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2015年4月

2015年4月13日 (月)

生の目的性と魂の無目的性

今、生かされているこの現実がある。私はなぜここにこうして生きているのだろう。 ひとつにそれは、この私の人生は、何らかの目的を持っているということだ。

誰でも人は、気づこうと気づかないとに関わらず、目的を携えて生きている。 その目的は、自分で設定したものだ。 「私には使命感がある」というのもその果たすべき使命をもって、自分の目的となっていることに他ならない。 生前に自分で選んだ目的は、本来人生の中で消化されなければならない。しかし、それが消化不良もしくは未消化のままで人生を終えようとするとき、死ぬ覚悟が出来ていないために、恐れおののく。そして、人生の終末期になると死ぬのがとても怖い、さらにとても淋しい気持ちに襲われてしまう。「自分の人生は何だったんだ?」「ひとりぼっちで死んでいくのは嫌だ!」などと、潔くない悲惨な終末期を迎えてしまう。 みんな人生は満足して終えたいはず。だったら、「いつ死んでもいい」と思える心境になってから死にたいと思う。

一体何を達成したくて生まれてきたのか、思い起こすことだ。それをしないと、人生のたそがれ時により苦しむことになる。 それは誰のためでもなく、自分自身で設定する目標だから、あなたは自分で人生を創造する自由を持っている。 しかし、この世界、この社会に生まれてさまざまな教育を受けるなかで、自分の人生を創造するために、自分で決めた目標を遂行することを次第に忘れてしまう。でも、何度でもやり直すことはできる。一生が台無しになろうとやり直しはできるのだ。ただ、この人生の終末期の苦しみは味わわねばならないだろう‥‥。

和尚は述べている。

「魂や自己は生まれることがない。-身体だけが生まれる。そして身体だけが死に、魂は死なない。魂は何の理由もなく存在する。それはただ在る。この世界では理由を持たぬものだけが永遠だ。雲もなく降りそそぐ雨こそが甘露だ。

理由あるものはすべて消え去る。なぜなら理由が支えてくれる間しか、それは存続できないからだ。石を拾い上げて投げると、それはあなたが投げた力に相当する距離だけ進むー 二百歩、三百歩、そして落下する。子供は生まれ、七十年生きる。母親と父親は、彼に自分たちの生命エネルギーを与えた。それは七十年経つと終わり、彼は死ぬしかし、この世界は続いてゆく。無限の世界が生まれては消え、そして再び生まれる。だが存在はあり続ける。地球は生まれ、そして死ぬ。星や月は生まれ、そして消滅する。

(シャワリングウイズアウトクラウズ 女性の覚者、サハジョの詩:市民出版社)

そう、魂は何の理由もなく存在し、そして永遠だ。

しかし、あえて私たちは理由をもってそれぞれ各自の目的を携えて生まれてくる。だから有限な存在だ。 しかし魂は決して滅ぶことがない、だったらこの有限な人生、後悔しないためにも生前に自分で決めた目的を遂行して、大いに冒険に乗り出すしかないではないか。

他人の目を気にしてはいけない。自分が成りたかった自分を目指そう。それは他でもない、自分自身が選んだ道だから、決して後悔などない。もし後悔があるとするなら、この有限の期間限定の自分の人生に、経験したかったことをして来なかったこと、そしてそれを忘れてしまうことだと思う。 だから、恐れずに生きていこうではないか。

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2015年4月 9日 (木)

執着と感謝

そばにある幸せに気が付かず、それは事が終わる頃になって初めて思い知ることになる。

そのために、いままであった幸せを手放さねばならないときに、執着心が芽生えてしまう。

和尚はこう述べる

すべての執着がスピリチュアルな旅では重荷となると瞑想者に明確になれば、感謝の気持ちが束縛ではなく、自由を与えるものとなるだろう。もし私が、あなたに何らかのことで感謝に満ちているとしたら、どこに執着の余地があるのかね?

実際、感謝の念を表さなかったとしたら、内側で束縛として残ってしまうだろう。

だが、感謝することにより、事は完結される。

執着心とは、依存であり、進行形の必要性である。

もし、いまあるしあわせに対して、その都度、感謝することができたなら、そのしあわせな現実とともに、心は満たされ、その場にとどまることもないのだろう。

もし、感謝がなかったら、いまあるしあわせに、永続性を願うことになり、それは自分に対しても、相手に対しても束縛をもたらす結果となる。

生の河は絶えず流れ続けている。このことが理解されたなら、私たちは束の間のしあわせに決して執着しては、苦しみをもたらすだけであることを思い知る。

それは、自分にはもうこのしあわせはやって来ないかもしれないという不安があるからだ。

生は流れ続ける。その束の間のしあわせこそ輝きそのものだと、理解したときは後の祭りだ。

同じようにして、当たり前の毎日が、実は感謝に満ちているなどと、そのとき誰が思うだろうか?

後になってから感謝しても遅い。それでも感謝することがなかったら、過去になってしまったあのしあわせなひとときにいつまでも執着して苦しみ続け、いまという瞬間を決して生きることができない。

当たり前に過ぎていく毎日に、いかに感謝できるかが、いまを生きる術があるような気がする。

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