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2015年5月

2015年5月30日 (土)

結婚と自由(1)

結婚して、同時に自由であることは可能かどうかを尋ねた求道者にOSHOは答える。

それは難しい。しかし不可能ではない。ただ少し理解が必要だ。

2,3の基本的な真理が認識されなければならない。

第1に、誰も他人の為に生まれてはいないということ。

第2に、誰も人はこのようにあるべきだというあなたの理想を満たす為に、ここにいるのではないということ。
第3に、あなたは自分自身の愛の主人(マスター)であり、自分の望む限りを与えることが出来るが、誰も奴隷ではないのだから、相手から愛を要求することは出来ない、ということ。                    

もしこれらの単純な事実を理解したら、その時には、あなた方が結婚しているか結婚していないかは問題ではない。あなた方は一緒にいられる・・・互いの空間を許し合い、互いの独自性を決して妨害せずに。

(ニューウーマン誕生(めるくまーる刊)オショーラジニーシ)

 

これを初めて読んだ時、「そうだそうだ」といかにも自分はわかったつもりでいた。

この3つはどれも真理を表しているのだが、僕は現実の中では、それを行為で示すことはできていない。殆どの人はこれを理解しないか、頭でしか理解していない。そして僕もその苦しみの中にいる。

最初に始めなくてはいけないことは、自分がいかにこの真理を理解していないか、ということを思い知らないといけない。

 

第一の真理

誰も他人のために生まれてきてはいない。

しかし、マインドはこう言う、私はあなたと出会う為に、あなたの世話をするために生まれてきました、と言う。それはつまり自分の喜びやしあわせのためにあなたはいなくてはならない存在なのです、ということ。誰かのために、というのはその誰かを通じて生きる喜びがって初めて、自分自身の表現が完結されることを意味している。

つまるところ、

誰も他人のために生まれてきているのではなく、自分自身を表現するために、自分を成長させるために、自分に感動を与えるために生まれてきました、と言った方がより正直だと思える。

 

第二の真理

2人の人が結婚する時、2人共ある特定のイメージと結婚している。そしてそれは明日になれば変化するものだ。あなたの結婚した女の人は、明日はもう同じ人ではない。彼女は生きている、彼女は成長している、彼女は動いている。明日は明日だ。(OSHO)[

結婚する相手探しに際して、お互いに抱いている相手のイメージ、こうあって欲しいという願望を叶えてくれる相手を好んで選ぶ。まさに、その人が自分にとって相性の良い相手であり、自分をしあわせにしてくれる、その人でもあるわけだ。

しかし、時間が経つに連れ、お互いに変化していく、人は相手の特定の固定化されたイメージ通りの人ではなくなってくる。

僕は彼女がおしとやかな人だったから結婚したのにこれは詐欺だ、と後から言っても始まらない。人は常に変化し続け、その時々の性格の衣を脱ぎ捨てては新しく成長していっているのだ。誰一人、例外ではない。「あなたの理想通りになる人など、この世にいないのだ」、とそう悟ることが僕はまだできないでいるのだ。

ひとは自らの本質に従って生きるべく運命づけられており、誰も他人の理想を満たすために生まれてきているわけではない。もし、他人に自分の理想を押し付けるなら、いづれ失望することになる。

 

第3の真理

愛はビジネスではない、「これだけの愛情を注いだのだから、その見返りが欲しい」とそう望んでも、相手にとってそれは押しつけ以外の何物でもない。そもそも、相手は君にどれほどの愛情を注いでくれ、などと頼んだのだろうか?  それは一方的であって、本当のところは、特定の誰かさんから愛情を注いで欲しいというのが本音である。お望みの相手が愛情を注いでくれるかどうかは相手の自由であって、それはビジネスに落し込む性質のものではない。

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2015年5月22日 (金)

失望

期待していたことが

裏切られて

好きだったことが

嫌いになって

信じていた自分が

愚かだとわかったり

望みを託したことが

ことごとく

失望へと変わっていく

 

たんに

自分の描いた理想や願望が

信念や価値観が

すべて崩れ去っただけ

 

失望によって

色眼鏡を外させてくれて

僕は裸のまなざしになる

 

失望することで

何かを得たということも

何かを失ったということも

それらは幻だったことが

ようやくわかる

 

失望することによって

この俗世のわずらわしさ

うとましさから解放される

 

失望することが

彼岸への憧れを芽生えさせる

 

失望こそが

私を純粋な魂への

飢えと憧れに気づかさせてくれる

失望は

本当に欲しかったものなど

この世になかったことを

思い知らされる

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2015年5月18日 (月)

魂の故郷

この世が空しいと思ったことがある

 

これまで生きてきたことが

すべて無意味に思えることがある

 

ただ、ひとりぼっちでどうしようもなく

淋しい と思ったことがある。

 

憧れの人になりたいと思った時から

誰かに恋しくて、会いたくて、仕方がないと思った時から

それは

きっかけとなる相手に感応する自分の

眠っていたこころを突き抜けて

内なるマスターや異性をいつしか呼び覚ます

そのこころの奥のマスターや異性は

 

魂のふるさとに住んでいるのかもれない。

そうして人は

より魂の故郷に帰りたく思う

どうしようもなく

切なくて 切なくて

故郷に恋い焦がれ

生きるのもつらくなってしまう

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2015年5月 8日 (金)

感謝と愛

愛という梯子の一段目がセックスであり、一番上が慈愛である。と和尚は言う。

長年連れ添った夫婦は、子育てや介護に一緒に携わって来た人なら戦友であるという。 一方で、恋愛時代のように刺激やドキドキがなくなった夫婦ならお互いに空気のような存在だという。

忘れてはならないのは、愛の梯子を登り詰めるには感謝という栄養が必要だということ。

花は、見られる人がいなくても育つと言われる。しかし、毎日、見ている人がいたら、その花は生き生きして、長持ちする。植物にも感情に近いものがあるのかもしれない。人間が生き生きさを保ち続ける秘訣は感謝にある。それは常に誰かから有難がられているということ、言いかえれば感謝されているということだ。

恋愛時代のような情熱は愛の梯子の一段目から来る。それは相手によって快楽を得たい、相手を自分のものにしてしまいたい。相手といることの幸せを永遠のものにしてしまいたいという自我の欲求である。

刺激のない夫婦にとっては空気のような存在であっても、「あなたがいてくれるからやっていける」ということを示さなければ、愛の梯子は昇っていくことは決してできない。当たり前であっては、セックスから慈愛へと愛が成長することが決して出来ないのだ。 元々は他人だったものが、一緒に暮らしていくに連れ、「私のことを愛し続けてくれてありがとう」といった感謝の気持ちを態度に表わすことこそが、自他、ともに愛の階段を上る力となっているのだ。それがなかったらる一緒にいる意味などどこにももない。

私たちは、一人ではつらいから、さびしいから、そのつらさから解放されるために誰かと一緒になる。だが、それだけでは生きるということにはならない。ここに愛の梯子を、共に支えあって昇っていくことに生きることの本質が見えてくる。

そして最後の梯子を渡り切ったとき、あなたは多分言う。「未熟な私だったけど、あなたのおかげで昇っていくことができたわ。ありがとう」 そして慈愛。 人は自分のあふれるばかりの愛で一人立つことが求められている。最後の階段を上るまで、ヒトは誰かに支えられないと生きてはいけない。

しかし、最後の階段を上ったとき、人は、誰かがそばにいてくれない悲しみ、ひとりぼっちのつらさから解放される。そこで、初めて相手のことを自分の必要からではなく、ありのままの相手として愛し、受け入れることができるのかもしれない。そしてまた和尚のいう「独りであること」の意味を知るのだろう。

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