« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年12月

2011年12月23日 (金)

相手より一歩前

に対してもだが、好感の持てる人というのは、自分に積極的にアプローチしてくれる人である。

人は自分に興味や関心を示してくれる相手に対しては好感を持ちやすい。それは自分のことを認めてもらいたいという欲求を満足させる。

 相手との会話はもちろん、ネット上でのやりとりにおいてもそれは当てはまる。つまり、私はあなたに関心を寄せていますよということを、何らかの形で示すことが良い印象を与えるのである。

 相手に対する関心が、自分への関心を持って欲しいことの裏返しだったらどうだろうか? そういうのは利権が絡んだ依存関係でしかない。結構自分への関心を惹いてもらいたくて、相手に興味を寄せることがある。それは結局ひとり孤独の寂しさのために、いつも誰かに自己証明を欲しがる人のようでもある。或いは、自分に利益をもたらす誰かビジネスライクな関係を持ちたくてやっていることもある。

 相手への関心が、単に反応であってはならない。

 自分から、その人の周辺に付随するものではなく、その人自身に興味や関心がなければ、相手より一歩前を踏み出すことはない。それは単なる機械的な反応ではなく、純粋なパーソナルな関係である。そして、その関係がそのひとを相手との開かれた心を通してより創造的に変えていくのである。しかし、相手パーソナルな関係になる、すなわち相手と開かれた関係になるためには、ます自分自身に対して正直であること、そして相手に対して偽らないことがまず必要になって来る。

自分自身を変えてゆかないような行為に情は伴わない。相手とのやりとりの中で、人はともに成長し、自己を更新するような関係こそが、いつの世でも望ましいのではないだろうか?

そうは言っても、匿名のネット世界では到底そのようなことを望むべくもないのだが‥‥

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年12月17日 (土)

右手と左手

自分は正しいことをしている、天に誓って恥ずかしい行為はしていない、などと言えるひとは一体どれだけいるのだろう?

右手でどんなに人前では立派なことをしていても、左手ではそれこそ人格を疑うようなことをしていないだろうか?

そう考えると、立派な行ないでさえ、欺瞞に思えてくるのです。

私たちは、自己矛盾を抱えて生きています。

私たちは、多くの人格の多面体であり、おそらくそれらは、自分の中では整理されていない。だからこそ、こうして人間をいつまでもやっているのかもしれない。

「世界は自分を映す鏡だ」とよく言われる。世界は、自分のさまざまな側面を反映しているのだろうか? そこに他人の行ないを通して、「私はあんな風にはなりたくない」とか「あの人のようになれたらいいな」という想いを抱き、その想いが自分自身を変えていくのではないだろうか。

多面体でばらばらな心の中が、自分の深化した意識の中で統合されていくのだろう。

いろんな人に影響され、右に寄ったり左に向いたりするのは、その人たちの性向が自分の中にもあることを示している。そしてそのことに気づいたとき、それらの人格はより魂の深みの中でよりひとまとまりな意識に収束していく。

人が、自分に帰る過程は、世間に映し出される数多くの人格を自分の中で意識し、統合していく過程でもある。

もし、人前で、裏表のない自分になれたら、はっきりとそう言い切れる日が来るのなら、人は変われる。それまで色々な方向に向いていた心のエネルギーが、自分の意識の中心に向かうからなのだろう。そしたら、あとは、その流れに乗るだけ。

偉大な人というのは、社会でどれだけ成功した人か、どれだけ有名になったとか、どれだけ尊敬を受けてきたかということではない。

どれだけ、自分の人格をより拡がった意識に自分の中で収束させてきたということではないのか?

真に、裏表のない人間になりたい、そうなれてこそ、尊敬に値する。

自分が尊敬に足るかどうかは、それに尽きるのではないだろうか?

右手でしていることと、左手でしていることが同じ方向に向かわない限り、私は決して神の前で自信も持てなければ、謙虚に、そして純粋になることもできない。

少なくても、「恥ずかしい」と思う心はいつも持っていたいし、それを自分自身の戒めとして謙虚にありたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月11日 (日)

情報(2)

私たちがその環境下から得られる情報は限界がある。というのも、それは私たちの知りえる世界からの情報だからである。

何を当たり前なことを、といわれそうだが、私たちが本当に必要としている情報とは、自分たちの予想や想像の及ばないところからの情報だからである。

私たちが住んでいる世界にあっておよそ知りうる情報の殆どは、既知のものであるか、たとえ知らなくてもそれがもたらされる人にとっては有益であるが、知らされる自分にとっては無益なものである。それは単に生活を豊かにする情報であればそれでもいい。

しかし、自分を磨きあげ、高めるための情報とはいつも未知の何かから来る。それはかつて誰もしらなかったものである。どんなにささいなことでも、それを自分で知ること、発見し、理解することが重要である。そういう意味では、他人から与えられた情報は、本当の意味での情報ではない。自分が自分の中に自分で新たに何かを付け加えることによってその情報は、真に自分の情報として生かされる。

例えば他人の話を聞くとき、それを自分自身に置き換えて理解しようとはしないだろうか。そうやって自分の中に、未知なる領域を引き込み、自分の世界の一部にするとき、初めて情報が自分のものとして生かされ、理解されたことになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月 2日 (金)

情報

ちまたに氾濫している情報化社会で、特に問題となるのは、人は所得する情報が多ければ多いほど、それに翻弄されて、自分自身の内面意識から、その直感性から遠ざかるというものです。

私たちは、ネットメディアからどれだけ多くの情報が手に入れられるというのだろう?

そしてその情報が多ければ多いほど、その情報の信ぴょう性が増すものと思い込み、簡単に信じ込んでしまう。

一呼吸おいて、果たしてこれは真実なのだろうか?

と疑うことが大切なのだろう。

なぜ人は、簡単に手に入れられる情報をうのみにしてしまうのだろうか?

潜在意識下で、多分「こうあって欲しい」という想いがあって、それに見合う情報をかき集めるということもある。

専門家がわからなかったことが、素人でもわかってしまうことがよくある。

たとえ専門家でも、いや専門家であるがゆえに、近視眼となってしまい、事の全体像をつかめないことがよくある。

情報は、たんなる情報である。

それが正しいのかどうかは確かめるすべがない。それよりも、自分の潜在意識に

どういった欲求があるのかということ、それに従った思い込みをしている自分に気づく習慣を身に着けていなければいけないように思う。

でなければ、人々は、何でも簡単に信じてしまい、情報によって自分の人生さえも無駄にしてしまいかねないのだ。

情報を得ようとする人の思考が大事なのではなく、自分自身の直観力をもっと磨く必要がある。

人は自分のなかにある、こうあって欲しいと思う願望に合致した情報に飛びつきたがる傾向にある、このことを少し冷静な視点で見る訓練が必要なのだと思う。情報で氾濫している現代だからこそ‥

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »