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2014年1月

2014年1月22日 (水)

本当の自分を生きる

永遠の泉では聖人、特に和尚ラジニーシを中心に書いてきた。

このブログはこの性質からそれ以外のものを書けないでいる。

 

「時空を超えて生きる」というKanさん著(ナチュラルスピリット)刊の本から引用してみる。

「本当の自分を生きるようになると、世の中の尊い教えをうのみにしたところから、

今、生きている等身大の自分と向き合うようになります。そのとき、「もしかしたら自分は、マインドをハートだと思っていないか」と見つめ直すことが起き、「聖人の言葉の温かさだけで満足していないか。それが証拠に、生きながら胸を痛めているではないか_ 」

 

思うに、和尚ブログは、単に自分が世の中を生きるつらさから逃れるための隠れみの、心の癒し、それこそ「マインド」の癒しになっていたような気がしてならない。

私は、和尚の言葉を理解したつもりでいて、単に安心していたのかもしれない。

 

「導き教えてくれる人たちの言葉を聞いて安心するのではなく、やはり、みずからが実感すべきではないでしょうかーー」

 

その通りなのかもしれない。

スピリチュアルブログで陥りやすい罠は、それを書いている自分が、成長しており、それに共感してくれる人たちの支持されることによって、エゴをさらに強化してしまうことがある。成長とは、単に時間の中でしか生きられない私たちの幻想でしかないが、時間を超えた存在に至らない私たちにとっては、エゴを宇宙の営みの中に委ねてしまわねばならないという魂の回帰願望がある。

魂にとって、この世を生きるにはエゴがなくてはならないが、それに使われてしまうことによって、魂が真に生かされていないという現実がある。

私にとって和尚は、単にエゴの癒しの場であり、強化の場でしかなかった。

これからは等身大の自分に立ち戻って、謙虚に、自分自身を見つめ直さなければ、現世を生きる意味もなく、徒労の人生に終わってしまうのだろう。

思春期に抱いた目標、それは、

「いつ死んでもいいように今日を生きる」

だった。誰の文句だったかも忘れたが、そんな人生にしたいと思ったし、今でもそれは変わらない。

日々の生活の中での新たな発見を言葉にすることの大切さを知った。

誰かの言葉で安心しても、それは自分自身の言葉にならないだけでなく、単に頭のなかで反応する機械のようにつぶやく機械人間と一緒になってしまう。

大切なことは、自分自身でみつけて、それを自分の言葉で現わすことなのだ。

そこには等身大の自分が居る。

いまさらながら、聖人的な目覚めに至ろうとしているひとが増えてきたことには驚かされる。それは年齢とか、過去の知識とかは関係がない。

今、目覚めるかどうかは、日常の生活で、どれだけ注意深く気づくことができるかにかかっていて、それは誰でも本気になれはできることなのだ。

なぜそれができないのかというと、私たちの周りにはテレビやラジオ、今はインターネットで欲しい情報がすぐに手に入ってしまう。そのことが、かえって自分を見失わせる要因になっているのだと思う。私が感じること、思うことは、身近な生活の中から語られるべきであり、仮に見知らぬ顔の人の知恵を借りようとも、それを日常生活の中で消化するのは自分である。世の中には自分で消化されない言葉が氾濫している。

それは、自分の言葉のようであって、実は誰かの言った言葉を写し取ったものでしかないことのほうが多い。

みんな淋しいから、共通の話題で分かち合ったとか、理解しあえると思っているのだろう。

現実はそうではなく、映画ひとつとっても、それを解釈する人の世界観、見方の視点がひとそれぞれあるはずなのに、どういうわけか、専門家や、多数意見をうのみにして、それをさも自分の意見のように主張したがる人も大勢いる。

大切なのは、何事も自分自身の視点を持つことである。しかし、それがいかに難しいことなのかも、和尚ブログを書いてきてよくわかってきた。

だから、これからは、なるべくニュートラルな偏見のない立場で、自分が感じたことを言葉にしなければ、人と人との真のコミニュケーションも叶わないも「三次元の世界で出会う人々は、すべて「一人一世界」のなかで出会っている」のであり、人と人との触れ合いは唯一無二のその世界のコミニュケーションであり、それを可能にするのがハートだということなのでしょう。

少なくとも、これからの私は、単に反応装置としての人間を脱して、ハート指向の人間でいたいと思っています。

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