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2013年1月

2013年1月23日 (水)

自殺問題に対する一考察

21日のニュースから

「大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将の男子生徒(当時17歳)が自殺した問題を巡り、橋下徹市長が同校の体育系2科の入試中止を市教委に要請したことに波紋が広がっている。同校の保護者や市議会からは「受験生への影響が大きい」と批判が噴出するが、橋下市長は予算権を盾に一歩も譲らない。」

22日のニュースでは体育科ではなく、普通科として試験を実施するとした。

しかし、これは内容が体育科の試験項目も入っており、教育委員会と市長のどちらの立場も尊重? したものだった。

また、市長への批判的な内容には以下のように述べられていた。

 「亡くなった生徒が入試中止を望むのか」。18日の市議会では、市長に批判的な意見が相次いだ。公明市議は「出願が迫っている。調査結果も出ておらず時間を置くべきだ」と訴えた。だが、橋下市長は「態勢が整っていないところに生徒を迎える方が無責任」と反発。公明、自民、民主系の3会派は入試実施を求める要望書を出した。
 大阪市教育委員会が橋下徹市長の要求通り、市立桜宮高校の体育系2科の入試中止を決定した21日夜、同校3年の男子生徒2人と女子生徒6人が記者会見に臨んだ。「私たちは納得いかない」「学校を守りたい」。8人は「まだ結論を覆せるかも」と、橋下市長と市教委に対し、決意の反論を展開した。
 市役所5階の記者クラブで午後7時半から1時間余にわたった会見。8人はいずれも運動部の元キャプテン。制服のブレザー姿で横一列に並んだ。
 「体育科に魅力を感じて受験したいと思う生徒がほとんど。普通科に回されるのは、私たちは納得がいかない」。女子生徒が口火を切った。橋下市長が同日朝、全校生徒を前に説明したが、「具体的な理由がなく、私たちの声も十分に聞いてくれなかった。思いは1時間で話せるわけがない。『生徒、受験生のことを考えて』と何度も繰り返したが、在校生と受験生のことを考えたらもっと違う結果があったんじゃないか」と訴えた。
 橋下市長が体罰の背景に「生徒たちも容認していた」「勝利至上主義」などと発言していたのに対し、女子生徒は「容認していないし、勝つことだけが目標ではなく、礼儀など人として一番大切なことを教えてもらっている」と反論。自殺問題について「心の傷は深く、重く受け止めている。傷を癒せるのは先生」として教諭の総入れ替えにも反対し、「多くの生徒が学校を守りたいと思っている」と強調した。 男子生徒は「今回の結果が覆せるんじゃないかと、強い思いを持ってきた」と会見の動機を語った。別の女子生徒も「今まで続いている伝統は今でも正しいと思っている」と力説した。 

 市には18日までに700件を超す意見が寄せられた。大半は実施を求め、「子どもの人生をどうしてくれるんだ」と泣きながら訴える中学生の保護者もいたという。桜宮高校の保護者や弁護士ら約20人も18日、実施を求める要望書を市教委に提出。次男が同校に通う男性(43)は「大半の保護者は体罰を知らなかった。生徒や保護者を加害者扱いするのは乱暴だ」と話した。

以上がニュースの内容であるが、批判的な内容となったのは、質問対象が桜宮高校の関係者や生徒だということである。

彼らは自分たちの学校がどういうことになっているのか知らない。体罰をしたのはあくまで一教師のことであって、自分たちにまで被害が及ぶのは許せないのだろう。

しかし、「生徒や、受験生のことを考えろ」という立場は、無くなった被害者や家族からすればどんなだろう。被害者にしてみれば、誰も助けてくれない状況こそ、なんとかして欲しかったはずなのに。

子供の夢や希望というが、それは同級生の誰かの不幸を代償にしてまで自分の事が大事という本音が見え隠れする。

東日本の大災害にしても、被災した当事者はいまだに苦しんでいるのに、テレビや報道ではそれをたまに放映して、視聴者の涙を誘っている。しかし、それ以上ではない。

私たちの多くは、見舞金を出したからそれでいいだろうとか、ボランティアに一回行ったとか、(そういうひとは確かに尊敬に値するのだけれど)それだけのことで決して彼らは救われていない。今も苦しい現実と向き合っているのだ。国の役人が復興費の半分以上を他の経費に回して申請するなど、被災者の痛みなど考えたことなどあるのだろうか?

結局、自殺した生徒のことも、同じ学校に通っていながら、他人事なのだろうか?

だとしたら、それはとても悲しい。学校に体罰教師がいたという事実と、勝利至上主義のもとそれを大したことではないという風潮がはびこった現場やそれに対して事務的に処理した教育委員会のひとり一人が変わらなければ、この問題は永久に解決しない。

橋本市長の取った態度は当たり前なのにも関わらず、学校関係者から非難を浴びせられる筋合いはない。しかし、彼らにしたら自分たちこそ被害者なのだと思っているのだろう。それでも、そういう教育現場にいる限り、次はあなたの子供が体罰を受けるかも知れませんよ、といわれたらどうなのだろうか?

この事例は雪印事件や、不二家食品賞味期限偽装事件、最近では焼き肉えびすの食中毒事件と危険レベルではなんら変わるところがない。特に焼き肉エビスでは①死亡事故を起こしたこと、②個人のミスかもしれないが結局は全体が責任を取って廃業に追い込まれたこと。③従業員(教師)の教育がおろそかだったこと。などが挙げられている。不二家食品の洋菓子に賞味期限の切れた牛乳を使った事件に関しては、洋菓子製造の停止にまで至っているが、それでも死亡者が出たわけではない。食に関しては厳しいのに、なぜ教育現場では甘いのだろうか? 食の事件を引き合いに出せば最悪の場合、組織の問題が改善されるまで学校閉鎖でも仕方がないはずなのに、入試学科で体育科をやめようという程度のもので終わっている。本来ならこのような体罰教師の存在する学校は、市長の言うとおり、原因の解明と、見て見ぬふり体質の改善が整うまで新たに生徒を受け入れるべきではないと思っている。自殺の問題と食中毒事件とは別だ、と反論されそうだが、何の落ち度もない人間が死亡したという事実は、命の尊厳においてどちらも等しく重たいものではないのでしょうか?

学校、教育委員会といえども身内である。いくら否定していても現実に体罰を容認していた現実は変わらない。知らなかったでは済まされない。同じ集団に居ながら、知らなかったからといって責任がないと言い切るのはあまりにも虫が良すぎる。問題教師の監督ふゆきとどきで、校長はじめ、教師全員が入れ変わっても、それは仕方の無いことである。それなのになぜ生徒は教師をかばうのか? それは学校全体が身内であるということだ。しかも、自分の都合の良い居場所としての。だからこそ、都合の悪い情報など見たくもないし聞きたくもない。もし、体罰の現場を目撃しても、「あの先生なら熱血漢だし、愛情の一表現なのだ」と自分自身に言い訳して納得してしまう。そのこと自体が身内特有の隠ぺい体質である。身内といえども、都合の悪い身内、自分の生活に支障をきたす身内は無視するか排除しようとする。それは、強欲に憑かれた利己主義の何ものでもない。一人の生徒の命の尊厳より多数の生徒の将来のほうが大事だと言うのか?  そもそも生徒の将来というけれども、体罰教師をいけないこととして止める事もできない教師たちの所属する学校でまともな学級運営などできるのだろうか? 学校教育のゆがみが、生徒たちを質の低い方向に導いてしまっている結果が市長批判となって現れているのだ。生徒の将来と言うなら、まず学校の体質改善を即刻変える事こそが将来のためになるのに、だ。

さらに国会議員がそれに輪をかけて市長を批判する。公明、自民、民主のあなたたちは弱者の痛みもわからずに、自分たちを応援する選挙民たる生徒の保護者たちにただ迎合するだけで、人間の尊厳というものを持ち合わせていないのですか? と言いたくなる。

一体この国はどうなっているのだろう?

今の日本人の多くは、西洋の個人主義の負の側面である利己主義をそのまま導入し、人々の心の中から優しさが失われつつある。一昨年、大震災があったばかりなのにも関わらず、多くの人々はますます利己的になりつつある。

それは、自分たちが何の被害も被っていないからだということに他ならない。

しかし、それでも敢えて、被害者や被災者の立場に置かれた時、あなたはどうしますか? そういう状況を考えたことはありませんか? と問いたい。

きれいごとなど言えるような自分ではないと思う。しかし、私たちはこの豊かな国において、いつかアメリカと同様、銃を持って街を歩き、自分の身は自分で守らねばならなくなる日の来る事を恐れています。その日が来ないようにするためにも、私たちひとりひとりの心の中の扉をもっと開けて、身近な人のことを自分の事のように考える想像力を働かせて、苦しんでいる周りの人たちをもっと気遣っていかなければならないと思う。

もっと身近な人の痛み、苦しみを分かち合いたい。

もっと優しくなろうよー。

誰のために?

それこそ、めぐりめぐって、それは自分自身のためであるのだから‥。

他人に優しい人こそ、自分自身にも優しくあるひとなのだ。人は、他人に無関心、冷たくするほど、人間としては成長できないでいる。

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2013年1月 9日 (水)

生きることの問い

人生の中で何に一番こだわっているのかと問えば、それは生きることだろう。

生きるのが嫌になって自殺する人もいるが、それも自分の生をもっと充実させたかったか、ちゃんとした目標や夢があってそれが叶えられそうもない絶望から自殺する人たちが多いのが実際である。それも生きることに対する執着心に他ならない。

不思議な事に、この生きる事に対するこだわりが強いほど、生を充実させられないという矛盾がはっきりしてきた。

身近な親しい人たちに対する、ずっとこのまま一緒にあって欲しいという願いも、生きることに対する執着なのだ。身近な人の安否を心配するあまり、自分自身の生活自体がおぼつかなくなり、集中力もなくなり、目の前の仕事や家事がおろそかになったりする。

本当に、生を充実して生きたければ、この生きることへのこだわりを捨ててかからないといけないことにようやく気付くのである。

自分の葬式や、死んだ後の御墓や住居の処理のことなどを考えること、いわゆる終活をする人が増えてきているという。終活をしている人たちの多くは、生き生きとして生活しているという。それは自分の人生の終わりをどうするかを自分で予想し、自分で解決しようという気持ちが、自分の人生に対する前向きな姿勢を培うからであるのだという。それは、自分の生に向き合い、限りある時間を意識するところから、本当の自分自身の生き方を考えるようになるきっかけともなるのだろう。

明日も、今日という日が続くのが当たり前だと思っているうちは、決して自分らしい生き方を見つけられない。毎日が、刻一刻と移り変わっていくのだという現実の理解と、そこから来る意識の緊張感が、人を前向きな生き方に向かわせるのかもしれない。

それを阻むものは、やはり執着心なのだ。

明日も、この幸せが続いて欲しいとか、いつまでも誰かと一緒にいられますようにとかいう願いはあっていい。けれども、それはいつまでも続くものではないという認識が心のどこかになければ、人は決して至福な生をまっとうできないのではないか。なぜなら生は時間とともに移り変わっていくものだから。そうした現実に目を向けさせないのが、夢やあこがれ、そして理想なのだ。しあわせに対する執着心こそが、生における最大のこだわりであるなら、それは同時に死ぬことへの不安や恐れとなって現れる。そして人は決して真に生をまっとうできないでいる。

生へのこだわりを捨てる事ができたとき、人はそこで初めて生死という輪廻の歯車から自由になり、生死を超えた、永遠の泉を手にすることができるのではないだろうか?

いや、手にするというと、そこにまだ「自分に対するこだわり」がまだあるから、永遠の泉に飛び込む事が可能になるといった方が良いのかも知れない。

人の最大の執着とは、この「自分自身」のことなのだろう。

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