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2015年4月 9日 (木)

執着と感謝

そばにある幸せに気が付かず、それは事が終わる頃になって初めて思い知ることになる。

そのために、いままであった幸せを手放さねばならないときに、執着心が芽生えてしまう。

和尚はこう述べる

すべての執着がスピリチュアルな旅では重荷となると瞑想者に明確になれば、感謝の気持ちが束縛ではなく、自由を与えるものとなるだろう。もし私が、あなたに何らかのことで感謝に満ちているとしたら、どこに執着の余地があるのかね?

実際、感謝の念を表さなかったとしたら、内側で束縛として残ってしまうだろう。

だが、感謝することにより、事は完結される。

執着心とは、依存であり、進行形の必要性である。

もし、いまあるしあわせに対して、その都度、感謝することができたなら、そのしあわせな現実とともに、心は満たされ、その場にとどまることもないのだろう。

もし、感謝がなかったら、いまあるしあわせに、永続性を願うことになり、それは自分に対しても、相手に対しても束縛をもたらす結果となる。

生の河は絶えず流れ続けている。このことが理解されたなら、私たちは束の間のしあわせに決して執着しては、苦しみをもたらすだけであることを思い知る。

それは、自分にはもうこのしあわせはやって来ないかもしれないという不安があるからだ。

生は流れ続ける。その束の間のしあわせこそ輝きそのものだと、理解したときは後の祭りだ。

同じようにして、当たり前の毎日が、実は感謝に満ちているなどと、そのとき誰が思うだろうか?

後になってから感謝しても遅い。それでも感謝することがなかったら、過去になってしまったあのしあわせなひとときにいつまでも執着して苦しみ続け、いまという瞬間を決して生きることができない。

当たり前に過ぎていく毎日に、いかに感謝できるかが、いまを生きる術があるような気がする。

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