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2012年4月14日 (土)

生というもの(2)

生きることの意味をあまり考えないでしあわせでい続けられる人はそこで何を考える必要も無い。けれど、私たちは、いつも何かにつまずき、苦しみながら生きていっているようだ。それは人間関係からくるのかもしれない。自然災害かもしれない。生きてゆくのが大変な時は大変な中から何かを学んでいかないといつまでたっても自分の力でしあわせでい続けることはできない。

私たちは誰かに頼らないと生きてはいけないのだ。物理的にも精神的にも。そしていつの間にか身近な誰かが心の支えになっていることに気づく。その支えあっている現実から生きるということはどういうことなのか問わずにいられない。

支えている人、または支えられている人がいなくなったら、私は一体どうなるのだろう?

その人は、自分にとっては、こころの一部であった。近しい人とのこころの距離は、一緒に暮らすことでどこまでも縮まっていく。そのこころとは、「私がいる」という自我の感覚ではない。そのこころとは、「魂」のことなのかもしれない。

私たちはお互いに、ひとつの魂の一部を生きている。それぞれが別々に、個別の存在でありながら、こころはひとつの魂であり、その一部である。だからこそ、家族がとてもいとしいのではないか?

死に別れた家族もまた、ひとつの魂の一部であるなら、私たちは、亡くした家族の魂の分まで生きてこころを豊かに、そしてしあわせに生きていかなければならないのではないだろうか? 

生きるということは、生の河の流れの中で、今はともに流れていかない人の魂の分まで背負って生きていくということでもあるのだろうか?

ひとつの魂という観点からみると、生きるも死ぬもたいした違いではない。それぞれの人の想いが積み重ねられて渦を巻いているのが魂だとしたら、そのエネルギーが形となったものが現世であるのだと思える。だから、私たちは、生きてる人はもちろん死んだ人たちの想いも込めて生き、ともに人生を歩み、世界を造り変えていく存在なのだと思う。そして死んだ身近な人の分まで思い出とともに過ごし、それを支えに新しい自分の生き方、豊かさを見いだしていくことが、死んだ人への供養にもなるのだと思える。

お互いに支えられてあるということは、お互いが魂の一部であるということ、また人は孤独でかけがえのない存在だということは、意識の視点で、それぞれの独自性があるのだと思う。その独自性は、そんなに個性的なものではないけれど、ちょうどジグソーパズルの1ピースのように、どんな他者を連れてきてもその型には決してはめ込むことが出来ないという性質のものである。だからこそ、家族や身近な人は、ともに生活をするうちにかけがえのない存在になっていく。そのことは、そのひとの個性‥ それは既に存在するものではなく、それは形づくられていくものだということを示しているように思える。

そのことは、世界を絶えず作り変えていく現実にあっては多様な意識が必要だというその必然性に基づいている。

私たちは、ともに世界という時間の流れの中で生き、お互いに成長しあっている。それはお互いがそれぞれのかけがえのなさを、より強固にし、それぞれの視点を見いだすためでもある。だからこそ、亡くなった命もその人を忍ぶ自分のこころの中に生き続け、今はなきその人と一緒に世界を作り変えるエネルギーにもなり得るのである‥ と信じたい。

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