恋愛

2011年11月24日 (木)

恋ごころ(2)

他人を愛するということの一番のレッスンは、恋愛だと思います。人は誰かを好きになるとき、単に生理的な吸引力だけではなく、理由のない相手の魅力に惹かれるのだと思います。それは突き詰めれば、ちゃんとした生物学的な理由、心理学的な理由があるのだろう。

しかし、それらは私たちに恋愛のきっかけを提供してくれる。

恋愛のもたらすものは理不尽である。結婚と違って単に経済力があるとか、身長が高いとか、それだけの条件で相手を選ぶということがない。また、そういったものは恋愛には必要ない。恋愛が、結婚に結びつくのであれはなおいいのだろう。

恋愛が、その人にもたらすものの最大の恩恵は、それによって無償の愛の入り口となることであると言える。どんなに自分と趣味が異なっても、性格が異なっても、嫌なところがあっても、その人に惚れたという現実が、彼を、彼女を無償の、見返りのない愛情を生む下地となっている。ひとを好きになるということはそういうことである。

もし、一人のひとに、普通だったら「あんなにまで尽くしてバカみたい」と傍から思われても、それをすることが真実の愛とは何なのかを知る手がかりになる。

一人の彼、ひとりの彼女を心底から愛するための糸口が恋愛である。もし、人が一生の間にたった一人でも無償の愛で尽くすことができなければ、人は他の誰をも愛することはできない。そのとき人は、単に自分のための見返りを期待する愛情しか知らないままである。

たとえ、人類愛に目覚めたひとでも、最初は一人のひとを心から愛することから出発していたのではないだろうか?

恋すること、それこそ、人が無償の愛を知る糸口であり、それを知らずして人生に意味はない。

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2011年11月17日 (木)

恋ごころ(1)

人は一生の間に何度恋愛するのだろう?

誰かに恋をするというのは、とても心地よいものだ。

それだけならいいが、恋するがゆえのつらさ、寂しさ、その依存性の苦しみも

合わせ持って生きていかねばならない。

それでも、人は誰かに恋することによって、より自分の内面へ深く入ってゆき

その暗闇を少しずつ明るく照らしているのかもしれない。

過去にどんな人に恋したのか、その記憶をたどってみよう。

たとえあんな人だとは思っていなかった、と思っていても、そのとき相手に対して期待し、寄せていた想いの内に、あなたの真実が隠されている。

つまり、相手が誰だとか、どんな人だとかいうことには関係なく、

あなたが、その人に対して抱いていたイメージとか、憧れに似た人間像が、すなわち

あなた自身の隠された本質だったということに気づくことが大切なのである。

わかりやすく言えば、相手に対するあなたの印象は、自分自身を映し出す鏡となって映っているのだということ。

世界は、あなたを映し出す鏡である

それは、世界は私の想いを映し出しているという言い方もできる。

だから、真実の相手の姿などは関係ない、自分が相手に対して、どう思ったか、どう感じたのかということが一番大切なのである。

そのように自分で感じた想いが、そのまま相手に伝わり、次第に相手も、そのようなイメージ通りの人間になってゆく。

もし、そうならないのであれば、それはあなたの想いがまだ不足なのか、あなたが相手に対して持っている疑問や、不信感、不純な動機などによって相手もまた、警戒感、不信感などを抱いてしまうものだということだ。

世界はあなた自身を反映する。

自分が人に恋するときのパターンをみてみよう。

あなたはそれらの恋になにか共通したものをみつけられないだろうか?

それぞれ好きになった人のイメージや性格が違うといいながら、実は相手の性格のなかに

自分自身をみているのである。

それはあなたが、一度は自分が異性になったときに、なってみたかった自分を、恋する相手の姿を通して、現実の姿として立ち現れているのである。

そうして、ひとは多くの恋を経ることで、より自分自身の内面深くにまで意識の光を照らすことができるようになる。

そうやってあなたは、より自分自身の心の厚みと深さを知るようになる。

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2011年10月 1日 (土)

ふりむいた風(5)

「たとえひとときでもそのときにもどることができたなら」

その時、私は確かにしあわせだったかもしれない。しかしそのとき、それを十分噛みしめて味わう事がなかったから、もういちど、そのときに、戻りたいと願う。

こんどこそしあわせを噛みしめていたい。

人は、いつも明日があるから、今日しなくていい、とか、明日も同じような日々がやってくることを当然のことと思うようになってしまう。けれどそれは違っていた。今日も明日も一度きりなのだ。今日充実して生きていない奴は、明日も充実して生きられるはずがない。生きる事の本質を私たちは知らないまま、誰かと一緒になり、結婚し、そして子供を産み育てて、子孫を残している。自我が望むしあわせは、それがいつもそこに住む他の誰かの支えなしにしあわせではいられないところにある。そのしあわせは、しんきろうのようなもの。それをあえて理解するのなら、私たちは、もっと生かされている今を無駄にはしないだろう。何もかもが、終わった後で、はじめて思い知る。失ってしまった者の大切さは、そのありがたさは、失ってしまった後になって思い知るということは、なんとも皮肉なことだろう。私たちはそれぞれに自我を携えて生きている。たった今、起こっていることに気づくだけで、その日を真摯に生きられるのに、それができないのは、明日もある。いや、続いて欲しい、続くべきだという自我の願望の前にうちのめされてしまうからなのだ。

明日はあるかどうかわからない、そう自覚した人の中にこそ、生きることの本質を見つけられるような、そんな気がするのは私だけではないと思う。

その日一日を精いっぱい生きたい。思い残すことなく、そうしたら、きっと自我はその存在理由を無くしてしまうだろう。それは、叶わなかった願望、叶えられなかった夢、後悔、悲しみ、憎しみ、そして恨みや怒りに満ちている。そういった色々のものが、今日を精一杯生きることで、消えてゆくのなら、いずれそうならざるを得ない。

そして私たちはいつかは、気づくことになる。

束の間だからこそ、そのしあわせを十分感じることで喜び、感謝せずにはいられなくなること、その人の生きざまの責任は、その人自身が、死ぬときに負わなければならないこと。これだけは私たちに平等に与えられた好機であり、かつ、試練なのかもしれない。

でも‥

もしも風がふりむいて 

ふりむいてもう1度

たとえひとときでもそのときにもどることができたなら‥

ああ

そうなったらどんなに

どんなに

僕はしあわせ

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2011年9月24日 (土)

ふりむいた風(4)

このストーリーではK君という風が、ある日転校生になって桃子のもとに再度現れた、そのことで「ふりむいた風」という題名になったのではないかと思います。Kくんから見れば、桃子が最後、ふりむいた風になったとも捉えられますが、どうなのでしょうか?しかし、ボーイフレンドまでいながら、K君、すなわち南条君の死の直前の桃子の最後の告白が読者の魂を揺さぶるものとなっています。これがハッピーエンドで終わっていたら、どこにでもある恋愛物語で終わっていたのだろう。

純愛の本質とは世界にただ一人の魂のかたわれに出会うことに尽きるのではないかと思う。それが現実にたとえ存在するしないは別にしても、自分の中にもう一方の異性の存在を意識に昇らせることが大切なことのように感じています。(美内すずえ先生は、この先「ガラスの仮面」でもう一方の自分、魂のかたわれについて展開しいいきます。)

エピローグでは、風がまた振り向いて、ふたりが愛し愛されることの喜びに浸っていた暖かなひとときに戻りたいと強く願ったK君の言葉で締めくくられています。彼にとって唯一愛した女性は桃子であり、周囲の人たちから冷たくされた生涯で、唯一しあわせだった彼女とのひとときに執着しているとはいえ、そこにしあわせの本質をもう一度、今のわたしたちに語りかけてくれるのではないでしょうか?

わたしは、この物語をもっと若い人たちにも読んでもらいたくて、載せてみることにしました。

エピローグ

‥‥

「きみは知ってる? 

通りすぎた風の行方を 

ページをめくり 

花びらをちぎり 

風の去ったあとも

それはそのままなのに 

風だけが行ってしまった。 

そしてそれがどんなにいい風でも 

どんなになつかしくても 

もう2度ともどってくることはない。 

でも‥

もしも風がふりむいて 

ふりむいてもう1度

たとえひとときでもそのときにもどることができたなら‥

ああ

そうなったらどんなに

どんなに

僕はしあわせ

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2011年9月17日 (土)

ふりむいた風(3)

Kくんとの淡い初恋の思い出は、桃子の家の掃除をしているところから、彼のノートを見つけるところから始まっている。高校時代の彼女にとって、Kくんは過ぎ去った風に過ぎなかった。けれど、彼が転校生として会いに来た時、それは現実の進行形の風に変わっていった。そして、いよいよ彼の正体が桃子に知れるとなったとき、初恋は、彼の死によって叶わなくなってしまう。

初恋の終局は、彼の死という形をとることによって、桃子のこころの中では永遠の想いとなってしまった。それは、現実の彼がそれ以上成長もがっかりする機会もないまま、桃子の中で時を止めたまま美化されるからだともいえる。美化されるということは、いやがおうでも、自分のこころの中にとどまることを意味する。それまで無意識だった自分の異性の側面が浮かび上がってくる。最初は、初恋の彼の姿に写し取られていた心の異性の側面が、彼の死によって桃子の内面にいやおうもなく引き戻されてしまう。そうして、彼はまさにその思い出とともに、永遠に桃子のこころの一部になってしまったのだと思う。

「風はいってしまった風はもう2度ともどってきはしない耳もとを通りすぎたときの髪を誘ったときのあの涼しくさわやかな感じはいつまでも残るのにそれがたとえどんなに昔でも

記憶の扉を開きさえすればいつでもあの感じはよみがえってくるのに

それなのに風は空にまぎれて2度と

帰ってきはしない

現実の彼はもういない、桃子にはその風がまた吹いてくれることを祈る。なぜなら、また風がふりむくことがなかったら、桃子はこの先どんな異性との出会いがあったとしても、心を閉ざされっぱなしになってしまうだろうから。まさに純愛とは、ただ自分にだけ吹くひとつの風、その感触を頼りに、どこまでも願わくばもう一度「振り向いて欲しい」と思う。そしてそれはふだんの、日常の私たちには届かない世界なのかもしれない。、私たちはいつも日常の雑事に追われて、機械的に生きている、いや生活している部分が多いから、当たり前のことに感謝する気持ちをどうしても忘れ勝ちになってしまう。そうやって、日常に埋もれ、新鮮な感覚を研ぎ澄ますことを怠っていると、時たま吹いてくる暖かな風、なじみのある風の感触をことさら気に留めるでもなく、受け流してしまう。

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2011年9月10日 (土)

ふりむいた風(2)

ある日高校に、転校生がやってきた。南条君という、その子はいつも桃子に視線を投げかけていた。

高校で学園祭のあった日、南条君が落とした定期券を拾った桃子が、彼の家に届けに行ったときに、突然めまいに襲われて倒れ込む南条君。医者から手当を受けたベッドに横たわっているとき、桃子は彼の腕にやけどの跡があるのを見て、ふと、K君のことを思い出し、胸が温かく九なるのだった。

幼いころ楽しく遊んだ記憶が甦った桃子は、いつしかそれが初恋だったことを知る。初恋の相手が突然現れて、とまどう桃子の過程が描き出される。二度目の南条君へのお見舞いの帰りがけ、忘れ物を取りに行った時、ドアの向こう越しで、桃子の飲みほしたティー?カップにそっとくちびるをつける南条君。それを見た桃子は彼を意識しだす。

一方で、転校生の南条くん、つまりKくんは子供のころからおじいちゃんと暮らし、母は再婚し、再婚先の子供ばかりをでき愛して、彼のことを顧みることは無かった。そんな彼が唯一愛し愛されたと記憶する小学生時代の桃子に一目会いたくて、目に焼き付けておきたくて、ひとりでこの町に転校してきたのだった。また南条君は、余命の短い命であった。そこで、彼は死ぬ前に是非、初恋の相手、桃子にあっておきたかった。しかし、桃子には君という恋人もいて高校生活を楽しんでいる。

ある日、みんなでピクニックに行くことになった。そこで桃子は南条君が話す思い出の数々が、桃子の知ってるK君との記憶の日々に重なってることに気づく。

桃子の心の中のモヤモヤが整理できずにいた桃子はボーイフレンドの二の宮くんと付き合うのを断ろうとする。そこで彼から転校生の南条くんが実はあのK君だったことを知る。桃子はKくんに会いに行ったが彼は自分だと名乗りでなかった。彼はすでに不治の病に侵されていて、余命がもう尽きかけていた。

南条くんがいよいよ亡くなろうとするとき、桃子は二の宮と一緒に彼の元に会いに行く。しかし、悪天候で、列車が立ち往生し、途中の駅から電話をかける。そこでK君は桃子と思い出を語り合う。

桃子が、

「Kくんそのあとねみんながひやかしたの。Kくんを好きだったんだろうって。ほんとよKくんあなたが大好きだった。とても大好きだったのよKくん、‥‥Kくん?Kくん!Kくん!Kくん!  好きよ!大好きなのよ!Kくん!‥」

Kくんは息をひきとった。

最後に恋人の二の宮君を振り切ってまで、大切なK君の想いでのノートを抱きかかえてその場を立ち去る桃子。付き人の「これからは思い出してやってください。彼はあなたの思い出の中でしか生きることはできないのですから」の言葉に桃子は顔をこわばらせるのだった。

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2011年9月 3日 (土)

ふりむいた風(1)

これは美内すずえ先生が昭和48年6月刊セブンティーンで発表した作品です。

プロローグで始まる一文は主人公桃子の部屋?の開け放たれた窓に風がゆるやかに入ってくる光景から始まる。

風は

いってしまった風は

もう2度ともどってきはしない

耳もとをとおりすぎたときの

髪を誘ったときの

あの涼しくてさわやかな感じは

いつまでも

残るのに

それがたとえ

どんなに昔でも

記憶の扉を

開きさえすれば

いつでもあの感じは

よみがえってくるのに

それなのに風は

空にまぎれて

2度と

帰ってきはしない

主人公の桃子は、高校生になって、ボーイフレンドの二の宮君と付き合って楽しい生活を送っていた。

ある日部屋の掃除をしていたら、一冊の古いノートが落ちてそれを拾い上げて読んだ。それは借りたままのK君のノートだった。そこには、小学校のころ、自分を励ましていたK君との思い出が甦っていた。K君は家が貧しくて、あばれんぼうで、友達もできず、一人孤独だった。そんな彼に桃子は最初は隣の席になったとき、いやで泣いていたが、そのうちにそんなに悪い子ではないと桃子は思った。ある日鉛筆を貸してあげた。K君はそれをきちんと削って桃子に返した。それからK君は次第に桃子にやさしくなった。桃子が熱湯をかぶりそうになったとき、身をていして守ってくれた。

あるとき、K君は家の事情で引っ越すことになった。それまでk君が得意だった折り紙、桃子に色んな折り紙の折り方を教えてはくれなかった折り紙の数々を、桃子の机の上にたくさん置いて去って行った。桃子は、会ってさよならもできずワーワーと泣くばかりだった。桃子はそれから折り紙を折るのが上手くなった。

幼かった頃の記憶が桃子に甦る。

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2011年8月26日 (金)

冬のソナタ

冬のソナタ」が日本で放映されたのは2003年でした。いまさら何をと思いましたが、自分の中で整理できずに今まできてしまいました。このままずっと整理できずに時間が過ぎてしまうのだろうか? と思っていたら、「ガラスの仮面(美内すずえ著)47巻」を買って読んでから、純愛の物語に一考したくなりました。

 「冬のソナタ」が日本の中年層を中心に感銘を与えたのはなぜなのか? しかも数ある日本の純愛小説をしのいで。

そのひとつに、これは初恋の成就のドラマであること。二つめにリュウさんの音楽とドラマの中の自然の壮大な絵画のような風景とが観る者を惹きつけたことにあると思います。よく、初恋は実らないと言いますが、現代の若者は初恋を初恋でちゃんと終わらせている人たちが多いのに対して、その両親世代以上では、付き合ったことも、思い出となる会話も数多くしたこともなく、過ぎ去っていった苦い経験がある人が多いのではないでしょうか。

初恋は、当然ながら、世間を知らない若者が初めてする恋であるから、当然そのほとんどは純愛に結びつきます。残念ながら、その初恋を純愛として成就させた人は殆どいないのではないかと思います。そういった意味で、この「冬のソナタ」は、純愛を成就させたドラマとして、非常に人気が高かったのだと思います。また、主人公の配役や、音楽の選択性、ドラマの設定が恋愛ごとに限定しているところなど、作品の評価を高めている要素は随所にみられていたと思います。

観る者は、自分が青春時代に叶わなかった初恋の淡い思い出を、そのドラマを観ることによって叶えてくれ、満足させてくれるものであったということです。

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2009年6月13日 (土)

人は絶えず誰かに恋をしていたいし、そのときめきが私を魂の高みへと誘う。

結婚相手に恋し続けられるのはひとつの才能であるが、それは相手に自分のないものをもっているか、日々、相手に新しい何かを発見できるからなのだろう。

明日も相手の何かがが変わらなければ、次第に飽きてしまうのだろうか?

 私たちはいつも恋に胸ときめかせることで、自分自身の心の未知の領域の何かを導き出すことができる。誰かに恋することで、それまで自分にはなかったある一面を発見することがある。

誰かに恋をすることは、新しい自分自身の扉を開くことなのだと言えないだろうか?

 和尚は自らの本性を知ることは学ぶことによっても教えられることによっても起こることはないのだという。

 それは師との合一によって、すでに到達した者と恋に落ちることによって、彼のなかに自らの本性を見いだすことによって可能になる。あなたはただの種子でしかないが、師は開花に至っている。それがあなたに上昇したいという、自らも花になりたいという熱望を与える。それは学ぶということではないし、教えるということでもない。師への深い愛がすべてを決める。

              「ボーディダルマ和尚:めるくまーる社刊」より

これは自分が本来あるべき姿、花開くひとつの花であり、孤高の個人になることへの渇望を師への恋によってもたらされるというものです。そして、師への愛が深ければ深いほど、その渇きはより自分の本性へと向かわせるというものだ。それは知識によって到達されるものではないという‥。

 

私なりの解釈では、誰かに恋をするということは、相手を通して、自分自身の何かが意識され、結晶化していくのだと思える。それは、相手を通して、自分の心の何かが動かされ、魂の奥深くで揺さぶられるのである。そうすると、現実の相手とは、そのときの自分が抱いていたそのときのある理想のイメージの投影である。その投影像が、相手を良く知るに連れて深い愛情へと切り替わるのであるが、他方で恋は長続きするものではない。

相手に抱いていた恋心とは、自分自身の本性であるものへの予感に相違ないのではないだろうか?

そうして、人は絶えず恋を重ねるごとに、より自分の本性に近づいていくことになる。

人は自分の本性に近づく度に、いきいきすることができる。それは魂の深化していく、種子が芽を出し、枝葉を揃え、つぼみをつけていくように自然で喜びに満ちた過程である。

その自然な流れが滞っている状態が、苦しみを生み出している。

恋は人を生き生きさせる。そうでないものは停滞であり、何かへの執着だったりするのかもしれない。

恋は人をその魂の高みへと導いてくれる。外的なきっかけを通して、自分自身に秘められた本性を引き出してきれるのである。そして、その過程は、人が個人としてひとつにまとまり結晶するまで続くものなのだろう。

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