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2013年5月

2013年5月25日 (土)

人生の目的(3)

前回、私たちには、やはり目的意識が必要なのだと書いた。

その説明を別の観点からみてみよう。

私たちは、自分の人生と戯れることを目的としている。これが究極の無目的の生を楽しむということだろう。では、そのためにはどうすればよいのだろう?

「戯れる」ことをオショーの言葉で思い返してみよう。

戯れとは、無目的な何か、あるいはそれ自体が目的である何かを意味する。達成されるべきものなど何もない。

人が戯れる方法など知り得ないが、その状態を現したものなら想像もできよう。

人の数だけある生、その生は個々の私の、一回きりの人生というものだ。その生の数だけ宇宙が展開している。

宇宙の展開はひとつのスクリーンだ。人はその中で観客席に身を置く永遠の存在だ。

一度、スクリーンを見ていると、その中に入って、そのステージに立ちたいと願うことになる。なぜなら、そこには自分が、私が、僕が、そしてあなたが唯一、戯れることの出来るステージが照らし出されているのだから。

人は戯れようとするとき、ステージに立つ。そこでは誰もがひとつの生を与えられた主人公である。

どのような運命に翻弄されようと、あなたはそこに立ったことで主人公でいられる。そこは、あなたがあなたとあなたの仲間を創って楽しめる創造の空間である。

人は戯れることができる、そのステージで。

生は、達成されたステージだ。それを望んだ者は、他でもない、観客の私とあなただ。

私は、そのステージのシナリオライターになれる。そこで自由な想像空間を展開することができる。

観客としての「わたし」が意識されてはじめて、ステージの「私」は戯れることができる。

それは、内なる創造の神としての「わたし」と、生のステージで生かされている「私」とが結びつくことだ。「わたし」と「私」が出会ってはじめて、戯れることが可能になる。そのとき、生は達成になり、生はただあふれるエネルギーの分かち合いになる。

人はこのあふれる生の悦びを分かち合うために生きている。それこそが無目的の生の何たるかだ。それこそがオショーの云う、ただエネルギーの戯れだ。

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2013年5月18日 (土)

人生の目的(2)

人生には何の目的もない、と言い切ることができるのなら、そこには宇宙との戯れが待っている。しかし、現実に私たちは、生を楽しむどころか、悲壮でつらく悲しいものと映る。

ここに、私たちが、人生に目的を持たなければならないパラドックスがある。

目的意識があるということが、自分の人生を充実させる。

それは、目的意識を持つことが、世界で生きる意味と理解の深みをもたらすからである。

そもそも、なんで私は生かされているのだろう?

と考えるその問いが、本来の存在である自分自身に気付くための旅の道程なのだ。

私たちは、宇宙と戯れる目的のない生を生きている。そのことに気づくために、私たちは個別に存在している。そして、その気付きを得る道のりにさまざまな目的が発生する。

その目的は、現在の私たち自身が招き寄せたものだ。そして、目的が発生したなら、もう答えは導き出されている。終わりの無い始まりは無い。答えのない問いもない。そして、もう問う事もなくなったとき、私たちはそこで初めて無目的の生を生きる事ができる。

オショーは無目的の生はいま既に起こっていると云う。

しかし、私たちは常に何かに囚われて生きている。このことが、目的意識をもたらす。

そして、目的意識がある限り、囚われの身から開放されることはない。

目的をもって人生囚われて生きるのも悪くない、そう思えるまで、私という人生の旅は続く。

人は、自分は目的意識を以って生きている、という。その背後にはひとは無目的の生を生かされているという現実がある。人の目的意識は、それが無目的の生をゴールにできない理由がここにある。

私たちのなかに目的意識がなければつまらないものになってしまう。しかし、それは旅を充実させるための手段であって、決して自分自身を知る手助けにはならない。しかし、旅が充実したものにならなければ、決して無目的の生に気づく事もできない。

なぜなら、生を楽しむことこそ、無目的の生への入り口であり、そこが旅の終点でもあり、神秘への入り口でもあるからだ。

結局、私たちには、やはり目的意識が必要ということなのだ。

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2013年5月10日 (金)

人生の目的(1)

弟子がオショーに人生の目的を質問したところから始まる。

人生の目的は何ですか?

なぜ私たちは、ヨガや、いろいろな瞑想テクニックや、苦しい行をしなくてはならないのですか? 人生における使命とは、何であるべきなのでしょうか?

オショー答える。

 

生は、解くことのできない神秘だ。もし説明できるなら、神秘などではない。生の中に、使命などというものはない。なぜなら、神秘に使命などありえないからだ。ただの戯れ、リーラだ。この全存在は、ただエネルギーの戯れだ。戯れとは、無目的な何か、あるいはそれ自体が目的である何かを意味する。達成されるべきものなど何もない。まさに行動そのものが、達成だ。生は、なんの使命も持たない。というのも、生それ自体が、達成だからだ。だからあなたは、様々に生きることができる。たくさんのことができる。それはすべて、たんなるエネルギーの流出、目的のない宇宙の戯れだ。だからこそ神秘なのだ。

生の中に、使命などというものはない。

僕たちが「使命」だと言ってきているものは何なのだろう?

それは、自我という想念の固まりが、何度も生まれ変わっていく過程の中で、「次は叶えられなかった想いをやり遂げたい」と強く願望することから始まる。前生でやり残した色々な感情に色彩られた想念が、今生での使命感を生むのだと思う。

この全存在は、ただエネルギーの戯れだ。戯れとは、無目的な何か、あるいはそれ自体が目的である何かを意味する。

生まれ変わりは時間空間という場が提供されることによって、想念が形を変えて展開する。

想念が、「もう思い残すことが無くなった」状態のとき、人は本来の「生」を生きるようになるのだろう。それは、オショーの云う「無目的の生」。何の条件もない生を生きてこそ、人は楽しむことができるのかもしれない。

生それ自体が達成だからだ。

人生が何の目的意識もないとき、人は生そのものと戯れることができる。それは生ける神人だ。いや、それ以上かもしれない。肉体を持たない神でさえ、「真我=アートマン」を携えている。宇宙はこの真我の夢の結果現れたものだという。この「真我」がよくわからない。

僕なりの解釈では、「真我」とは、宇宙を創生する力であり、場をつくる源なのだと思う。それは、「独りあること」の「独り」とつながっているような気がする。それ以上の追及は単なる自我の好奇心を満足させるものでしかないのだ。

だからあなたは、様々に生きることができる。たくさんのことができる。

しかし、現実の私たちはそれができないでいる。なぜなら、様々な、(個々の)自我の想いに縛られて、限定された世界を自ら(それを自覚しないで)選択しているから・

独りある自分が、自らの生を生きる時、それは無目的な生であり、無選択の生であるべきだし、そうならざるを得ない。その結果、生は

たんなるエネルギーの流出、目的のない宇宙の戯れだ。

ひとは、そこではじめて永遠の今を生きることが出来、宇宙と戯れることができるのだろう。

和尚、云う

生は解くことのできない神秘だ。

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2013年5月 3日 (金)

独り在ること(4)

みんなの中に神さまが居るのだ、といいながら、それを実際には隠れて見ることができない。

なぜなら、日頃の私たちの思考が、マインドのことだけど、この「私」自分と相手を隔てる「私」という幻想が、わたしたちの神であることを見えなくさせている。

物質は波動の粗い性質であり、粒子の特徴を表している。思考は細かい波動であり、その波動が限りなく微細になったところに神様がいる。だとしたら、それは私たちが見ることも感じることもできないのではないか。

デカルトが「我思う、故に我あり」といったが、我思うところから、道を踏み外してしまったのだ。

わたしは、一なる神の多様な顕れのひとつに過ぎないのだ。それを思考する自分自身がさえぎってしまい、私とあなたを隔ててしまうのだ。神は多様性、といいながら、その存在としてはひとつである。

わたしたちを神から、その「存在」から隔てるものはなにもないとオショーはいう。にも関わらず、私たちは、この時空間の世界に、分離して投げ出されている。これはどうしてなのか?

そう考えることは、また、「私」「われ」という意識を強化してしまうことでしかない。

神の多様性の顕れである私たちひとり一人は、この世界で生きていくことに感謝し、いつも多様なこの世界で、誰とも違う自分を生きていけば良いのである。そして、その旅の終点がまた、一なる世界ということだ。

いや、旅そのものが、私という旅そのものが幻想なのだ。

わたしたちは、この幻想の世界で楽しむ術を心得なければならない。

なぜなら、私たちはそれぞれが神なのであるから、それぞれが楽しまずして、一なる神は決して悦ばない。いや至福の状態でいることが神とともにいるということならば、私たちはまさに神のみこころを生きることが宿命づけられているのだろう。そこに至るまでの苦悩の旅路は、マインドという幻想の作り出す悪夢にも近いゲームでもあるのかも知れない。

悪夢は強ければ強いほど、そのゲームから目醒めたときの感激も強烈となるのではないか。

私たちは、このマインドという思考をスパイスとして上手く使いこなして、人生を楽しむはずが、いつしかマインドそのものを自分だと思い込んでしまい、それに振り回されて生きるようになってしまった。マインドに振り回されて出来上がった社会はまさしく、悪夢以外の何者でもなくなってしまったのだろう。そう考えると、本来、私たちは社会を必要とはしていない自由な存在であったのかもしれない。

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