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2013年3月 9日 (土)

荘子(5)

自我の放棄

孔子は徳を以って人を治めよという。

私たちは、常に他人に対してどう見られているのか? 気にしているが、それは相手から自分が認めてもらいたいからであり、そのためにはどうしたらいいのかを考える。しかし、自分にできないような徳のある人間にいくらなろうとしても、結局は自分を損ねるだけである。道徳は人間の本性にそむいた理想である。

ひとは、神からそれぞれの天性を与えられている。それが善性というものだ。しかし、他人に認めてもらうためのさまざまな行為がそれを曇らせてしまう。

期待される人間になろうとするのが悪いというのではない。ひとは、それぞれに期待される分野が違っているだけだ。さまざまなひずみとは、身近な相手に期待されるおきまりのやり方で望みを叶えようとするところに無理があり、その結果、本当に自分のやりたかったこと、したいと思うことが何なのか、わからなくなってくる。

子供の頃に親の言うことを良く聞く良い子が、大人になってさえない人になるのは知れたところである。

ひとは誰かに愛されたいがためにその期待に応えようとする。しかし、相手が自分の欲望の対象としてしかみていないのなら、結局そのことが人を傷つける刃となってしまう。

荘子は、欲望や野心や優越感など一切の自我を放棄せよと言っている。

そうした自我があることが、愛を不毛なものとし、ありのままの人の純粋性を曇らせてしまうのだ。誰かに振り回されている人は、結局愛されたいからであり、その相手の自分勝手な期待に応えようとして、不毛な愛が憎しみや恨みに変わってしまうのである。

道徳を説いて、人を指導するのではなく、天真爛漫に生まれてきた子供の純粋性を生かすのは、ありのままの自分を受け入れる包容力である。それは自我を放棄した人が与えられるという、釈迦の説く「慈悲」ではないのだろうか?

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