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2012年12月

2012年12月29日 (土)

私が変わる?②

最近パラレルワールドとか、アセンションについてのブログの記事が目立つようになってきた。そもそも、この言葉は今に始まったことではなく、平行宇宙に関する書物は、私の記憶する限りではSF小説の中で30年も前にあった。 

宇宙論を科学的に研究した結果、やはり平行宇宙というのはあり得るという、その可能性が示唆されている。

ここで、気になっていることがある。

「僕が、あの人生の転機に戻る事ができたなら、そこでやり直してまた今の自分とは違った暮らしをしていることだろう」

これは、それぞれの自分がそれぞれ同時に存在する平行宇宙のなかで、まったく違った人生を送っているという誤解である。

確かに、それらは自分ではある。しかし、僕はその平行宇宙の別の自分の記憶の中には入れないし、その世界にまれに侵入することができたとしても、それは自分と同じ顔かたちをした他人でしかないのだ。

何をいわんとしているのか、

つまり「僕」は今の意識状態があるから自分なのであり、それはこの世界にただ一人存在するオリジナルなのだ。それは他の平行宇宙の自分に対してもそうなのだ。ということは、「僕」が、この世界にいることは、今の意識状態の自分自身の反映している世界なのであるから、決して他の宇宙の自分自身にはなれないということだ。もし、あの時、‥ していたら! があれば、その行為がなされていたなら、それは今の自分とは別人である。

アセンションにしてもそうである。もし仮に今の地球の意識レベルの波動が上昇していくのであるならば、その世界にその未来に移行できるのは、それに相応しい意識レベルの波動だけである。

私たちは、今の戦争が絶えない世界で、政治も腐敗や汚職だらけで、この先どんどん貧富の格差が広まっていこうとも、それは自分たちひとりひとりがこの世界を選んだ結果であることだろう。もし本当に、誰もが回りの人たちをしあわせにしたいと、本気で願えるような世界を作っていきたいのなら、今すぐにでも、そのようなパラレルワールドの住人になっていることだろう。

私たちは、この共有する世界で、共に困難と立ち向かっていかなければならない運命共同体である。であればこそ、自分だけが意識を高めて別の住みよい世界に移行するのだ、と思えば思うほど、この世界に縛られてしまう事になる。

ともに、より良い世界を形作るために、闘っていくこと、ともにこの世界の住人がしあわせになれるよう頑張ること、そう考えるのが本筋で、その結果は後からついてくる。

何の努力も行動もなしに、人は決して変わる事はできない。自分勝手、無努力、その罠にはまり続ける私たちは、いつまでたっても戦争と、つかの間の平和を繰り返し、人権無視の蔓延する世界に住み続けさせられてしまうのだ。といいつつ、それは一人一人の選択の結果だ。思うようにならない世界なのではなく、そのような世界にあらしめる自分自身の責任なのだ。一方でわざわざそこを修行の場とする人たちもいることはいるだろう。

このように、人はなかなか変わる事ができない。私は変われる、そう思った瞬間から、決して変わってはいない自分自身の悪夢から逃れられない。

そうはいっても人は変わることができる。それは真にピュアな魂がきらめき始めたときだ。人が変わるというのは、実は大変なことなので、その多くはとてつもない苦痛を伴う。それが嫌だから、私たちは、いつまでたっても変わろうとはしないのかもしれない。

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2012年12月 8日 (土)

今の私にできること

衆議院議員の選挙戦に突入してきた。

政治家に対する批評はブログでも限りなくあるが、誰に投票しようか、政党はどこにしようか?と考えている人たちは、まだ、政治家に対する期待があり、明日への希望がある。だからといって、政治家に国を何とかして欲しいと誰もが願っている。本当にそうなのだろうか?

有権者のおそらく半分近くは醒めた目でみていることだろう。この人たちは将来の日本にとって貴重な存在だ。しかし、残念なことに、彼ら彼女らの、未来に向けて、今の政治家の他に変わる国の代表者たちを選べるシステムなどない。


政治家を選ぶということは、それぞれの地域の利益の配分を、成るべく自分たちの都合のよいように回してもらうためでもある。しかし、毎年どんどん増え続ける赤字国債発行という現実を目の当たりにして、借金づけの中から、色々な政策がたち行われているのは本来のあるべき姿ではない。

毎年借金しなければ、その国が立ち行かないのなら、そもそも政治家は存在する意味がない。

必要かどうかもわからない仕事を無理やり作って雇用を確保しても、それは政治力のないことの証明にならないだろうか。

仕事がなければ私たちは限られた労働を仕事のない人たちに分け与えたらどうだろうか。そうすれば、もらえる賃金が少なくなり、とても家族を養っていくことはできないのだ、と言う。そこには、なかなか今の生活水準を落とせない私たち自身の問題も隠れているのだ。

子育て支援と、老人福祉が共に充実させるようにするのが政治家の役目ではないのか。雇用延長によって、若者の就業率が下がっている実態を導き出し、就業バランスを崩しているのは一体誰なのか?

原発反対と叫びながら、既に設置してある原発の管理維持費は、それを使われるかどうかに関わらず発生し続ける。結局、私たちの多数が選んできた自民党政権の今までにしてきたことに対するつけは、時間をかけて、誰かがやらざるを得ないのが現状だ。クリーンエネルギーなんてそう簡単に実用化されるわけでもない。しかし、今の経済活動を維持しなくても良いのなら、生活水準を下げるのか、そうすれば国際競争力ががくんと落ちるだろう。国の存亡の危機にも及びかねない。

政治家は、所詮自分の利害の一致する有権者だけの味方であり、それ以外の人達の生活をおびやかす存在でしかない。資本主義経済自体が貧富の差をますます助長している現実は、この社会がそう長くは続かないであろうことを示唆している。

社会とは、強い者が、弱きもの、貧しき人たちを守っていくシステムでもある。しかし、一方で自分は貧しいのだという振りをして、生活保護をいたずらに受けている人たちが絶えない。

私たちが抱えている矛盾は、政治家だけにあるのではない、中央官僚だけにあるのではない、私たち自身のこころの中にあることを忘れてはならない。そうでなければ、私たちの暮らしているこの社会は、いずれ弱肉強食の国際社会にさらされ、いずれ立ち行かなくなってしまう。

私たちは、自分のために誰かが何かをしてくれるだろうという環境に慣れてしまった。もしそうでないのなら、社会を住みよくするために、「今のわたしに何ができるか?」をもっと考えよう。

もっと日々の暮らしのなかから、自分にもやれることを見つけよう。ほんの小さな事が、社会を変えていくのだ。決して年に一度もないだろう、選挙の投票だけに私たちの暮らしを変えるきっかけがあるのではない。   

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