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2015年6月27日 (土)

結婚と自由(4)

結婚は、一人ぼっちで淋しい自分、孤独に耐えきれない私たちが要求する束縛の宿だ。この宿がないと、人は生きられない。私たちは、誰かに束縛されることによって、一人孤独でいるさみしさから逃れることが出来、また、自分の必要性を満たすために、家族を創ることができる。家族に囲まれて生きることほどしあわせなことはない。

一方でいつも誰かに見られていると、一人だけの空間を得たいと望んだりする。そこで一人の楽しみを見つけようとする。それはいつも周りに誰かが居るからこそ、一人に成りたいと望むのである。結婚しているからこそ、自分の時間を作りたいと思うのです。

もし、毎日が一人ぼっちなら、自由になれる一人の時間が欲しいとは決して思わない。毎日がひとりぼっちなら、逆に誰かに会いたいと常に思い、さらには誰かに束縛されたいと願い続けたりもする。

誰かに束縛されたい気持ちは、結婚を望むこととなり、結婚制度の身分の保証の中で、ひとは家族から自由になりたいと願っている。

いや、誰かからの支配からのがれることが、ひとりになれる時間を得ることが、本当に望みなのではない。

家族とは、社会とは、それが絶えず動き続けるものであり、しあわせが続くものではないことを知っている。もし、何事もなく、子供を生み育て、孫の顔を見、さらにひ孫の顔も見れて、最後は息子や娘にみとられて、死ぬことができるのであれば、それは果たしてあなたの本望であろうか?

大好きでたまらない人が、いつまでもそばにいて欲しいと願うのは、当たり前のことだ。しかし、どんな場合でも、一緒に死ねるということはほとんどあり得ない。一緒に死ねても、あの世でも一緒だとは限らない。また、大好きでたまらない人と一緒になれなかったり、別れなければならないことは生きていて、度々起こることである。

このひとりぼっちの寂しさは、そうならないように常に誰かを求め続ける。そしてそれは私の幸せが、好きな人に依存し、家族に依存し、そして社会に依存していることを示すものだ

つまり私はいつも、誰かから愛されたいのだ!

そしてこれが叶わないから、愛に飢え、こころが満たされず、それゆえにどうしようもない淋しさを紛らわすために、他人にしがみつこうとする、この姿勢こそ不幸の原因なのだ。

私のこころを満たしてくれるものは誰もいない。そのことを真に理解するまで、ひとは家族を求め続け、社会を求め続ける。

幻想の社会にではなく、束の間の仮の宿としての家族ではなく、こころが、真に満たされている状態、つまり分離されたこの感覚をもとのひとつだったものに帰ることが、唯一のしあわせに至る道なのだ。

永遠の至福、それを求めるこころさえなくなった魂こそが、永遠の至福なのだ。ひとは、そこに至る旅人であり、こうして今も、永遠の泉を求めてさまよい続けている。

時間を超えて、そこにあるものこそ本物であり、そのためにひとは自分からの自由を獲得しなければならない。自我のしあわせはささやかだか、その時々では値のあるものだ。しかし、それがもろくもはかないものだとわかったとき、人は永遠のしあわせを探し求める。そしてそれは、社会に根付いている自分自身のこころの奥底に存在しているものなのだと思う。

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