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2013年4月12日 (金)

独りあること(1)

オショーいわく

自分自身の全面的な孤独を受け入れる瞬間、あなたはヨーギーになり、社会を越える。これこそが、社会を放棄することの唯一の意味だ。あなたが実際に、社会を離れるという意味ではない。

独りあることの定義は難しい。続けて、オショーいわく

だが、本当はあなたが独りなのだと知る瞬間、一人で道を歩き、道を創造し、生きることにすべてを委ね、瞬間ごとに関わり合うことで、あなたは独りだという認識があなたを貫き通したとき、社会は突如消滅する。‥‥‥

すべての人々、夫、妻そして子供も独りだ。だが彼らに慈悲はなく、同情心もない。彼らは、愛にあふれた態度もなく生きる。なぜなら彼らは他者を、自分が独り在ることからの逃避の手段として利用しているからだ。‥‥‥

僕たちは、ひとりきりに、ひとりぼっちにされるのが恐い。いつも誰かに見守られ、気に掛けてもらっていないと安心できない。それは、僕が誰かの愛情を求めているからなのだろうか?そしてそれは、愛情を示してくれる人に対する執着心に、いつしか変わってしまった。その人なしでは僕は生きられない‥‥ と

オショーいわく

私たちは、皆独りだ。これに気づく瞬間、その時、逃避はない。なぜならその時、どんな逃避も不可能だと知るからだ。逃避とは、ただの願望だ。逃げ道などどこにもない。妻は夫と一緒にいてもいなくても同じだ。逃避とは、ただ孤独なのだ。だが私たちは幻の逃げ道を、一緒だという幻想を作り出す。私たちの家族、国家、クラブ、グループ、会社、この社会全体が、私たちが「独り在る」ということからの逃避なのだ。

一人ぼっちでいるのが寂しいとか、つらいとか、そうした心境は、私たちが既に、社会的な存在であることを物語るものである。私たちは、隣人、家族、グループ、会社、社会と言う組織の一員でなければ、生きていけない。そのような幻想を教育したのは、社会であり、国家であった。いつのまにか、私たちは、本来「独り在る」存在だったのが、隣に誰かがいて精神的に、肉体的に支えてくれないと、生きられなくなってしまった、哀れな奴隷なのかもしれない。

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