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2011年7月

2011年7月24日 (日)

誰のために?(2)

西洋社会では、自立するのが大人のしるしなどとされてきたが、たとえ経済的に自立できたところで決して精神的に自立しきれるものではない。西洋の社会は、人格神とのひとり一人の契約によって結びつく社会であった。

日本人である私は、この母性的な日本の中で、母のなかでみんな兄弟姉妹としてお互いに支えられ、依存しあって生きてきた、そしてこれからもそうであり、決して誰誰かからの自立などと訴えたりしないのが自然な生き方であるように感じる。

わたしのしあわせは身近なあなたに依存しており、あなたもまた然りである。

わたしたちは、このお互いに共存する社会の中でね誰ひとりとして自立しておらず、自分とあなたとの関係もあいまいなままである。それは、ひとはそれぞれに神の分身である所以であるようだ。

身近な私を支えているのは身近なあなたであり、あなたに支えられていることに感謝することが、もっともしあわせを感じる生き方であると感じています。そう考えると、いつもネットで繋がっている第三者とも、もし身近に感じることができれば、そのひともわたしの一部であり、と同時にそのひとの一部にわたしがなるのであろう。

そうやってわたしとあなたとの心理的境界が薄れていく過程で、人は感動し、それが水面に波打つように世界に少しずつ浸透していくのかもしれない。

自然の山々を前に感動したことも、それがわたしという自分を忘れる一瞬であった、その一瞬は自分という存在が消えてゆくのではなく、あたかも目の前の自然のなかに吸収されつつ一体となったかのような錯覚を覚えた。その拡がりの無限の真実の世界を前にして、どこどこまでも奥行きのあるその大いなる存在に憧れるとともに、怖れるのである。

ひとはその感動を覚えるたびに、神(永遠の存在)のもとへ帰還していっているのかもしれない。

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2011年7月13日 (水)

誰のために?

今回の大震災による影響で、付き合っていて結婚しようと決意する人たちが増えてきているのだという。

思えば、私たちはいったい、誰のために働いているのだろう?

自分が生きるために働いているのだろうか?

そもそも自分がいきていかなければならないのはなぜなんだろう?

もっともらしいスピリチュアルの教えには、魂の成長のためとか、前世で叶えられなかった夢の続きを実現するためにとか、それもこれも感動するためなのだとかいう。

自分の感動したことは、自分のみならず、他の誰かに対しても影響するはずである。

もし自分が感動するために生きているのだとしたら、それは他の誰か抜きでは考えられない。他の誰かにしたことで、人は自分に対してしあわせを感じる、そういう生き物である。

誰かにほめてもらいたいというのも、他の誰か抜きにはほめてもらったときの喜びを得られないわけである。

自分だけが満足するという自己完結的な幸福論などあり得ない。自分のしあわせを願うのだとしたなら、それは自分のしたことが、身近な誰かの喜びとなって結実するような行いのなかにこそ、しあわせは見つかるものである。

そうして、人はようやく、「好きな人と一緒にいられること」の喜びこそがなによりもしあわせなのだと、今回の震災を境にして、より強く思ってきているようです。あなたが要るから生きられる、ではなくてあなたが居るから生きていけるのです。そのあなたがいなくなったら、また人は誰かを求めて放浪しなければならなくなる。しあわせにしてあげたいと思える人がいないことほど、虚しい人生はないのです。

同時に、ニュースに家族の死に別れ、行方不明などで今もとてもつらく悲しい思いをしている人たちのことを思うと、なにもいえないでいます。どうかよきめぐり合いを。

自分だけの世界にいくら感激を覚えるものがあったとしても、それには限界があり、この感動を他の誰かに伝えたい、誰かと共有したいという欲求が存在するのも、「しあわせとは、独占物ではなく、共有することのなかに」あるのだと言えましょう。

当然のことながら、自分という神の分身は他者という同じく神の分身によって支えられ依存しあって生きている、いや生かされているのです。

だからして、家族という形は、たとえ時代がどう移っていこうと、その身近な相手の存在、そして相手の中にある神を敬い、感謝するための基本単位である。たとえ地域社会がどう変わっていこうと‥。 

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2011年7月 2日 (土)

実存の深みに(2)

和尚曰く

神とは、あなたの意識の究極なる至福の境地だ。神は人物ではなく、体験だ。だから神に会うか、神に会いに行くとか、、、、神があなたの前に立ち、あなたが神にまみえる会見といった意味で、神と対面することは決してない。あなたが見ているものは、すべて空想だ。

あらゆる空想や思考が意識から消え去ったとき、あなたは突如として、自分がただこの無限の世界、この存在、この宇宙の、生きている一部にすぎないことに気づく。

心臓の鼓動は、全存在の鼓動とひとつになる。呼吸は存在とひとつになり、生命力は存在とひとつになって脈動する。いかなる境界も残らず、あなたと存在のあいだには何の違いもない。

私たちの自我は、その人の数だけの世界観を作っている。それら似たような世界観が集まって幾つもの宇宙を形作り、さまざまな物語を展開している。しかし、私たちのこころ、すなわち、わたしたちの自我が生み出す世界は、つかの間の移りゆく限られた時間の世界であり、それは幻想である。幻想というのは、それが永遠に続くものではないという意味で幻想なのだ。

もし、真実の世界があるというのなら、それは過去も現在も未来も有り続けるだろう。そうした世界はこの時間空間の外にある。というよりも、この世界のより深いところで支えているものが真実の世界であるように感じる。私たちは、決してそれに気づきはしなくても、それに支えられて生かされているのである。私たちは真実の世界を見ているのではなく、一人ひとりが、自分の思い思いに描き、導き出した限定的な世界のみ認識しているのではないだろうか?

もし、私たちひとりひとりが、この無限の世界の一部であることを悟る時が来るのなら、、そこから見えるこの世界は、ネット上で醸し出す仮想空間で遊んでいるアバターの姿となって映っているのかもしれない。だとしたら、永遠に存在する世界の住人である、本生の私たちはどこにいるのだろうか?

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