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2011年8月

2011年8月26日 (金)

冬のソナタ

冬のソナタ」が日本で放映されたのは2003年でした。いまさら何をと思いましたが、自分の中で整理できずに今まできてしまいました。このままずっと整理できずに時間が過ぎてしまうのだろうか? と思っていたら、「ガラスの仮面(美内すずえ著)47巻」を買って読んでから、純愛の物語に一考したくなりました。

 「冬のソナタ」が日本の中年層を中心に感銘を与えたのはなぜなのか? しかも数ある日本の純愛小説をしのいで。

そのひとつに、これは初恋の成就のドラマであること。二つめにリュウさんの音楽とドラマの中の自然の壮大な絵画のような風景とが観る者を惹きつけたことにあると思います。よく、初恋は実らないと言いますが、現代の若者は初恋を初恋でちゃんと終わらせている人たちが多いのに対して、その両親世代以上では、付き合ったことも、思い出となる会話も数多くしたこともなく、過ぎ去っていった苦い経験がある人が多いのではないでしょうか。

初恋は、当然ながら、世間を知らない若者が初めてする恋であるから、当然そのほとんどは純愛に結びつきます。残念ながら、その初恋を純愛として成就させた人は殆どいないのではないかと思います。そういった意味で、この「冬のソナタ」は、純愛を成就させたドラマとして、非常に人気が高かったのだと思います。また、主人公の配役や、音楽の選択性、ドラマの設定が恋愛ごとに限定しているところなど、作品の評価を高めている要素は随所にみられていたと思います。

観る者は、自分が青春時代に叶わなかった初恋の淡い思い出を、そのドラマを観ることによって叶えてくれ、満足させてくれるものであったということです。

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2011年8月21日 (日)

実存の深みに(6)

自我は世界を作り出す。

私たちは、関係性の中で生きている。もし、私たちが無人島で独り取り残され、そこで何日も過ごさなければならないとしたら、そのうち私たちはいろんな幻想を抱き、そこに人がいるかのような錯覚に陥ってしまうだろう。そこでは気が狂わなければ、自我を保って生きていくことはできないのだ。

私たちは、お互いを必要とする。そして、このことが私たちを本来の私たちの実存(神の一部)から遠ざけてしまう。

執着がなぜいけないのか?

それは私たちを不幸にするからだという。

それまで依存していた人たちが亡くなったり別れなくてはならなかったりして、それまでの幸福から、不幸のどん底に突き落とされる。そこからまた、似たような依存対象を捜し続けて、ひとは依存相手を見つけるまで幸福にはなれない。

自分の内側を見つめ、あなたのどんなあり方が、自らを世俗的にしているかを見定めなさい。覚えておくことだ。あなたを世俗的にしているのは他人ではない‥

あなたは父親や妻に抱いている執着という感情のせいで、世俗的になっているのだ。

世俗的にならないことが、夢や幻の世界をつくらないことになる。

それは生まれては死んでいくこの有限な世界からの卒業という事になる。

宗教とは、あなたの意識の変容だ

自分が変わらなければならない。そして、物事の執着から離れていければいけるほど、真実の世界が開けてくる、人は自分自身の何物かを知るようになる。神の側にいられるようになる。

独りあることの至福を体験することができるようになる。それまでは、他人の言動一つ一つに喜んだり悲しんだり、傷ついたりして生きていかなければならない。

‥あなたは、自分だけが存在し、ほかには誰もいない中心へと、向かわなければならない。

そしてこの中心は素晴らしい。この中心を体験する人は、大洋の深みを体験するだろう。

(太字:和尚)

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2011年8月13日 (土)

実存の深みに(5)

私たちは日頃、狭い自我意識のなかに閉じ込められて、あくせくと生活している。私たちの本来の意識の在り方というものはもっと普遍的で、広大なものではないかという気がするのである。

この広大な意識の領域から私たちは、個々に個別意識を持ち、分離されたという感覚を持って男女の交合の中に仮の魂として入っていく。その仮の魂というのは、個人個人が記憶の潜在下でうごめいている過去の思考の集まりやさまざまな出来事に対する感情の記憶なのではないかと思う。

「自我」は、私たちのなかにあって、その個人を特徴づける中心的なものである。それでいて、それは没個性的である。それは誰もがそれぞれの時代のなかで一様に競争する人間社会の価値観のなかで生き延びようとする本能と結びついているからに他ならない。

権力や名誉、セックスは単に誰もが求める本能であるばかりか、それは個人として生活者として生き抜く事を目的とする意識的主体が「自我」なのだろう。

そうした「自我」に支えられて私たちは生きているのであるが、一方で私たちは、それぞれにユニークな存在である。ユニークとは、それこそ各人がそれぞれに「世界にひとつだけの花」というかけがえのない存在という意味である。このユニークさとは、単に身体的な特徴とは別に、個人の精神的内面性の開花を目指すということでは、「個性」的である。

個人の全面的開花とは、この内面性、潜在的な個人の資質の開花であり、それこそ、全体としての神の多面性を象徴するものである。

私たち、ひとりひとりは、神の一部であり、神の表現の一部となっている。それゆえに社会は、個人ひとり一人の資質を伸ばし、開花させようとする場を提供しているようにも思える。そして自我は、誰もが持っている生存のための意識装置ではあるが、個人に与えられた神の資質を実現化させようとすると、障害物にも成りえるのである。だからこそ、自我を意識しつつも、それを超える自己覚醒が求められるのだろう。それは自己の奥深くに存在する、神と共にある無、超意識の状態なのだろうか? その状態は覚醒した者のみが知る体験なのかもしれない。

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2011年8月 6日 (土)

実存の深みに(4)

それぞれの想いを持つ「自我」は、思うに一種の記憶装置ではないかという気がする。

この記憶装置が、それぞれの人生で叶わなかった願いごとを引きずって、次の人生で完結しようとする。

自我は自分の物語を最後まで完結させたい。

この

私の中のこの考える自分というものは、不幸の源であるのだから、取り去らねばならない、という理由で人は「自我」というものを放棄しようとする。

ヨーガの思想は、瞑想の様々な技法を駆使して、この自分というものをいかに取り去り、本当の自分に目覚めるかに関わってくる。

しかし、自分を無くすことばかりに目を向ければ、却ってそれが執着となり、障害になって、本来の目指すところの「道」にそれてしまう。

思うに、自分を無くすことによって本来の自分が甦ってくるのではないだろうか?

より正しくは、自分の中の「自我」を認識し、それを客観的に眺めようとする自己の視点が必要なのだ。その視点をもたらすために、瞑想というものがとり行われている。自分の中の自我に振り回されることがなかったら、本来の神様から分け与えられた種子が自分のなかに芽生えはじめるのではないかと思うのです。それが「本来の自分」ということなのではないかと思う。

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2011年8月 1日 (月)

実存の深みに(3)

私たちはこの世界で、しあわせなことも数々あるが、それに等しく、またはそれ以上に悲しい事、苦しい事やつらい事が多いのはなぜなのだろう?

それぞれが、それぞれの想いを持ち、それぞれの世界観を持っている者が集まって作られたこの世界は、似たような考え方をした数の多い人たちの勢いによって展開されていく。そして、この世界は自我を中心に、各人が競争し合って、自己主張し、自分の夢や利益を追い求める世界でもある。

そうならざるを得ないのは、この世界では誰もがせいぜい100年前後で死んでしまうからだ。この有限の生を与えられた私たちにできることといえば、限られた一生の間に自分がどれだけ幸福でいられるかが最優先される。他人の幸福のことまでかまっていたら、一生があっという間に終わってしまうというわけだ。

もし、人間の生が、いや生き物の生がこの先もずっと永遠に続くものであるという認識をどこかで得られたのなら、生き方に対する姿勢もずいぶんと変わってくるのに違いない。

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