« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

2012年3月31日 (土)

覚醒(4)

覚醒と無覚醒

覚醒は霊的進化の終わりであり、無覚醒はその始まりだ。無覚醒とは物質として存在している状態のことだ。だから、無覚醒と無意識とは同じものではない。無覚醒とは物質の事。物質は無意識ではない、無覚醒なのだ。

  源泉を超えるもの

もし百パーセント意識的になったら、あなたは観照者になる。観照者になったら、あなたはそこから覚醒へ飛躍できる跳躍点に達したのだ。覚醒にあっては、観照者は消え、ただ観照だけが残る。

円周が中心なくして残る。この中心のない円周こそ覚醒だ。いかなる中心も無く、いかなる根源もなく。いかなる動機付けも無く、それによって来たいかなる源泉もない意識――それが<覚醒>なのだ。

だから、あなたは物質という無覚醒の存在から覚醒へと進む。それを神性と呼ぼうと、神的と呼ぼうと、何とでも好きなように呼ぶがいい。物質と神とのあいだ、その間の違いは常に意識の違いなのだ。

(太字:「瞑想」オショー・ラジニーシ:めるくまーる社刊より引用)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月24日 (土)

覚醒(3)

意識と観照との関係

観照とはひとつの状態であり、意識とは観照に至る手段だ。意識的になりはじめれば、あなたは観照を達成する。‥

観照は意識の結果としてやってくる。観照を訓練することはできない。

だから観照を達成するために、人は意識を訓練すれば良いのだという。意識を訓練するとは、例えば日常的な動作とか会話について、そのひとつひとつについて自分で意識して行なうということだ。つまり、自分の行動にいちいち気付いていなければならないということ。実はこれがとても難しい。

そして、覚醒を達成するのに観照がその方法となる。

だから段階は三つある。  ――― 意識、観照、覚醒だ。が私たちがいるのは最下位の地点だ。つまり、無意識の活動の中にいる。無意識的な活動が私たちの心の状態なのだ。

意識を通して観照が達成できる。その観照を通して覚醒が達成できる。そして、覚醒を通して無達成なるものを達成できるのだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年3月17日 (土)

覚醒(2)

オショーは、覚醒は純粋な意識だ! という。それを理解するのに通常の意識状態と覚醒時の意識との違いを理解することになる。

意識と覚醒のあいだにはまだ違いがある。意識は心のひとつの質ではあるが、心全体ではない。心は意識的と無意識的、その両方でありうる。が、あなたが心を超越すると、どんな無意識もそれに対応する意識もなくなる。そこには覚醒がある。

覚醒とは心全体が目覚めたということだ。いまやそこに古い心はない。だが、意識しているという質がある。覚醒は全体的なものとなった。いまや心それ自体が覚醒の一部となったのだ。‥‥

覚醒とは心を超越するという意味だ。だから醒めている当のものは心ではない。心を超越し、心の彼方へ出てはじめて、覚醒が可能になる。

覚醒とは心全体が目覚めたということだ。

心が醒めているという言い方はできない。ただ、意味深長に、心が意識しているということは言える。覚醒とは心を超越するという意味だ。だから、醒めている当のものは心ではない。心を超越し、心の彼方へ出てはじめて、覚醒が可能になる。意識は心の質だが、覚醒は超越だ。

意識が心の一部である限り、ひとは二元性を超えられないのだと和尚は言う。その主体と客体との境を超えるとき、ひとは覚醒する。そして、覚醒とは「無心」の状態でもあるのだという。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年3月10日 (土)

覚醒(1)

瞑想の最終目的は覚醒にある。しかし、そこへ至るにはいくつかの段階を踏んでいる。まずは意識の集中、そして、それを観照する自分を認識すること‥‥  オショーがその主著「瞑想:めるくまーる社」で、質問者が覚醒と観照の違いは一体どこにあるのでしょうか?と質問したところから始まる。

照は主体と客体のあいだの関係だ。覚醒にはいかなる主体性も客体性もない。覚醒に於いては、観照している人は誰ひとりいないし、観照されている人も誰ひとりいない。覚醒と葉全体的な行為だ。

覚醒とは無為であり、純粋な意識状態であるのだという。では覚醒に至るためにはまず、観照しなければならない。

だが観照を通して覚醒が可能になる。なぜなら、観照とは意識的な行動のことだからだ。それは行動だが意識的なものだ。あなたは無意識でいながら何かをやるということはできる。だが、そのなかであなたが意識的になれば、それは観照になる。だから、通常の無意識的な活動から覚醒に至るあいだには、観照することによって埋められる隙間がある。

観照することが覚醒に向かうひとつの技法なのだという。

覚醒に至るための第一段階は「無意識に行動していたものが、意識的に行えるようになること。」これが観照で第二段階として、「意識的に活動していたことが、無為に、すなわち無活動にとって変わらなければならない。」これが覚醒ということになる。この第一段階の意識的な活動を観照することが、瞑想においては重要となる。それでは、無為であり、主体と客体との二元性がなく、行為者もいない覚醒の状態とは何なのだろう?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年3月 3日 (土)

基本的な善良さ(4)

本当のやさしさを得ることが、基本的な善良さの資質と結びついている。

疑いの不在とは、ハートへの信頼、自分自身への信頼に他ならない。疑いがないとは、自分自身と深く結びついていて、頭と体が共調して働くのを経験しているということだ。頭と体が共調するとき、あなたには疑いがない。

それは世界の知覚の仕方に影響する。頭とは自分の思考、体とは直感や感覚のことだと思う。世界を知覚するとき、この頭で考えた、つまり思考のフィルターを通してみるか、言葉をはさまずに、五感で直接に感じ取るかということ。私たちは、世界を決してありのままの存在としてみようとしない。それは思考を介して世界を見ているために、五感で直接みるリアルな世界を見ていないということだ。

和尚は

人は見えるようになればなるほど、ますます考えなくなる。

といっている。私たちの日常は考えることでいっぱいだ。そのために、自分の体の要求に答えるよりも考えた結果を大事にし、頭と体のバランスが崩れ、自分のこころにまで影響を及ぼしてしまっている。

世界を、言葉を介さずに、五感をフルに使って見るとき、世界はとても鮮やかに、新鮮に目に映る。そしてそうすることで、人は頭と体を共に働かせることができる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »