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2015年7月 4日 (土)

結婚と自由(5)

誰かに束縛されたい気持ちは、結婚を望むこととなり、人は一人ぼっちの淋しさから結婚を望むようになる。

結婚したら、結婚制度の身分の保証の中で、ひとは毎日のように付き合わされる家族から自由になりたいと願っている。

このこころの矛盾は誰にでもあるものだ。この矛盾のなかで、ひとは次第に決して満たされることのない自分自身のこころの渇きに気づき始める。

外側に、周りに色々期待し、要求する自分がそこにいる。それは家族という範囲、職場という範囲では決して満たされることのできない関係への様々な欲求がそこにある。それが満たされないとひとは精神的におかしくなってしまう。つまり、自分の欲求こそが不幸の原因だった。

自分のさまざまな欲望こそが、不幸の原因だったことがわかる。

欲望の世界は、人それぞれ千差万別、それぞれの夢想された独特の世界であり、個別のオリジナルな宇宙である。

それゆえに誰一人として、自分の欲求を叶え続けてくれるひとはいない。そのことがわかるまで、ひとは誰かにしあわせを求め続ける。

あなたこそ、わたしをしあわせにしてくれる唯一の人です、と常に誰かに関わっていないと安心できない。相手にしあわせを約束してもらおうとすることは、砂の足場に家を建てるようなものだ。

自分の誰かに望むこころや理想」が不幸の原因だとわかりはじめたとき、そこから本当の精神的な探究が始められる。

自分の欲求からの自由こそが、しあわせをみつける基礎となる。いや、しあわせを捜し求めるこころがまだあるうちは、決して自由ではいられない。しあわせにこだわる心が人を欲求に縛り付けているからだ。

真の自由は、自分からの自由、それはなにも望まず、なにも要求せず、すべてを成り行きにまかせてしまえる無の境地、それこそ自分というこころを全体に委ね、そこに安住することによって、喜びと安らぎがもたらされているのかもしれない。自分というものを忘れることができて初めてすべてが満たされた至福の境地に至るというパラドックスがそこにあるのではないだろうか?

逆にこうも言える。

真に幸福な、永遠の至福の境地はあまりにも退屈なものかもしれない。人は、個人として生きるこ

とによって初めて、喜びも悲しみも色々と経験することができる存在なのだ。

だからこそ、人は出会いと別れの喜びと悲しみを味わうことによって、人生そのものを真に楽しんでいける存在なのかもしれない。

だとしたら、結婚も、深刻なドラマにしてはいけない。それもいくつもある関係の中のひとつのゲームだ、という感覚が必要なのかもしれない。

結婚というものを遊びごころを持って臨むことが、人生を旅するものの心得であるのかもしれない。

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