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2015年7月

2015年7月20日 (月)

日本の未来

日本という国は住みやすい国だ。そのことは、島国であること、単一民族国家であること、

宗教上では、多神教を支持し、他国の支持する宗教に対して寛容であることなどが挙げられる。

自分の国が住みやすいというのは、単に戦争がないだけでなく、それに巻き込まれたりしない、貧富の差があまりないことなども含まれている。

しかし、今国会で衆議院が自民の安全保障法案の採決を可決したことによって、今後の日本は幾多の争いに巻き込まれていき、平和国家でなくなるのではないかという危惧が生じた。

隣の隣人が喧嘩で負けそうになったから、助けに行くのは当たり前だからとか、自分の家を守ってもらうためには必要なことだといった屁理屈が正当化されてしまうのだ。

そもそも、自公の法案は、憲法違反であり、それを無視して安全保障法案を採決することは、国民の総意である憲法を踏みにじっているも同じである。法治国家としての体がなくなり、独裁者による専制政治の始まりとも受け取られる。

アベノミクスは、この先さらに貧富の差を拡大させる政策を取り、言論の自由に対する弾圧を行う可能性は否定できない。

自民党の総国民の支持率が30%台であろうとも、いったんは半数以上の人が支持し、いまの強行採決を許す結果になった自民の議席確保を導いたのはわれわれ国民であることを、今一度理解する必要がある。

平和ボケしたわれわれ国民の意識状況に対して、過去の自分たちがいかにしあわせであった、などと嘆くような未来をつくってはいけない。

しかし、スピリチュアルな視点では、平和ボケして調子に乗っている国民に対して、ショックを与える事件も必要だ、ということになってしまう。

政治に無関心か、関心があっても、どうせ無駄だからといって、ほかに投票する政党がないからといって、何もせずにいることも、結果として自民や公明に対して賛同するひとつの意思になることを忘れてはいけない。

 

自分たちの未来は自分たちで創るのである。そこには例外はない。

 

無関心、無選択ということも、ひとつの選択肢であり、この先の自分の未来に多大な影響を与えることを平和ボケした私たちは、いまひとつ理解していないのではないか、日本の未来は、まだ決まったわけではない。

こうして今、ブログで自由に自分の言葉を表現することのできる喜びを、将来にわたって得られることを願ってやまないのである。

自分の意思をはっきりと、伝えましょう!

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2015年7月 4日 (土)

結婚と自由(5)

誰かに束縛されたい気持ちは、結婚を望むこととなり、人は一人ぼっちの淋しさから結婚を望むようになる。

結婚したら、結婚制度の身分の保証の中で、ひとは毎日のように付き合わされる家族から自由になりたいと願っている。

このこころの矛盾は誰にでもあるものだ。この矛盾のなかで、ひとは次第に決して満たされることのない自分自身のこころの渇きに気づき始める。

外側に、周りに色々期待し、要求する自分がそこにいる。それは家族という範囲、職場という範囲では決して満たされることのできない関係への様々な欲求がそこにある。それが満たされないとひとは精神的におかしくなってしまう。つまり、自分の欲求こそが不幸の原因だった。

自分のさまざまな欲望こそが、不幸の原因だったことがわかる。

欲望の世界は、人それぞれ千差万別、それぞれの夢想された独特の世界であり、個別のオリジナルな宇宙である。

それゆえに誰一人として、自分の欲求を叶え続けてくれるひとはいない。そのことがわかるまで、ひとは誰かにしあわせを求め続ける。

あなたこそ、わたしをしあわせにしてくれる唯一の人です、と常に誰かに関わっていないと安心できない。相手にしあわせを約束してもらおうとすることは、砂の足場に家を建てるようなものだ。

自分の誰かに望むこころや理想」が不幸の原因だとわかりはじめたとき、そこから本当の精神的な探究が始められる。

自分の欲求からの自由こそが、しあわせをみつける基礎となる。いや、しあわせを捜し求めるこころがまだあるうちは、決して自由ではいられない。しあわせにこだわる心が人を欲求に縛り付けているからだ。

真の自由は、自分からの自由、それはなにも望まず、なにも要求せず、すべてを成り行きにまかせてしまえる無の境地、それこそ自分というこころを全体に委ね、そこに安住することによって、喜びと安らぎがもたらされているのかもしれない。自分というものを忘れることができて初めてすべてが満たされた至福の境地に至るというパラドックスがそこにあるのではないだろうか?

逆にこうも言える。

真に幸福な、永遠の至福の境地はあまりにも退屈なものかもしれない。人は、個人として生きるこ

とによって初めて、喜びも悲しみも色々と経験することができる存在なのだ。

だからこそ、人は出会いと別れの喜びと悲しみを味わうことによって、人生そのものを真に楽しんでいける存在なのかもしれない。

だとしたら、結婚も、深刻なドラマにしてはいけない。それもいくつもある関係の中のひとつのゲームだ、という感覚が必要なのかもしれない。

結婚というものを遊びごころを持って臨むことが、人生を旅するものの心得であるのかもしれない。

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