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2013年3月 2日 (土)

荘子(4)

前節で、荘子の云う「聖人」とは、自然のはたらきと一体となって無限の生命活動を行なっている人としたがそこには命あるもの全てが平等であるということが説かれてもいる。

およそ生きとし生けるものに差別などあり得ない。小さな命も大きな命も等しく平等である。

これに対して、儒教思想は、天下をとって支配する者とされるもの、さらには今の階級社会にみられるように社長(会長)を頂点としたピラミッド型階層社会がスタンダードになっている。文明の開花とともに人類社会は儒教思想のように差別社会が基本である。

西洋に目を向ければ宗教戦争と言われるように、ユダヤ教の迫害、イスラム教とヒンズー教など、宗教の違いが差別を生んでいる。私たちは、お互いにわかり得ない境界線をもって他人と自分、国と地域、民族意識によって人類を区別しているが、そのことが既に不平等の温床ともなっている。

社会にあっては、荘子は現実的ではないが、その時々の社会が生きるに値するかどうか考えた時、また、その時々の社会に、例えば戦国時代に生まれたならば、なぜその時代に自分が生まれたのかを考えた時、荘子の思想はその答えのヒントを与えてくれる。

つまり、今自分の生きている意味というものを太陽系時間を離れて教えてくれるかもしれないのだ。

人間は他の動物と違って生きる意味を考える動物である。そうであるなら、その答えが出るまで、人はこの世界で旅を続ける。

意味など何も考えることもなく楽しければ良いというのもありだ。しかし、人はいつもしあわせでい続けることはできないし、むしろ不幸な状態の方が多いような気がする。そうしたとき、人はどうしても考えてしまう。「なぜ私は生きているのだろう?」と。

孔子の視点は、世の中の処世術を教える。

釈迦の視点は、人生が苦しいものだと説き、生も死も乗り越えた解脱の道を説く。

荘子の視点は、人生から解脱せずに、どんなに苦しくても、苦しいなりにそれと向き合い、それと仲良く暮らしていく視点をもたらす。

違うだろうか?

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