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2014年3月14日 (金)

ゲド戦記(3)

私たちは、本当の意味でのこの生を生きてはいない。そのことに気づかされるということで、このアニメは私にとって意味があった。もちろん他の人にはそれはあてはまらないかもしれない。

なぜ、みんな普通に大学に入学し、普通に就職し、普通に結婚し、普通に子供を作り、普通に年老いて死んでいく人生を当たり前だと思うのだろうか?

そのこと自体が催眠状態ではないのか?大勢の周りのみんな、他の人の歩む道をなぞらえて、自分も同じように生きることが果たして生きるということなのだろうか?

子供をつくるのも、死への恐怖から新たに生命をつなぐことで、命が永遠だと思っているのだろうか? 生の流れのなかでは、それは正しいかもしれない。しかし、個人の生き方としての選択肢はあまりに狭くはないだろうか?

私たちは、生きているといいながら、自分が死ぬことに、または家族に、身近な人が死ぬことに潜在的な不安を抱いて生きている。そして、自分だけはまだ死なない、と思っているのだ。

 

「いつ死んでもいいように今日を生きる」ことこそが、真の生きかただと思う。明日どうなるかわからない。そう思うことで、今日、今生きてる時間を大切にできるのだ。そして何よりもいまできること、したいことを後回しにしないから、その時点で充足している。あのときああやっていれば良かった、などと思うことがないから、一瞬一瞬で完結しているから、次に、未来に未練などない、そんな生き方がしたいのだ。

生きるとは、その一瞬一瞬が生、死、生、死、生、死 ‥‥ 、その繰り返しだと和尚は言う。身体の組織そのものも、今日どこかの細胞が死に、代わって別の細胞が生まれている。そうだとすれば、私たちのこころの中も、どこかが死に、どこかが生まれているのではないだろうか?

そう考えてくると、死ぬことに対する恐れとは、自分の今の固まった自我の死に対する恐れではないのか? 毎日同じであって欲しいとか、この生活がずっと続いて欲しいとかは自我の願望ではあるが、それは不自然な願望でもある。この不自然な欲求をするところに自我の恐れが宿ってしまうのだ。いまさらながら、真に生きるということは、生死をセットにした生というものを生きることだということ、それは現在の何ものに対する執着も持たないこと、それは今もこの一瞬に満足し、自己完結できるような生き方が望まれるということなのだ。

自我の願望に従うのだから、それはそれでよいではないか、と言えそうだが。

では自我は何を願望するのだろうか? 安定、権力、野心、幸福、それらは歴史を眺めてもわかるように、心の安らぎにはつながってこない。何が一番しあわせな生き方かといえば、それはこころの安らぎの状態、それを和尚は至福の状態というがー だと思う。

自我の欲求するものは、それが得られる代わりに、今度は失ってしまう恐怖とか、仮に得られたとしても、もっと多くとか、もっと違う刺激を求める際限のない願望に振り回され、決して安らぐことはない。

いや、人間は絶えず刺激を求める存在だからそれで良いとも言える。この刺激を求める心とは世界から分離された自我の、魂とひとつだった状態への渇きに基づいている。だから、何かと決してひとつになれない自我は、絶えず刺激を求め続け、何かと自分を結びつける快感を得ようとしているのだ。刺激を求めることの中には決してこころの安らぎは降りてこない。そして自我はそれが何かを求める限り、決して魂の平安へとたどり着くことはできない。自我は、それが主張すればするほど、魂から遠くなってしまう。そしてますます口が渇いてしまうのだ。

 

真に生きるとは、今日を今を魂の赴くままに生きることでもある。それは自分の自我とは一切関係がない。私たちはこの自分の自我を自分の魂に委ねる、その仕方をしらないから、決して生きることができないでいるのだ。

「いつ死んでもいいように今を生きて」いますか?

私にはそう言える自身もない。私の死への恐怖が自我からきているのだとわかっていても、

この私の自我は、まだ、深い魂の海に委ねることを拒否してしまっている。それほど私の自我は、まだ何かにこだわり続けているのだろう。

 

 

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