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2012年6月

2012年6月30日 (土)

ありのままの自分(4)

オショー曰く

自然を拒絶すること、自分のあるがままを拒絶すること、自分のタタータ(にょ性)を拒絶することはエゴを創り出す。あるがままを受け容れればエゴはなくなる。もし受け容れなければ、もし拒絶するならば、もしそれに対立する理想を創り出すならば、そこにエゴが現れる。理想とはエゴを創る材料だ。

自分の中にある、お金に対する執着心が人からだまされる結果を生む。権力など関係ないと言った人が、同僚が上司になったことに羨望のまなざしを向けたりして、毎日苦しい思いをする。今日自慰をしてしまったから、明日からは禁欲しよう、僕はこんなことをする人間ではないんだ、と自分に言い聞かせる。

「あるがまま」とは、その時々の自分の欲求に対して、否定するのではなく、そのまま受け容れるということなのか。自分のその動物的な貪欲さを、たとえそれが自分でいやだと思っていても、それが今の自分であるのだ。そうした自分を否定して、本当は僕はこんな素晴らしい人間なんだ、と理想を掲げる。

オショーは今の自分を否定するとエゴに捉われ、自分のありのままに生きる事はできないという。そのことが、動物として、人としての、自然な成長を妨げてしまうのだ。

知的な人がいて、「あの人がなぜあんなことを?」といったニュースをみかけると、その人は自分の自然な欲求を否定し、せき止めてきた人なのかなと思う。もし、本来の自分はもっとましな人間なのだと思っているのだとしたら、その人の成長は停滞する。だから僕は本当は貪欲で好き嫌いが激しくていやらしい人間だ、と思っているほうがいい。となると、今度は罪悪感に苦しんでしまう。「ああ、僕はなんてダメな人間なんだろう」じゃぁどうすればいいんだろう。

受け容れるという言葉の意味するところは、自分の貪欲さも動物的な側面も、それが自分の心の中にあるものとして認めるということなのだろう。そしてそれを善悪の価値観で評価しない。もし、それをやってしまうと、結果偽りの自分を、理想の自分を本来の自分としてエゴは創り出してしまうのだ。

しかし、では、その時の貪欲のままに生き、快楽や物質的な欲望、権力欲などにとりつかれていればいいとでもいうのだろうか? それが疑問だった。

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2012年6月23日 (土)

ありのままの自分(3)

和尚の云うところの「ありのまま」とはどんなだろう

?

それは人間の心の内面にも存在する「ひとりでに生まれて育つ無為自然の規律」ということになる。

和尚は老子の言葉を借りて秩序は世界の中に本来備わっている―― いつでもそこにある。秩序を創り出そうとすると、無秩序を創り出してしまう。きっと彼はこの私のことを、無秩序を創り出していると思っているだろう。しかし実際には、彼のほうが無秩序を創り出しているのだ。私はあらゆる強制的な秩序に反対する。私の尊重する物は、ひとりでに生まれて育つ無為自然の規律だ。他人がそれを強制する必要は無い。」

政治の世界が乱れている。といっても今に始まったことではない。そもそも一億以上もの国を統治することなどどだい無理なのではないか。なぜなら、色々な考え方、利害関係を持ち、さまざまな立場の人間たちの集団をまとめようとすると、皆が平等に経済活動できるような法律などあり得ない。だれかが得をし、誰かが我慢を強いられるという社会の仕組みはこの先もずっと続いていくのだろう。

いま、求められているのは、個々にとっての本来の豊かさ、物質的なものではなく、一人一人にとっての豊かさの質が議論されなければならないはずだ。誰も国民の豊かさの統治などできるはずがない。そして、そのことがわからない限り、我々国民は、いつまでたっても、国の政策の一つ一つに依存し続け、希望と失望とをくり返すはめになってしまう‥‥。

和尚は続く

「タントラでは物事をこのように見る。タントラにとって無垢は無為自然、サハジャータだ―― つまり、強制されることなく自分自身であること。シンプルに自分自身であること、木のように成長することだ。‥‥ 内側の法則で充分であり、そのほかに法則はいらない。もしほかの法則が必要なら、それはあなたが内側の法則を知らないということであり、その法則との接触を失っているということだ。」

私たちはこの内側の法則との接触を見失っているために、社会は混迷を続けている。

本来のわたしたちは、この内側の法則にしたがう存在であり、それは絶対的な善であり、それこそが「ありのままの自分」の姿であり、そこに人間に、動植物に対する絶対の信頼があるのかもしれない。

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2012年6月16日 (土)

ありのままの自分(2)

著者はいう

‥あなたは自分が自然に存在することを知る。自分のありのままの姿を知る。だから自分自身を信頼することもできるのだ。

‥あなたはすべてが始まる最初からあなた自身である。

そうは言っても、現実の自分はエゴに囚われ、動物としての本能に囚われ、六道に囚われ続けている。だから、精神の道の出発点は、そこにある理想やイデオロギーではない。そこにある期待や指導者、独裁者への依存ではない。現状の自分自身の把握なのだ。そこで問題になる一番のものは、「自己欺瞞」なのだ。

「私はこれだけのことをしたから、他の人より優れている」という自己欺瞞である。

そもそも、生き物に優劣はない、皆ひとしく輝いている、その輝きが鈍くなっているかどうかだけなのだ。人間の意識に一体どれだけの差があるのだというのか?

自分の今していることの現状を、言ってることと実際に行なっていることとのギャップを意識したほうが良い。そのギャップが埋れば埋るほど、人はより豊かになっていく。

こうあろうとする人間にならなくていい。今の自分の「おこなっている」ことの意味を、理解することから始めることが、意識の深化へ向かう道であることがわかる。

‥だから、あるがままの自分とは何か、自分はなぜ探し求めるのか、ということから始めなくてはならない。

ひとは誰しもエゴを抱えて生きている。だからこそ、こうして人間界にも生まれてきている。そのことを恥じるのではなく、エゴの根底にあるもの、それと距離を置いた視点を見いだすことが、私たちをより開かれた瞑想空間へと導いてくれているのだと今は確信している。

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2012年6月 9日 (土)

ありのままの自分(1)

意識の深化は、ありのままの自分を知ることから始まる、といわれる。

そもそも「ありのままの自分」とは何なのだろう?

「シャンバラ 勇者への道」からだけでは、「ありのままの自分」に対する説明が十分になされていないように感じる。

著者は、その著「タントラへの道:めるくまーる社刊」で開かれた道についてこう述べている。

開かれた道へのアプローチは自分をさらけ出す経験の中に含まれている。生に対して自己を開くこと、ありのままであること、自分の肯定的な面と否定的な面のすべてを精神の友の前にさし出し、ともにその道を極めることにある。

ここで、「ありのままの自分」とはその時の欲望を抱えた自我そのものであり、「精神の友」とは、本来の自分、純粋無垢な経験以前の慈悲に満ち溢れた自己とでもいうことができる。

著者は云う

私たちはしがみつくことのできる確かなものを絶えず探し求めている

「精神の友」との一瞬の出会いだとしても、その体験を価値付ける自分は大したものだ、と言い聞かせんばかりになる。自分は絶えず安心と、道に従って突き進んでいるという自負と、その自己証明を他人に求め続ける。

そのことが、人を新興宗教や、既成宗教団体への強い勧誘となって表れる。

「私がこの宗教で救われたから、あなたもぜひ入ってください」

自分の体験に酔っている人は、他の誰かも誘うことでより自分の足場が確かなことを確認したいのだ。そうまでして自己証明を必要とする宗派とは一体何なのだろう?

そこには寛容さがない。勧誘される人の人生の現実を捉えずに、ただ自分の知りうる観念の世界に引きずり込もうとする野心がある。

そこには開放された空間の余地は残されてはいない。

著者はいう。

慈悲は、達成とは無縁なものだ。本当の慈悲をもつ人には、自分が人に対して寛大なのか自分自身に対して寛大なのか確かではない。なぜなら、慈悲とは「自分のために」とか「彼らのために」という方向をもたないひとつのいわば環境としてそこにある寛大さだからだ。それは悦びで満たされている。おのずと存在する悦び、信頼を意味する悦び、そして測り知れない富と豊かさを含む悦びで満たされている。 慈悲とは豊かさの究極の状態だと言うこともできる。

‥‥

つまり、人は根本的に豊かに生まれついているのであって、豊かにならねばならないのではないということだ。

著者の引用から思うことは、「ありのままの自分」には二つの意味合いがあって、ひとつは「良いも悪いも含めた現状の自分」。もうひとつは「慈悲を携えて生まれてきた豊かで悦びに満ちた自分」ということだ。

本来ひとは、この後者の豊かに生まれついた自分、すなわち「個々の生き物の本質そのまま」ということになる。

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