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2012年1月

2012年1月28日 (土)

シャンバラの理念(3)

勇者の道に至る鍵となるものが幾つか存在する。それらをひとつひとつ読み進めていくうちに「勇者」とは? なんなのかわかるのかもしれない。

「シャンバラの理念」の最初の原理とは、ありのままの自分を恐れないということだ。実のところ、自分自身を恐れないということ、それが勇敢さの定義なのだ。

シャンバラの考えは利己主義の対極にある、と著者はいう。

自分自身を恐れていると、世界が自分を絶えず脅かそうとするように思えてきて、自分自身を身構えてしまうのだという。利己主義は、自分自身を恐れる結果、相手を疑い、仲間を疑い、自分が殺されるのではないかと思って、利己的になってしまうのだ。それは、多くの人たちが、自分の国を武装しなければ、相手国から簡単に攻めいれられると思ってしまう人間の性質に行き当たる。

かつてのインドではそういうことが起こった。非武装をし、女性的な受身の性質を備えた国が、男性的な攻撃力のある国に、たやすく占領され、支配されてきたということは、どの国も、武装しなければやられると思っているのだ。しかし、そういうことを際限なく続けていけば、世界は決して良くならないし、安心して住める場所などそのうちどこにもなくなってしまう。それは六道のなかの阿修羅の世界にずっと住み続けるのと同じこと。利己主義は、決して住み良い世界を形成しないばかりか、護身のためにナイフか拳銃をいつも持ち歩いていなければならなくなってしまうのではないか? 周りの人たちが自分の食料や持ち物を摂られるか、殺すか、強姦されるか、絶えず心配しながら、人は神経症にかかってしまうのだろうか。現代は、まさにそのような時代の流れのなかにいるのではないか。

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2012年1月22日 (日)

シャンバラの理念(2)

シャンバラの理念

シャンバラの理念は、自分自身や他人にもっと健全な生き方をしようと呼びかける試みにすぎない。

何が健全かそうでないのかは、私たちの住んでいる社会やその仕組みを覗けばわかるだろう。政治が、特定の人たちのために有利な法律を制定するとか、無差別殺人が起こったり、精神疾患者が増えてきたりとか、いろいろあるが、当のわたしはどうなのだろう?果たして健康な精神状態といえるのだろうか?

オショーは、人間の殆どは精神異常者であるというようなことをほのめかしていた。それは、覚醒した人、悟りを開いた人を基準にすれば、程度の差こそあれ、人間はみな精神異常者であり、魂の不健康を表わしているのだという。

例えば、やましいことがあって親密にしている人に隠したりしていることでも他人には平気で言えたり、嘘をついたりすることで、ひとは不健康に既になっているのである。

シャンバラ王国のイメージを使って「世俗の悟り」という理想を、つまり宗教という枠組みにとらわれずに自分の存在や他人のそれを高めうる可能性を明らかにするものだった。‥‥ 同時にそれは、人間のあるがままの存在を高めることを独自の思想的基盤にしている。

よく、人間の性善説とか性悪説が中国でいわれていた記憶があるが、それは歴史をさかのぼるまでもなく、ずっと議論されてきていた。しかし、人間の赤ちゃんが育てられ方次第では良くも成れば悪く成る可能性もある。そういうことを述べているのではない。もっと根本的に人間も自然の生き物の中の種のひとつと考えたら、そこに悪いものなどないということ。それは私たちが社会を形成する以前の自然な状態である。これを人間のあるがままの存在であるといえまいか。あるがままの存在がすなわち究極の善であるのだという。

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2012年1月19日 (木)

シャンバラの理念(1)

「シャンバラー勇者の道」とは

この本は、著者序文にもあるように、

自分の人生のなかで神聖さや、尊厳や、勇者の生き方の諸原理を見失ってしまった、現代人のマニュアルなのだ。それは具体的にはインド、チベット、中国、日本、朝鮮に見るいにしえの伝統に体現された勇者の原理に基づくものだ。この本はいかにして自分の生き方をより良いものにしていくか、いかにして「勇者の道」のほんとうの意味を見いだしたらよいのかを明らかにしている。

日本では「武士道」などという伝統概念があるが、これも勇者の道に沿った生き方だという。勇者という定義は、誤解を招くところが多いが、著者によれば

お互いを殺し合わずに恐れることなく喜びを持って生きる

ことらしい。それは、過去の歴史の中で繰り返される戦争のなかで、勇敢に戦った者が勇者という称号を与えられるのではなく、人生を恐れることなく、自由に闊達に自分の思いのままに生きるということである。そこでまた誤解が生まれるが、しかし、それは自己中心的になることではなく、まったくその反対であり、無我を体得して、生き物に対して奉仕する生き方を結果としてもたらすものである。

そこのところの理解を深めたく、読み進めてみたい。

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2012年1月14日 (土)

シャンバラ 序

 勇者の道はチョギャムトゥルンパがその著「シャンバラ ー 勇者の道:めるくまーる社2001年刊の中で説かれた。

この勇者の道というのは、純粋で恐れを知らない生き方を求める人に向けて語られた一般書であり、入手が割高になっていると聞く。

これを買って以来、吟味する間もなく、あわただしく日々が過ぎ去ってしまっていた。

いつか、私自身の中で、これをオショーラジニーシの教えと照らし合わせて消化したいと思っていた。だけれども、いつか、いつかと思っていると、そのうち私自身の人生が終わってしまわないかと恐れています。というのも、私の中では、チョギャムトゥルンパ先人がオショー先人と同じく人生を歩む指針となっているから、その形跡を少しでも理解することが私の課題でもあるわけです。

氏は、シャンバラ王国について自説を展開し、そのなかでシャンバラという国が実在したかどうかが大事なのではなく、その理念、つまり勇者として歩むべき姿勢を説いたところにこの本の価値が伺えます。

もっとたくさんの人たちにこの本を手にしてもらいたいのですが、現在4千円前後で売られているというから、実際増刷はしていないらしい。

この勇者の生き方の諸原理を著書に従って紹介するのと、それに対する私の不十分な理解の及ぶ範囲での意見を述べさせてもらって、もっとチョギャムトゥルンパ先人のことを知ってもらいたいという想いがつのっているところです。

オショーブログを始めたきっかけは、もちろんラジニーシ時代からのオショーを知ってもいたいとの思いがあった。けれども、いつしかそれは、単に本の中身の紹介のはずが、いつの間にか自己満足に変わって行ったように思う。もちろんこれをきっかけにして先人について話し合える友人が欲しいという思いがあったのも事実である。しかし、ブログを続けていて、一体これは誰のために書いているのかわからなくなってしまい、とうとう書きたいという動機が次第に薄れてしまっていた。

今後は、まず第一に、自分なりの理解のために書くこと、第二に私と同じような思いで人生についての指針を求めている同士のために書くことを主眼としたい。

そういうわけで、まったく興味もなく、ただ自分のブログへのアクセス回数を増やしたいという人は申し訳ないですが、素通りしてもらってかまいません。生き方に対する共通認識が近い人でなければ、このブログは役にはたちません。

私たちはこれだけ多くの人たちに囲まれていながら、実に通い合える世界が狭いことに気づき、愕然としてしまうことがある。それはひとり一人が乗り越えるべき課題が異なることと、人生という舞台において立つ位置が異なることを示していて、その現実に、それぞれが孤独な存在であることを再確認させられるということです。

孤独の深い味わいのなかでこそ、開ける世界もあります。この本にもありますように、「登る朝日の考え方」に共感し、ともに少しでも多くの人が目覚めた社会を創っていけるように、一緒に考え、歩んでいける同志たちが増えてくれれば、それに変わる喜びはありません

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2012年1月 3日 (火)

正しい思念

正しい思念とは、「無為にして為す」という意味で使われる。それは自我の思考が静まり、こころが神によって動かされるときのことをいうのだと和尚は云う。何が正しくて何が間違っているのか判断するのは依然として自我の思考活動の領域であるというのだ。

自我の思考活動によるものは全て間違っており、自我からくるものは自分を苦しみのなかへ連れていくという。

和尚いわく

 自我を落とし、ものごとが起こるにまかせなさい- 風が吹くと樹が揺れ動き、太陽が昇ると鳥たちが歌いだすように<全体>に身をまかせきってしまいなさい。あなたはこの生を独りだけで生きているわけではない。神があなたを通して生きるがままにさせなさい。そうすればすべてがよきものとなる。神から生まれるものはすべてよい。

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