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2012年2月

2012年2月25日 (土)

基本的な善良さ(3)

基本的な善良さはいつも優しさと結びついた形で表れてくる。この優しさは弱よわしい、生ぬるい、温室育ちの優しさではなくて、毅然とした、熱意にあふれた、覇気のある優しさだ。その意味では、優しさは疑いの不在、または疑いのなさの経験から生まれてくると言ってもよい。(シャンバラ、勇者の道、著者)

外面的にいつも優しく、徳にあふれたように見える人がいる。しかし、彼がいったん家庭に入ると、妻や夫に対して暴君のように支配し、勝手きままに物事をいいつけたり、小言を言ったりする、そういう人たちは優しさの偽善者だと言えるだろう。彼らに必要なのは心の浄化である。心に溜まった憎しみや恨み、対面で他人に対して言えなかったことが溜まっているために、それはどこかで吐き出さなければならない。

和尚は云う

いわゆる「いい人」たちというのは、実際は死んだも同然の人たちだ。だから他人が何と思っているかということにかかずらわないこと。他人が抱いているあなたのイメージなど気にしないこと。

気にすればきにするほど、他者向けの仮面をかぶり続けなければならなくなり、しまいには一体どれが本当の今の自分の顔なのかわからなくなってしまう。今の自分の現実の顔を認識することから、そこからでしか、人の成長は始めることができない。

浄化から始めるがいい。そうすれば、すばらしいものがあなたのなかで花開く。それはひとつちがった質のもの、異なった美しさ、まったく異なったものになる。それは本物だ。

(瞑想:バグワンシュリラジニーシ めるくまーる社から)

自分の中に、偽りの要素をため込んではいけないのだとわかる。自分に対して誠実であることが、自分自身への絶対の信頼を得るための前提なのだ。思っていることと、相手に話していることが食い違うということは、相手のしゃべる内容についても絶えず、本当にそうだろうか? と疑問を抱かざるを得ない。だからといってあなたは相手と同様、自己欺瞞に陥り続ければ、決して本当の優しい人などになれないだろう。

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2012年2月18日 (土)

基本的な善良さ(2)

現代の教育制度は、多くの人に平等に教育を受ける機会を与えられていながら、個人が自分で考え、自分で行動するような教育のされ方が希薄であったような気がしてならない。

いくらみんなが平等にと思っていても、個人の資質に個性があり、得て不得手があるという事実をかなり無視してきたのではないだろうか?

その結果、私はあの人に比べてダメな人間だとか、できないことに対する劣等感を植え付け、かえってできることに対する自信すらも失ってしまうことにつながっている。

私たちは教育を平等に受ける権利ばかりを望んだ結果、個性を伸ばす教育がないがしろにされてきた現実にもっと目を向ける必要がある。

本当は僕は、こういうことがしたかった、そのやりたかったことを親は拒否し、拒否されることで、親の言うことに従う良い子になる。その良い子が、自分自身をそこね、自分を傷つけてきたというのなら、そういう良い子が、社会に出て、他人のために役立つことが果たしてできるのだろうか?

現代教育の流れは、親も子も、自分に優しくなっていないばかりか、それを支える社会が自分をそこねて生きることを強要しているような社会である。物質的にいくら豊かになろうとも、これでは、心の負の連鎖が世代を渡って続いていくばかりである。

自分自身への優しさを育んだら、自分が抱える問題と可能性の両方を正確に見抜くことができる。自分の問題を無視しよう、可能性を誇張しようなどとは思わなくなる。このような自分自身への優しさやその良さを認める気持ちはとても大事なものだ。それが自分自身や他人を助ける基盤になるからだ。

人はまず、自分自身を振り返り、自身に対して正直にそして、優しくあるべきだ。それ以前では決して他者に対して真に優しく接することなどできないのではないだろうか?

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2012年2月11日 (土)

基本的な善良さ(1)

人々が自分自身の真価を認めないために、この世界には非常に多くの混乱が起こってくる。自分自身への思いやりや優しさを育んでいないために、彼らは自分自身のなかで穏やかさや安らぎを経験することができず、そのために他人にも不調和な混乱したイメージを投影することになる。

自分が生きているのが当たり前とか、生きるのが重く苦しくて、思うようにならない人生に絶望して自殺しようとすることがすなわち自分自身を粗末に扱っていることに他ならない。ではなぜ、私たちは、自分に対してこうも優しくなれないのだろうか?

著者は、生きることの本質に「自分の人生を高めるという個人的な責任を引き受けなければならない」と述べている。

人はどんな生き方をしようと、望んでみてもこれだけはのがれることのできない真理なのだと思う。そこには著者の人間に対する絶対的な信頼があり、「良心」がある。これを基本的な善良さという言葉で表している。

それでは自分のために優しくなるとはどういうことなのだろう?

相手にない資質を自分自身に求めたり、逆に自分ができることを相手にも強要したりすること。西洋の宗教に代表されるように、「人間は生まれながらにして、罪人である」というレッテルを貼り人生の希望をあの世に求めたり、償いのための人生にしてしまうことが、むしろ自分を痛めつけ、そこなうことになってしまう。その時々の自分自身の正直な気持ちに反して、社会的に良識ある行動をとったとしても、自分自身は納得していないために、そのことが後で他人を傷つけてしまうような陰湿さに変質してしまうことが度々ある。

自分自身の正直な気持ちでいることが、何も自分勝手にふるまうことではない。その時々に自分の正直な気持ちの表現ができなかったことが、自分をそこね、それが後々に他人を傷つける刃となってしまうのだ。その意味でも、親の子供に対する教育の仕方が重要になってくる。そして、その親も、自分の所属する地域社会の慣習や様式に多大な影響を受けている。

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2012年2月 4日 (土)

シャンバラの理念(4)

シャンバラの教えは、世界の人々を別の理念へと改宗させようとするものではない。シャンバラの理念の前提とはこうだー。

他人のために目覚めた社会を築こうとするなら、まず自分のなかに世界へ差し出すに値するものを見つけなければならない。だから、何はともあれ、私たちは自分の経験の中身を十分に吟味して、そこに自分や他人がめいめいの存在を高めるための助けとなるような、価値あるものが含まれているかどうか確かめてみなければならない。

まず、シャンバラの教えとは、共に目覚めた社会を築くことをめざしている。

次に著者は自分たちひとり一人のなかに、その経験のなかに良さがあるのだという。

たとえばこころに染み入る音楽に共感する能力とか、画家の描く絵にみとれてつい立ち止まってしまうとか、桜の散る光景に人々が自然に集まる、

美しい風景や自然、朝の光の中や山の頂きで吸う空気の味わい、冬の夜のしんとした空気の冷たさを肌で実感するところからくる、生きているという感触など。

自然のなかに美しさを発見できる人間は、その内面に「基本的な善良さ」があることを発見する。それは私たち個人ひとり一人が、日常のありきたりの生活のなかから発見する、共通して美しいと思うもの、そう思えるこころに善良さの基盤みたいなものを見いだすということ。言い換えれば「良心」という言葉が私にはぴったりくるのだが。

生きているのは基本的に善いことだという、その良さを自分のなかに見つけられたら、他人の人生も良くすることができる。私たちは、たとえどんなに自分を見失った状態でいても、決して「良心」だけはずっとこころのなかに住み続け、それが雲隠れしたりするだけなのだろう。いわゆる悪い人というのも、既に存在している「良心」を見つけられずにもがいている惨めな人であるのだという解釈がなりたつ。いわゆる悪い人という言葉は、ここでは、エゴという人間の心に翻弄され、善悪の区別をつけている知識人のことをここではいっております。

良心

は人が生まれながらに携えてきた。それを通してひとはお互いのために生きるのが基本なのだと思う。しかし、それを久しく曇らせてしまう時代が長く続いているというのが実情のようです。

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