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2013年5月 3日 (金)

独り在ること(4)

みんなの中に神さまが居るのだ、といいながら、それを実際には隠れて見ることができない。

なぜなら、日頃の私たちの思考が、マインドのことだけど、この「私」自分と相手を隔てる「私」という幻想が、わたしたちの神であることを見えなくさせている。

物質は波動の粗い性質であり、粒子の特徴を表している。思考は細かい波動であり、その波動が限りなく微細になったところに神様がいる。だとしたら、それは私たちが見ることも感じることもできないのではないか。

デカルトが「我思う、故に我あり」といったが、我思うところから、道を踏み外してしまったのだ。

わたしは、一なる神の多様な顕れのひとつに過ぎないのだ。それを思考する自分自身がさえぎってしまい、私とあなたを隔ててしまうのだ。神は多様性、といいながら、その存在としてはひとつである。

わたしたちを神から、その「存在」から隔てるものはなにもないとオショーはいう。にも関わらず、私たちは、この時空間の世界に、分離して投げ出されている。これはどうしてなのか?

そう考えることは、また、「私」「われ」という意識を強化してしまうことでしかない。

神の多様性の顕れである私たちひとり一人は、この世界で生きていくことに感謝し、いつも多様なこの世界で、誰とも違う自分を生きていけば良いのである。そして、その旅の終点がまた、一なる世界ということだ。

いや、旅そのものが、私という旅そのものが幻想なのだ。

わたしたちは、この幻想の世界で楽しむ術を心得なければならない。

なぜなら、私たちはそれぞれが神なのであるから、それぞれが楽しまずして、一なる神は決して悦ばない。いや至福の状態でいることが神とともにいるということならば、私たちはまさに神のみこころを生きることが宿命づけられているのだろう。そこに至るまでの苦悩の旅路は、マインドという幻想の作り出す悪夢にも近いゲームでもあるのかも知れない。

悪夢は強ければ強いほど、そのゲームから目醒めたときの感激も強烈となるのではないか。

私たちは、このマインドという思考をスパイスとして上手く使いこなして、人生を楽しむはずが、いつしかマインドそのものを自分だと思い込んでしまい、それに振り回されて生きるようになってしまった。マインドに振り回されて出来上がった社会はまさしく、悪夢以外の何者でもなくなってしまったのだろう。そう考えると、本来、私たちは社会を必要とはしていない自由な存在であったのかもしれない。

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コメント

初めまして!静岡市でヒーリングサロンをしています。
私の感覚とリンクする部分ってありますね。。。
やはりしっかりとしたグラウンディングで地に足を立てて生きるスピリチュアルが必要不可欠と感じました。
どうぞよろしくお願いします。

投稿: 松風里沙 | 2013年5月10日 (金) 07時09分

松風さま
共感していただいて、ありがとうございます。
続きがありますので、またお立ち寄りください。
今後、不定期更新になりますが、よろしくお願いします。

投稿: 翼猫 | 2013年5月12日 (日) 15時01分

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