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2013年4月

2013年4月26日 (金)

独り在ること(3)

オショーいわく

ひとたび、あなたが自分の全面的な「独り在ること」を認識したら、そこにもはや思考はない。マインドとはあなたの過去であり、他者だ。普通、あなたが独りでいる時、あなたの思考は話し続ける。それは他者になる。そこにはあなたの思考と、あなた自身との対話がある。だがあなたが全面的に独りでいる時、あなたは独りきりだ。今やそこに思考はなく、神もいない。あなたは神聖だ。‥あなたが、自分の全面的な「独り在ること」を認識したら、その瞬間、あなたはそれが二できなく、かつて二であった試しなどなかったということを知るに至るだろう。‥‥‥

あなたが神とひとつになるなどと、私には言えない。なぜなら、あなたはいつも、神と一緒だったからだ。あなたが神と離れたことなどなかったからだ。分離はあなたの幻想だ。それにその幻想ゆえに、あなたはまた別の一元性の幻想を作り出す。分離そのものが幻想だ。‥‥‥

あなたは一だ。一元性ではない。そこには誰もいない。あなたでないものは去っていった。他者は落ちてしまった。そして他者が落ちてしまったその瞬間、思考は消える。思考とは他者だ。だから思考がなくなれば他者もまたいなくなる。

オショーのいう「独り在ること」は、それを生きてみないとわかることができない。ただ、独り社会のなかにあって、自分が他人と違う存在であることを、接する人たちひとりひとりから学んでいくことで、次第に独りの自分が確立していく。そうして、わたしという存在は、世界に一人しかいないのだという理解に至る。その理解が、意識の深みに連れ込んで、一なる自分のなかの神を発見することになる。その神は、他人の中にも見て取ることができる。そして、およそ生きとし生けるものの中にも神をみつけられ、、鉱物の中にまで、それが神の多様な顕れであることを知るに至るのだろう。

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2013年4月19日 (金)

独り在ること(2)

独り在ることとは何なのだろう?

それを生きていない僕は、何を言うこともできないのだが、例えば、幼くして、家族を亡くしてしまった孤児たちはどうやってこの先、生きていくのだろうと、自分のこととしてみたら、胸が張り裂けそうになる。

オショーいわく

あなたはすでに神とひとつであるからだ。あなたの全面的な「独り在ること」が、あなたが神であるということの理解であり、あなたが神とは別々ではないと言う理解そのものなのだ。

そうだ、神とひとつであることが実感できれば、私たちは、決して寂しくない。誰かがいつもそばにいなくても強く、たくましく、生きてゆくことができるのに‥

けれども、社会は僕たちに、奴隷であることを強いた。その中で生きていくことが宿命だと。奴隷というのは、両親ひとつとっても、血のつながりで縛られている。血のつながりということであれば、日本に住んでいるわたしたちは、皆遠い親戚であり、みなつながっているのだ。

思えば、家族は何も血のつながりがなくてもいいのだし、自分の父や母と呼べる人を他に選択してもいいし、その人たちから学べ、そして尊敬できるのなら、彼らを先生と進んで呼んでも構わない。父親とか母親とか、現代では保護者の義務すら放棄してしまう人たちが増えてきている。彼らは、子供を生む資格などない、と言ってしまえばそれまでだが、別の見方をすれば、自分を成人になるまで養育してくれるのであれば、里親を望んでいる人たちの中から、もっと簡単な仕組みで選ぶ事ができる社会になってほしい。それが可能になった時、震災孤児や、施設にあずけられて肩身の狭い思いをして住んでいる孤児の数も少しは減らせるのではないだろうか? 養育放棄の両親や、虐待によって虐げられている子供を少しでも減らす事ができるのに。

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2013年4月12日 (金)

独りあること(1)

オショーいわく

自分自身の全面的な孤独を受け入れる瞬間、あなたはヨーギーになり、社会を越える。これこそが、社会を放棄することの唯一の意味だ。あなたが実際に、社会を離れるという意味ではない。

独りあることの定義は難しい。続けて、オショーいわく

だが、本当はあなたが独りなのだと知る瞬間、一人で道を歩き、道を創造し、生きることにすべてを委ね、瞬間ごとに関わり合うことで、あなたは独りだという認識があなたを貫き通したとき、社会は突如消滅する。‥‥‥

すべての人々、夫、妻そして子供も独りだ。だが彼らに慈悲はなく、同情心もない。彼らは、愛にあふれた態度もなく生きる。なぜなら彼らは他者を、自分が独り在ることからの逃避の手段として利用しているからだ。‥‥‥

僕たちは、ひとりきりに、ひとりぼっちにされるのが恐い。いつも誰かに見守られ、気に掛けてもらっていないと安心できない。それは、僕が誰かの愛情を求めているからなのだろうか?そしてそれは、愛情を示してくれる人に対する執着心に、いつしか変わってしまった。その人なしでは僕は生きられない‥‥ と

オショーいわく

私たちは、皆独りだ。これに気づく瞬間、その時、逃避はない。なぜならその時、どんな逃避も不可能だと知るからだ。逃避とは、ただの願望だ。逃げ道などどこにもない。妻は夫と一緒にいてもいなくても同じだ。逃避とは、ただ孤独なのだ。だが私たちは幻の逃げ道を、一緒だという幻想を作り出す。私たちの家族、国家、クラブ、グループ、会社、この社会全体が、私たちが「独り在る」ということからの逃避なのだ。

一人ぼっちでいるのが寂しいとか、つらいとか、そうした心境は、私たちが既に、社会的な存在であることを物語るものである。私たちは、隣人、家族、グループ、会社、社会と言う組織の一員でなければ、生きていけない。そのような幻想を教育したのは、社会であり、国家であった。いつのまにか、私たちは、本来「独り在る」存在だったのが、隣に誰かがいて精神的に、肉体的に支えてくれないと、生きられなくなってしまった、哀れな奴隷なのかもしれない。

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2013年4月 5日 (金)

本当にひとりのとき

あるブログで、孤独について考えさせられることが書いてあった。

 心で思っていることが、その人の人生を支配するんだ。

人の中で感じる孤独や恐怖から開放される場所はどこだろうか?

誰かが側にいてくれたらと、そんな風に思うこともある。

けれども、本当は、ひとりになることなのかもしれない。

本当にひとりのときは、ひとりだということも忘れている。

  「もうすぐ自殺する人のブログ」より

なんとも、悟ったようなことが書かれてあった。

心で思っていることが、その人の人生を支配するんだ。

まったくその通りだ。しかし、そんなことを悟ってもいない私がどうして言えよう?

人生、思うようにならないと、いつも思っているではないのか?

思うようになっていないと嘆くひとは、自分がどういう思考パターンで生きているのか

冷静に観ることが必要だが、それがなかなかできないでいる。

人の中で感じる孤独や恐怖から開放される場所はどこだろうか?

その通りだ。私たちは、とどのつまり、ひとりになることを恐れて、いつも社会を作りたがる、群れに参加したがる。それは、自分ひとりきりになるのが恐いのだ。

かけがえのない家族のために生きたいと願う人も、その家族という支えがなかったらどうなるのだろう?

仲間はずれが恐いとか、世の多数意見に従いたいとかいう人たちの群れが社会をつくり、ルールを決める。それはあなたがひとりになるのが恐いので、従わざるを得ない。

自分がただしいかどうかは、群れのルールが決める。

誰かが側にいてくれたらと、そんな風に思うこともある。

いつも私の周りには誰かがいる。いてくれるという安心感が、ひとりの自分自身と向き合うことを後回しにする。孤独という自分に向き合うことがなければ、私は単に社会にあって、社会の中で群れて、社会情勢にいちいち反応するロボットだ。

あなたもわたしもロボットだ。ロボットは決して孤独を感じで寂しがることも、不安がることもない。

けれども、本当は、ひとりになることなのかもしれない。

ひとりになって、ひとりきりになることのの恐怖に打ち勝った時、そこに見えてくるものは何なのだろう?

本当にひとりのときは、ひとりだということも忘れている。

本当にひとりのときは、ひとりだという感覚がない、

つまりそれは?

彼が、まだ生きていることを願うばかりである。

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