経済・政治・国際

2012年10月 7日 (日)

領土問題

昨今、中国や韓国との領土問題で外交がぎくしゃくしているこの頃だが、一般の私たちの生活にまで弊害が及び始めてきた。

中国の若者たちは中国政府から愛国精神を植え付けられて、インターネットでも情報制限をされてきている。そんな若者の一部が反日感情を抱くのは悲しいことだ。

日本より貧富の格差が激しいといわれ、そのなかでも貧しい者たちの立ち向かうべき相手は中国政府にあるのではないだろうか?

一方で、メディアが伝えるのは中国政府があおりたてて一部の市民に反日デモを行なう場所と時間を設定したとも言われている。そこには政府の首謀が見え隠れしている。領土問題にすり替えて、貧しい民衆のやり場のない怒りのはけ口をうまくそこへ持って行ったというのだろうか。反日感情をあおるような史実とは違う歴史書で教育されている若者たちを悲しく思うばかりである。

尖閣諸島は一体どこの国のものなのだろう?

そもそも沖縄が琉球王国だった頃から、尖閣諸島では村民が住んでいたというが。

それを日本の民間人の手にどういった経緯でわたったのかは知らない。しかし、中国の言う日清戦争で尖閣諸島を日本が奪い取ったというのは当たらない。それ以前では沖縄の人たちのものであったことは史実なのであるから。中国もそれを認めていたはずである。

中国が尖閣諸島を自国のものだと言いだしたのは、そこに石油をはじめとする膨大な資源があることが明らかにされて依頼だった。そのさ中に国交の回復の動きが起きてきた。

近いところでは1972年の日中国交正常化の時や、1978年の日中平和友好条約が結ばれたときにおいて、尖閣諸島の問題は棚上げされたという。

今、問題になっていたのは棚上げにされていた尖閣諸島が、民間人から都が魚釣島を買い上げる話が持ち出されて、それを国が所有してしまったことにある。

そもそも日中でどっちのものか棚上げされていた国の領土なのに、勝手に日本が国の所有としてしまったところに中国側の怒りがある。腫れものにお互いにさわらないことで、かろうじて均衡が保たれていたパンドラの箱だった。

日本政府は

「そもそも領土問題など存在しない。」という。

もともと日本の領土なのだからという。領土を考えるとき、背景には国家がある。

私たちのすんでいるこの国家とは何なのだろう?

もともと、国家という枠組みは幻想以外の何物でもない。

国家は、それぞれの家族集団から地方集団をとりまとめた存在だ。そこには家庭という基本構成がある。現代は、この家庭という足場が揺らぎつつあり、家族の恒久性が失われつつある。家庭という単位と同様、それを構成する国家も、ひとつの幻想ではないのだろうか。私たちは、何をもって永遠、真実かと問われると、これだと答えられるものを持っているのだろうか?

身近に考えれば、自分の家だと思っていた物は、単に自分が生きている間の借り物に過ぎない。それは親から与えられた体とて同じ事。もし、自分の身体が、食事の材料となる動植物から与えられたものだと深く理解したら、それは感謝となる。そして自分のからだでさえも他の生き物から奪い取った借り物であることが理解されるのである。

敵と味方の境界のあるところに争いは発生する。それは自分と他人との境界でもある。どこまでを自分とするかで、ものの見方も変わってくる。

国家間の領土の争いとは、詰まるところ、動物園のなかの猿の縄張り争いではないのか?

縄張り争いが発生するのはきまって、国力の力関係が対等になりつつあるときだ。

戦争と平和の間を行ったり来たりするのは、この動物園という地球の中で、特定集団同士で力の誇示や拡大を狙おうとする野心家の猿のすることとそっくりである。

その野心家がまた、お金持ちときたからさらにやっかいだ。野心家は他人の汗と労働力を奪い取って積み上げてきた財産をもっと増やす事や、誰かに奪われるのではないかという恐れのために、力の弱そうな者を支配し、自らの富の拡大に邪魔な者は喧嘩をしかけ、蹴落とそうとする。

私たちは動物のように奮闘している。政治、国家、人種、宗教はどれもみな動物的だ。「国家」と言う時、それは領土への貪欲さ以外の何ものでもない。人種と言う時、それは民族崇拝以外の何ものでもない。私たちはそれらに良い名前を与え、良いラベルを貼り、背後にあるたくさんの醜さを隠す。

そもそも、政治とは何だろう? それは動物がするような何かだ。ヒヒのグループの中にさえ、政治の構造全体、世界中の首都で行なわれているのと同じ政治を見ることができる。大統領、首領がおり。部下や使用人が要る。低い階級や高い階級、あらゆるものが存在する。‥

そこには、社会の序列全体が在る。高い地位のヒヒは低い地位のものを抑圧し、低いものは、反抗さえ許されない。これは、やむことなく続く内面的な政治だ。新しいヒヒがボスになろうとする時はいつも、戦いと暴力がある。そしてもう一度序列は代わり、仕切り直しが行なわれる。

森の中には数多くのヒヒのグループがあり、それぞれの集団にはほかの集団が犯してはナラナイテリトリーがある。そのために暴力や戦いが繰り返され、同じことが人間にも当てはまる。

国境がそれだ。中国はここから、そしてインドはここまで。 ――― 国境の問題はゆゆしき問題であり、最終的には軍隊だけが、どこが境界なのかを決める。政治の世界へと深く入って、ヒヒの集団やほかの動物の集団と比較するなら、それらが酷似していることがわかるだろう。政治においては、人はまるで動物だ。

「グレートチャレンジ:和尚(市民出版社)

私たちの住んでいるこの世界‥‥ 人間をやってからそんなに経っていない気がするのは私だけだろうか?

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