« ゲド戦記(1) | トップページ | ゲド戦記(3) »

2014年2月14日 (金)

ゲド戦記(2)

この物語は、作者がどういう意図で描いたかはどうでもいいことだ。自分にとってどう感じたかが大切なのだ。同じように、アニメ映画化した作者にとって、これは父親に観てもらう価値の在る作品として作ったために原作者のシナリオを外れてしまったとしても、それは仕方のないことだと思う。アレンに語らせているくだりで、「偉大な父親の存在のもと、不安でどうしようもないことがある」

 

少女テルが主人公に、自分の恐怖心や不安から逃げては、真に生きることはできないというようなことを言った。その言葉が、私にも響いた。私も、死ぬことに対する恐れのために、生きることができないでいたのだ。自分に限らず、自分の家族の死に対する恐れが常にあるために、私は毎日を十分に生きているとはいえない。まさにその通りだった。

主人公は、父親を殺さなければならないほど、不安と恐怖が人格を支配し、闇が拡大していった結果、死ぬのがいやで永遠の命を欲したクモに付け込まれてしまう結果となった。分裂した影は自分に戻ろうとしてテルという少女の協力を必要としており、その結果光と影、生と死、二律背反の人格はもとの真の名取り戻すに至ったかのようだ。

 

最初、光である主人公は、自分の影である自分自身に怯え、彼が自分を乗っ取ってしまうのを極度に恐れた。そこに少女が現れ、彼女が結局彼の二つの側面を一つに結びつけることになる。それは、彼女が主人公の影を連れて、城のなかに入ろうとするとき、「ここからは僕は入れない、いつも君と一緒にいるから、きっと光である城にとらわれの主人公にたどりつけるよ」と言っていることから推測される。ある意味で、彼女はまた、アニマであり、主人公の女性性の側面であるとも言える。生と死、光と影、男性と女性、相反するものの統合といったアンチテーゼがここに示されている。

彼女が言いたかった唯一のことは「死ぬことを恐れていては、決して生きることもできない」ということだ。生とは、死とコインの表と裏の関係にあり、二つでひとつなのだ。どちらかひとつだけに拘ったらコインそのものがコインでなくなる。そのようなことを和尚は述べていた。ここから生の本質とは、生と死の流転する流れそのものにあるのではないかという推測が導かれる。だから、死ぬことを決して恐れてはいけない。死ぬことを恐れていては、生きること自体が難しくなる。

|

« ゲド戦記(1) | トップページ | ゲド戦記(3) »

随想録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/483880/54996645

この記事へのトラックバック一覧です: ゲド戦記(2):

« ゲド戦記(1) | トップページ | ゲド戦記(3) »