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2012年6月 9日 (土)

ありのままの自分(1)

意識の深化は、ありのままの自分を知ることから始まる、といわれる。

そもそも「ありのままの自分」とは何なのだろう?

「シャンバラ 勇者への道」からだけでは、「ありのままの自分」に対する説明が十分になされていないように感じる。

著者は、その著「タントラへの道:めるくまーる社刊」で開かれた道についてこう述べている。

開かれた道へのアプローチは自分をさらけ出す経験の中に含まれている。生に対して自己を開くこと、ありのままであること、自分の肯定的な面と否定的な面のすべてを精神の友の前にさし出し、ともにその道を極めることにある。

ここで、「ありのままの自分」とはその時の欲望を抱えた自我そのものであり、「精神の友」とは、本来の自分、純粋無垢な経験以前の慈悲に満ち溢れた自己とでもいうことができる。

著者は云う

私たちはしがみつくことのできる確かなものを絶えず探し求めている

「精神の友」との一瞬の出会いだとしても、その体験を価値付ける自分は大したものだ、と言い聞かせんばかりになる。自分は絶えず安心と、道に従って突き進んでいるという自負と、その自己証明を他人に求め続ける。

そのことが、人を新興宗教や、既成宗教団体への強い勧誘となって表れる。

「私がこの宗教で救われたから、あなたもぜひ入ってください」

自分の体験に酔っている人は、他の誰かも誘うことでより自分の足場が確かなことを確認したいのだ。そうまでして自己証明を必要とする宗派とは一体何なのだろう?

そこには寛容さがない。勧誘される人の人生の現実を捉えずに、ただ自分の知りうる観念の世界に引きずり込もうとする野心がある。

そこには開放された空間の余地は残されてはいない。

著者はいう。

慈悲は、達成とは無縁なものだ。本当の慈悲をもつ人には、自分が人に対して寛大なのか自分自身に対して寛大なのか確かではない。なぜなら、慈悲とは「自分のために」とか「彼らのために」という方向をもたないひとつのいわば環境としてそこにある寛大さだからだ。それは悦びで満たされている。おのずと存在する悦び、信頼を意味する悦び、そして測り知れない富と豊かさを含む悦びで満たされている。 慈悲とは豊かさの究極の状態だと言うこともできる。

‥‥

つまり、人は根本的に豊かに生まれついているのであって、豊かにならねばならないのではないということだ。

著者の引用から思うことは、「ありのままの自分」には二つの意味合いがあって、ひとつは「良いも悪いも含めた現状の自分」。もうひとつは「慈悲を携えて生まれてきた豊かで悦びに満ちた自分」ということだ。

本来ひとは、この後者の豊かに生まれついた自分、すなわち「個々の生き物の本質そのまま」ということになる。

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コメント


慈悲とは「自分のために」とか「彼らのために」という方向をもたないひとつのいわば環境としてそこにある寛大さだからだ。それは悦びで満たされている。おのずと存在する悦び、信頼を意味する悦び、そして測り知れない富と豊かさを含む悦びで満たされている。 慈悲とは豊かさの究極の状態だと言うこともできる

分かるような気がいたします
自分も、彼らも一つの存在

元々、豊かであることを感じて、
歓んでいる状態とでも言えましょうか


ありがとうございます

投稿: ponsun | 2012年6月10日 (日) 07時23分

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