ふりむいた風(5)
「たとえひとときでもそのときにもどることができたなら」
その時、私は確かにしあわせだったかもしれない。しかしそのとき、それを十分噛みしめて味わう事がなかったから、もういちど、そのときに、戻りたいと願う。
こんどこそしあわせを噛みしめていたい。
人は、いつも明日があるから、今日しなくていい、とか、明日も同じような日々がやってくることを当然のことと思うようになってしまう。けれどそれは違っていた。今日も明日も一度きりなのだ。今日充実して生きていない奴は、明日も充実して生きられるはずがない。生きる事の本質を私たちは知らないまま、誰かと一緒になり、結婚し、そして子供を産み育てて、子孫を残している。自我が望むしあわせは、それがいつもそこに住む他の誰かの支えなしにしあわせではいられないところにある。そのしあわせは、しんきろうのようなもの。それをあえて理解するのなら、私たちは、もっと生かされている今を無駄にはしないだろう。何もかもが、終わった後で、はじめて思い知る。失ってしまった者の大切さは、そのありがたさは、失ってしまった後になって思い知るということは、なんとも皮肉なことだろう。私たちはそれぞれに自我を携えて生きている。たった今、起こっていることに気づくだけで、その日を真摯に生きられるのに、それができないのは、明日もある。いや、続いて欲しい、続くべきだという自我の願望の前にうちのめされてしまうからなのだ。
明日はあるかどうかわからない、そう自覚した人の中にこそ、生きることの本質を見つけられるような、そんな気がするのは私だけではないと思う。
その日一日を精いっぱい生きたい。思い残すことなく、そうしたら、きっと自我はその存在理由を無くしてしまうだろう。それは、叶わなかった願望、叶えられなかった夢、後悔、悲しみ、憎しみ、そして恨みや怒りに満ちている。そういった色々のものが、今日を精一杯生きることで、消えてゆくのなら、いずれそうならざるを得ない。
そして私たちはいつかは、気づくことになる。
束の間だからこそ、そのしあわせを十分感じることで喜び、感謝せずにはいられなくなること、その人の生きざまの責任は、その人自身が、死ぬときに負わなければならないこと。これだけは私たちに平等に与えられた好機であり、かつ、試練なのかもしれない。
でも‥
もしも風がふりむいて
ふりむいてもう1度
たとえひとときでもそのときにもどることができたなら‥
ああ…
そうなったらどんなに…
どんなに…
僕はしあわせ…」
完
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