« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月

2012年4月28日 (土)

秘密と恐れ(2)

秘密を持つということは、人間の意識が自分の中で統合されていないということだと思う。

そして、統合されていない自己の部分が絶えず顔を出したがり、コントロール不能になっているということでもある。「思わず‥してしまった」とか、日頃の自分では考えられないような幼稚な行動にでたりする。そしてそんな自分を否定し、他人に隠そうとする。秘密の部分は明らかにされる必要がある。それが受け入れられ、認識されれば、それは解放される。自分で否定すれば否定するほど、その秘密に縛られるようになる。それは今のありのままの自分と向き合うのが恐いからではないのか? 

相手に知られるのが恐いという自分の秘密、そういうものは極力なくしていかなければならない。なぜなら、そういう秘密を持つことが対人関係における不安や恐れにつながっているから。秘密の多くは自分の弱い部分、恥ずかしい部分である。しかし、そんな自分を受け入れ、認めていくことから、人は変われる。その秘密をつくる根元にある欲求にこころを向けたら、それが解放され、表現されたがっているのが理解される。そして、一旦理解したら、いったんそのはけ口を見出して、膿をだせたらそのままだすがままにしておけばいい。しばらくすると、その欲求に向けられたエネルギーが別の方向へ流れていくのだろう。これが人間の奥底にある自然な善良さというものなのかもしれない。

だとしたら、日頃の私たちは、対人の目ばかりを恐れて、日頃の行動をあまりに制限してないか?  こんなことをしたら嫌われてしまう、こんなことを思う事自体が、人間としてよくないことだ、と。そう自分に言い聞かせている自我の欲求と、自然の本能から生じてくる欲求が交錯して、次第に自分のやってみたいことと、すべきことが抑えられてしまう。抑えられた本能は、さらに形を変えて、陰湿になる。陰湿になってしまうからそれを人目に示す事ははばかられる。そうして次第に自分自身の本来の自然な姿からは遠ざかっていくのである。 

私たちは、もっと自分自身を信頼していい存在なのではないだろうか

?

人目を気にする事で、他人と行動を合わせる事で、平均的な生活になじんでゆくことで、次第に心の底の善良さは見失われてしまう。

私たちは、自分のやりたくて出来なかったことへの親や上司、対人に対する恨みを抱いて大人になってはいけない。そうなったら、今度は自分が子供や部下、幼い仲間や弱い老人に対して虐待をしてしまいかねない。

人間にある自然な善良さの発露は、他人から強要された生き方にあるのではない。生きていく基本となるものは当然両親や保護者から学ばなければならないが、それ以上に生き方までをも押しつけてしまう大人たちのどんなに多い事か

?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年4月21日 (土)

秘密と恐れ(1)

秘密を持ちえるのは個人としての自我を持つ者の特権である。しかし、自我ゆえに持つ秘密とは何なのだろう?

近しい人に言えないことが、あかの他人に言えるということ、そこに持つ秘密の特性が伺われる。

秘密を持つということは、自分をいまある自分以上に見せたいとか、恥ずかしい自分の姿を隠したいという意図がある。そもそも秘密を持つということが自我の働きそのものなのであるから、それはかくあるべき自分と、いまの、ありのままの自分とが分裂しているということになる。それならば、かくあるべき自分とは何なのだろう?

実は、かくあるべき自分の姿も、他人に見せたい自分の姿か、自分自身で考え、こしらえた理想の自分ということになる。

いまのありのままの自分は、動物的な自分の現在の姿であり、かくありたい理想の自分の姿は自我の思考の産物である。秘密が発生するのは、このありのままの自分を否定し、かくあろうとする自分を他の人たちに示したいがために他ならない。

ここで、自分が失敗した過ちに対して、それを隠そうとする場合とは厳密に異なることを言っておきたい。しかし、それについても自我がおびやかされるという状況のもとで、隠したり取り繕ったりして秘密を持つということになる。

かくいう私も秘密がばれたりして大恥をかいたりする。そしてこの恥をかくということ自体が、自分をもっと良くみせたいという自我の願望の現われに他ならない。

自我のすることは、自分をいまある以上に評価したり、逆に「自分はあの人に比べて劣っていて、駄目なんだ」とか、ちょっとした事ができない自分を責めたりして必要以上に自分を低く評価したりする。要するに自我の評価は正確に行われたためしがないということなのかもしれない。

ではなぜそうなってしまうのかというと、それは自我の評価が発生するのはいつも対人関係の中であるのだということにヒントがありそうだ。

対人関係において、人は比較したがる傾向にある。なぜ人と人をある基準を持って比較しなければならないのだろう。作業するのが平均よりも遅いとか早いとかで職場評価されるのは、作業効率向上の上で仕方がないとしても、多くは人と人との間で人物評価を単純に決めてしまう傾向である。

さて、秘密を持つということは、それがいつかはばれてしまう可能性をはらんでいる。化けの皮がはがれたとかいうが、そのはがれた状態と如何に自分自身が向き合うか、向き合えるかということが重要である。もし、人が自分のいまある状態についての正確な認識を持たなかったら、ひとはこの先もずっと人格分裂したままになっているだろう。自己分裂しているのが人間ではあるが、現在の自分のありのままの姿を認識せず、対人関係に応じていくつもの仮面を無意識のうちに架け替えていてはどれが本当の今の自分なのかわからなくなってくる。それがずっと続くと自分で気づかないうちに嘘をついたり、うそをつくのが当たり前になっていき、一体どれがいまの自分の正直な気持ちなのかわからなくなってくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月14日 (土)

生というもの(2)

生きることの意味をあまり考えないでしあわせでい続けられる人はそこで何を考える必要も無い。けれど、私たちは、いつも何かにつまずき、苦しみながら生きていっているようだ。それは人間関係からくるのかもしれない。自然災害かもしれない。生きてゆくのが大変な時は大変な中から何かを学んでいかないといつまでたっても自分の力でしあわせでい続けることはできない。

私たちは誰かに頼らないと生きてはいけないのだ。物理的にも精神的にも。そしていつの間にか身近な誰かが心の支えになっていることに気づく。その支えあっている現実から生きるということはどういうことなのか問わずにいられない。

支えている人、または支えられている人がいなくなったら、私は一体どうなるのだろう?

その人は、自分にとっては、こころの一部であった。近しい人とのこころの距離は、一緒に暮らすことでどこまでも縮まっていく。そのこころとは、「私がいる」という自我の感覚ではない。そのこころとは、「魂」のことなのかもしれない。

私たちはお互いに、ひとつの魂の一部を生きている。それぞれが別々に、個別の存在でありながら、こころはひとつの魂であり、その一部である。だからこそ、家族がとてもいとしいのではないか?

死に別れた家族もまた、ひとつの魂の一部であるなら、私たちは、亡くした家族の魂の分まで生きてこころを豊かに、そしてしあわせに生きていかなければならないのではないだろうか? 

生きるということは、生の河の流れの中で、今はともに流れていかない人の魂の分まで背負って生きていくということでもあるのだろうか?

ひとつの魂という観点からみると、生きるも死ぬもたいした違いではない。それぞれの人の想いが積み重ねられて渦を巻いているのが魂だとしたら、そのエネルギーが形となったものが現世であるのだと思える。だから、私たちは、生きてる人はもちろん死んだ人たちの想いも込めて生き、ともに人生を歩み、世界を造り変えていく存在なのだと思う。そして死んだ身近な人の分まで思い出とともに過ごし、それを支えに新しい自分の生き方、豊かさを見いだしていくことが、死んだ人への供養にもなるのだと思える。

お互いに支えられてあるということは、お互いが魂の一部であるということ、また人は孤独でかけがえのない存在だということは、意識の視点で、それぞれの独自性があるのだと思う。その独自性は、そんなに個性的なものではないけれど、ちょうどジグソーパズルの1ピースのように、どんな他者を連れてきてもその型には決してはめ込むことが出来ないという性質のものである。だからこそ、家族や身近な人は、ともに生活をするうちにかけがえのない存在になっていく。そのことは、そのひとの個性‥ それは既に存在するものではなく、それは形づくられていくものだということを示しているように思える。

そのことは、世界を絶えず作り変えていく現実にあっては多様な意識が必要だというその必然性に基づいている。

私たちは、ともに世界という時間の流れの中で生き、お互いに成長しあっている。それはお互いがそれぞれのかけがえのなさを、より強固にし、それぞれの視点を見いだすためでもある。だからこそ、亡くなった命もその人を忍ぶ自分のこころの中に生き続け、今はなきその人と一緒に世界を作り変えるエネルギーにもなり得るのである‥ と信じたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 7日 (土)

生というもの(1)

生とは何か?を問う時には同時に死とは何かが問われる。

生きていくのがつらいとか、苦しいとかで死にたくなったりするのは、それだけ生に執着心があるからに他ならない。ほんとうに生きるのがどうでもよいのなら、人は自殺などを考えたりしないだろう。生と死は生の川の流れのまさに両輪なのだ。

普段、私たちは自分の時間に限りがあることを意識してはいない。けれど、この限りある時間というものを意識していないと、人生はそれほど実りのあるものではないことが、このごろわかるようになってきた。

何か目標を立ててやろうとするとき、それは自分からではなく、誰かに言われてすることがよくあった。その時、自分には無理だとよく思ったものだ。無理なのは目標も立てずにだらだらと過ごす自分自身の態度が原因だった。ひとは切羽詰ったときでないと、その潜在的な能力を発揮できないものだ。

生きるということも、時間を限定してこころしてかからないと、死ぬ際に後悔してしまう。単に私は臆病なだけなのだろうか? 

あなたはこの人生で何を望み、何をしたくて生まれてきたのだろう。そんなこと誰にもわかるはずがない。少なくともこの世に生まれる直前にはわかっていたはず‥。別に課題が与えられているわけではない。ひとは成長するために生まれ変わってくるというが、そういう考えに縛られていては窮屈になる。いかにして自分もひとも、楽しく生きられるか?

そう考えていいはずが、いつの間にか、相手を蹴落としてでも、豊かな暮らしをしたい、贅沢がしたいと思うようになってしまった。自分がこころから楽しめることは、人を喜ばす楽しみではなかったのか? それはお互いのしあわせが、相互依存の関係によって支えられているからに他ならない。このことが本当に理解できたなら、私とあなたは他人ではないという真理を心底噛み締めることができるのだが。

そして物事の真理を見出すために、私は自分と周りの環境、社会との関係についても離れてみる視点をいつも忘れないでいたいのである。それは決して客観的に観るということではなく、起きている物事の全体をトータルに意識するということである。そしてそこに瞑想することの難しさもあるのである。ただ純粋に自我(エゴ)を離れるという‥。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »