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2015年5月 8日 (金)

感謝と愛

愛という梯子の一段目がセックスであり、一番上が慈愛である。と和尚は言う。

長年連れ添った夫婦は、子育てや介護に一緒に携わって来た人なら戦友であるという。 一方で、恋愛時代のように刺激やドキドキがなくなった夫婦ならお互いに空気のような存在だという。

忘れてはならないのは、愛の梯子を登り詰めるには感謝という栄養が必要だということ。

花は、見られる人がいなくても育つと言われる。しかし、毎日、見ている人がいたら、その花は生き生きして、長持ちする。植物にも感情に近いものがあるのかもしれない。人間が生き生きさを保ち続ける秘訣は感謝にある。それは常に誰かから有難がられているということ、言いかえれば感謝されているということだ。

恋愛時代のような情熱は愛の梯子の一段目から来る。それは相手によって快楽を得たい、相手を自分のものにしてしまいたい。相手といることの幸せを永遠のものにしてしまいたいという自我の欲求である。

刺激のない夫婦にとっては空気のような存在であっても、「あなたがいてくれるからやっていける」ということを示さなければ、愛の梯子は昇っていくことは決してできない。当たり前であっては、セックスから慈愛へと愛が成長することが決して出来ないのだ。 元々は他人だったものが、一緒に暮らしていくに連れ、「私のことを愛し続けてくれてありがとう」といった感謝の気持ちを態度に表わすことこそが、自他、ともに愛の階段を上る力となっているのだ。それがなかったらる一緒にいる意味などどこにももない。

私たちは、一人ではつらいから、さびしいから、そのつらさから解放されるために誰かと一緒になる。だが、それだけでは生きるということにはならない。ここに愛の梯子を、共に支えあって昇っていくことに生きることの本質が見えてくる。

そして最後の梯子を渡り切ったとき、あなたは多分言う。「未熟な私だったけど、あなたのおかげで昇っていくことができたわ。ありがとう」 そして慈愛。 人は自分のあふれるばかりの愛で一人立つことが求められている。最後の階段を上るまで、ヒトは誰かに支えられないと生きてはいけない。

しかし、最後の階段を上ったとき、人は、誰かがそばにいてくれない悲しみ、ひとりぼっちのつらさから解放される。そこで、初めて相手のことを自分の必要からではなく、ありのままの相手として愛し、受け入れることができるのかもしれない。そしてまた和尚のいう「独りであること」の意味を知るのだろう。

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