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2013年2月23日 (土)

荘子(3)

こんな文章があった。

昔から三聖酢をなむという絵がある。孔子と釈迦と老子の三人が、酢を入れたかめに指を入れてこれをなめている絵である。孔子は酢をなめてすっぱい顔をし、釈迦はにが虫をかみつぶしたような顔をし、老子は甘いといって大きな口をあいて笑っている絵である。これは儒教・仏教と道教思想の特徴を端的に表わしたもので、人生を酢にたとえているものであろう。

孔子は酢をすっぱいとするように、人生をまともに受け止めて、この世の秩序を正す道徳政治を教えた。

釈迦はこの世を苦の娑婆と考えて、解脱することを教え、老子荘子は人生を甘いと考えて笑うことを教えたという意味を寓するものである。

(太字引用:「荘子」阿部吉雄、中国古典新書:明徳出版)

ここで、荘子については人生を特に甘いとは考えず、「互いにねらいねらわれる救いがたい存在である」とか「乾上った湖の魚が互いにあぶくを吹きあいながら

生きているような息のつまる存在」とその寓話で説明した。しかし、荘子はこうした人生も心の持ち方でどうにでもなるものとしてとらえたという。ここに荘子の哲学の出発点があるのだという。

社会があるというこの現実世界をみていれば、孔子の徳を説く礼節政治を権力者が理解し、国や自治体を統治すればよいのだろう。しかし、現代はその礼節も、最小限の徳も失われつつあるのではないだろうか?

人間、かくあるべしという道徳律は、その本性からして矛盾するものである。矛盾することが、社会にひずみを与え続け、結果として住みにくい社会となる。私利私欲に走るということが、幼い人間の本性であると捉えられている。

人生は生病老死という苦しみから決して逃れることはできない。そのことが人生を虚しくさせるのである。が、だからこそ、束の間のしあわせはそれだけ輝いて見える。それこそが人生というものなんだろう。釈迦は生を生成流転のはかないものととらえ、死の視点から生をみていたようなきらいがある。というより、生死を連続した輪廻の流転の流れとして把握し、そこからみた束の間の生について私たちには考えさせるものがある。しかし、解脱するまでの間、或いは自分自身の真我に覚醒するまでは、その苦しみは絶えず続いてゆくのである。

荘子は、私たちの想像をはるかに越えている。その真我の抱きもつ夢の宇宙でさえも手玉に取っているのである。

宇宙を小脇に一切を肯定の文

「聖人というのは太陽や月とならび、宇宙をこわきにはさんで、それと唇を合わせたように一体となっているものだ。世の人々が道理に暗く、互いに他人を隷属視し尊大ぶるようなことはすべて差し置いて問題とはしない。世の常人は名利にあくせくとしておるが、聖人は無心であるので愚者のように見える。万世古今、永遠の時間の中にまじってそれと一つになり、もっぱら本来の純粋性を全うする。宇宙万物をことごとく肯定し、一切の対立や矛盾をそのまま大きく肯定する境地で万物をつつんでいるものだ。」

荘子の云う「聖人」とは、自然のはたらきと一体となって無限の生命活動を行なっているのだと理解することができる。

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