほしい。

自分自身と向き合う者だけが、美しく成長できるのだから‥。

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2009年5月31日 (日)

日本人と自我(4)

感情に流されやすい日本人(2)

 自我の確立した個人に求められる資質としては、①自分にとって必要な情報を取捨選択する能力があること。②自分の選んだ情報を自分の持つ考え方に照らし合わせて判断し、自己の内面に位置付けることができること。などが大切だと思う。

自分の選ぶ情報は自分にとって必要であると判断できることがポイントである。

情報の洪水にあっている現代において、自分がどんな情報を求めているかが大事なのである。そう考えると、自分が何を求めるかにしても、自分自身が少しでもわかっていなくては始まらない。

 鎖国を取りやめてから日本人の多くが、自分の意見を未だ持たないということは、西欧社会のさまざまな文化を取り入れ、吸収するのに役立ってきた。その一方でこの日和見的な態度は、かえって自分たちのそれまでの伝統や文化の持つ意味を見失わせることにつながった。

日本人がそれまでに培ってきた文化の意味合いを忘れかけてしまったのである。

自分の意見とは、それは相手をやり込めるための道具などではなく、自らの考えが、相手とどう違うのかを論ずることである。それは相手の価値基準に対しても寛容であることが、自我の確立した人間の前提であり資質である。そこには個人というものがある。

自分の意見を持たないということ、それは自分の行為に責任をとらないということである。

何をしようと、都合が悪くなったら、世の中にある色々な考え方を持ち出して、自分の行為を正当化する根拠にしようとする。それはつまり、自分を律する行動規範がないことを意味する。だから、「何をやっても正当化される」のが現代の風潮であり、問題ではないだろうか?

人の非倫理的な行為を非難することは誰にだってできる。しかし、非難をするのは自分のちゃんとした意見を持っていないからに他ならない。だからこそ、ある時は、Aの立場に、別の時にはBの立場について、それぞれを批判しようとする。他人を批判したがる人の多くは、必ずといっていいほど、反対側の立場に回っている。それは自我の批難したがる傾向の表れでもある。だからといって、彼らは自分の意見を持っているのではない。それは、他人の批判をすることによって「自分の意見」を持たないことを覆い隠す機会を与える。

他人を非難したり批判する人は、「自分自身の意見」を持っていない。

いま一度、自分の意見を持っていない根無し草ではなく、自分たちの風土や文化に触れ、その忘れられようとしている精神を取りもどすことが必要なのではないだろうか? それは必ずしも日本の伝統文化に触れることを意味しているのではない。身近な自然に感じるこころ、その感性を磨き上げること、美しいものに感動し、美しいものとそうでないものとを見分ける感性を養うことである。

 情に流され易い私たち日本人ではあるが、一方では情報操作に惑わされ易く、集団催眠にかかり易い危険が常にあるということ。

他方ではこの情の深さは身近な自然に感動する繊細さを含んでいる。日本の四季折々の情景が私たち日本人というものを育ててきたことを忘れてはならない。

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2009年5月17日 (日)

日本人と自我(2)

日本人の自我(2)

今日では、政治家や官僚の度重なるお金に絡む不祥事が日常茶飯事になっている。また企業のリストラや、非正規労働者の使い捨て、介護制度の形骸問題など、同じ日本人かと思えるほど、格差社会が拡大してしまっている。このことは何を意味するのだろう?

その前に、日本人の意識がどのようにして変移してきたかを知ることによって、私たち一人一人の向かうべき方向が見えてくるかもしれない。日本人の一人として、私たちがどのような日本的な風土や文化の呪縛にとらわれているかを冷静に見つめ直すことによって一人一人の意識の何かが変わっていくことを希望する。かくいう私も、日本人という枠組みをとらえ直す作業によって、私たちの心の中にある良識を見いだす手がかりとして、自分自身も何かが見えてくることを願い、「日本人と自我」について、深く掘り下げてみようとするものである。

 

 日本の社会は今日においても物質文明の発達した割には、公的な場での精神文化の発達が遅れた社会である。それは、国家の一員であるという公的な立場と、私的なプライベートな個人であることの区別の自覚のなさからみてとれる。身近な例では、外国の会議の醜態で報じられた日本人大臣の一例からも察するところである。しかし、そのことは、自分はどうであろうか? とそのことは同じ日本人として、危機感をもって問題提起されているのである。

 日本という国は天皇を中心とした家族国家であり、公的なものと私的なものとが混然一体となっている。もともと日本という国は、母系社会であり、その社会の特質は「運命共同体」的な個人以前の自然集団的な農耕民族として生活し、その中での個人とは、全体のなかでのみ位置づけられ、価値づけられる存在であった。戦前の大家族制度では、個人としてのわがままは通されず、常に「家人」としての規範に基づき行動をするのが常であって、「家」に泥を塗らないような個人の行動がそこには意識されていた。従って、他律的ではあるが、道徳律の基本がそこには存在し、封建制度的な家長父の云う事が絶対的な権限を持っていたとされている。

戦後、家族制度は、核家族化へと向かい、いわゆるマイホーム主義へと変貌してきた。核家族の特徴は、父親は外で稼ぎ、家の家事や子育て、教育は母親に任せるといったものである。父親は、家族的な企業への忠誠を尽くしてせっせと働き、家では母親が自分の主となった。そしてこの頃の夫婦間に至っても、お互いを高めあう上でのコミュニケーションというものがなかった。

 政治家が国民の税金を自分の家族や親族のために平気で使うという心情は、公私混同からくるものである。そこには公私混同し易い背景がいくつかある。

そのひとつに、日本人は国家を中心にした家族国家であると同時に、血縁や自分の所属する団体や企業、地域集団の一員であり、そこには個人がその集団と未分化な状態にあるといった問題がある。三世代議員というのも、身内だけによる利益享受以外の何物でもなく、そこでは個人の理想、能力などは度外視され、それぞれの集団エゴとして、身内には甘いという心理的な特色がある。というのも母系社会の特質と同じである。母親が自分の子供は、たとえ悪いことをしようとしまいと皆、平等にかわいいと思うのと同じ心理である。また、母親の溺愛が、子供の自立を阻害し、個人として自分の意見を持たない、自我の未熟な大人を世に送り出してしまうのである。それでも、日本の社会では、イデオロギーの対立など、主義主張の異なる者どうしの議論を戦わせる場が少ないので、それでも何とかやっていけるのである。それはつまり、自分の所属する集団エゴの中にいて、忠誠を尽くしさえしていれば、周りがそれを支えてくれるという仕組みになっているからであり、年功序列型の社会であるから、当該ポストでやっていく能力がなくても、できるひとが陰で段取りをとってくれているのである。そのようにして今までの日本の社会は母系社会そのものであり、国際社会の厳しい現実と向き合うことさえしなければ、なんとかやっていけたのである。

戦後日本の工業を中心とした急成長も、この家族的な企業戦士の育成が成功した一例である。しかし、時代は今、転換期を迎えているように思われる。

日本の急激な経済発展の一方で、核家族の暗い一面を見落とすわけにはいかない。対等なコミュニケーションの相手としての夫、すなわち共に成長し、子育てする担い手としての主を失った妻にとって子供は自分の思いのたけをつぎ込める唯一の存在であった。そのため、否定的な母親の欲望の犠牲になった子供たちがいた。自分ができなかった夢を子供に託す母親や、今でもある育児を放棄してしまう母親などによって、子供への十分な愛情が示されずに育った子供たちが次第に増え始めた。(戦前や戦時中に至っては、子供たちは、心理的な飢餓状態というよりは、親を失って愛情の示されない親戚にたらいまわしにされた子供、物資に不足し、必要なものさえもあまり与えられなかった貧困な子供たちが多いという現状だったという。)

この愛情不足によって育てられた子供たちが、次世代の親となるとき、その悲劇はくりかえされていく。社会の治安が悪化していく原因のひとつになっているものと思われる。

 他方、この頃から、政治家は自分たちの権力や利益を追求するために、一部の企業とけったくし、高度成長時代を経て集団エゴを肥らせてきた。本来、国民の公僕であるべき政治家が、自由民主主義というみせかけのイデオロギーを掲げて、単なる利益追求団体になってしまったことは母系社会の成り行きの果てであった。それに輪をかけて単独政権が長く続いたことによって、国民生活との生活水準のかい離がさらに広まっている。

その一例として、最近麻生政権が掲げている中流家庭を中心とした、中福祉、中負担国家の実現の裏には中流以下の家庭を切り捨てるといった懸念がつきまとっていることが挙げられる。

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2009年5月10日 (日)

日本人の自我(1)

自我の確立とも言われるように、人間は自我を確立してこそ一人前などと言われる。

もともと、「自我」という言葉はキリスト文化圏のヨーロッパで生まれた。私が最初に自我という言葉を知ったのはデカルトの「我思うゆえに我あり」だったように思う。

自我という概念は、西洋では個人主義へと展開し、人間が個人としての自分の意志や欲望を明確に表すことが良き事とされるようになった。しかし、その一方では自分の意思決定によってなされたことには自己責任がつきまとう。よく、何々をする権利とか云われるがその権利の行使の裏側には義務もある。したがって自分を主張するからには、その結果においては全て責任を自分で負うのである。

「自我」という概念は近代民主主義の発展とともに、個人の自由意志というものが尊重され、産業の発展に伴って必然的に個人主義として実を結んだ。

もともと、西洋の個人主義は、キリスト教の神との関係において成立するものである。キリストの父なる神との契約により、個人の自由意志が保障され、自由意志に基づく行為には責任もあった。それは、神が自己の行為を監視し、生前に良い行いをしたかどうかが審判にかけられるというものである。

我々日本人はこの西洋文化圏の個人主義の表面的な面だけを取り入れてきたように思う。

そもそも、仏教圏である日本人にとって、この個人主義というものはなじむことのできないものである。

日本はもともと天皇を中心とする「家族主義」の国である。日本の家制度は、一家の家父長制度であり、家長である父の意志がその家の法律であり、そこには絶対の権力があったとされている。しかし、第二次世界大戦による日本の敗戦とともに、この制度は崩壊した。

しかし、戦後も企業の終身雇用制度や、学会の派閥など、それぞれの場所と活動領域に家的なしがらみを持って影を潜めて存続していた。

日本のこの家族的な守りに支えられて戦後の復興を成し遂げられたと思う人は多いはずである。家族的な守り、言い換えると集団的な支えによって個人はその中で比較的自由に生きてこられた。その反面、他の仲間より才能のある人はその芽を摘まれることが多かった。なぜなら、家族的な暗黙のお決まり事みたいなものがそこにはあり、そこでは才能があるからといって、年配者を出し抜くということはできなかった。そこには日本的な平等観がある。日本人的な平等観に支えられて、みんな中流意識で働いてきた結果、今日の日本の発展がある。一方で、この平等観は、みんなと違うことをする人をいじめたり、仲間はずれにしたりという状況も生んでしまう。平等観、その背後には個性などないのがよいとされる汎個性的な生き方が望まれる。   

日本人に限ったことではないが、日本人には他人の生活、とりわけ隣近所の、もしくは、芸能人や有名人の私生活がとりわけ気になる存在になっている。それはつまり、自分たちの幸せのひとつの指標になっていること。「私もあんな生活がしてみたい、あんな風になりたい‥」という羨望。

もうひとつは、他人の不幸を覗くことで、自分の今のしあわせをより噛み締めたい、「あのひとに比べたら、私はまだしあわせなんだ‥」という安堵。

日本人は、極めて平等を好む民族である。それは島国で単一民族ということも関係しているのかもしれない。平等を好むからこそ、他人の生活をより気にする民族なのかもしれない。悪く言えば、そのことが、生活の画一化を生み、個性を育てにくくさせている側面もある。

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