誰のために?(2)
西洋社会では、自立するのが大人のしるしなどとされてきたが、たとえ経済的に自立できたところで決して精神的に自立しきれるものではない。西洋の社会は、人格神とのひとり一人の契約によって結びつく社会であった。
日本人である私は、この母性的な日本の中で、母のなかでみんな兄弟姉妹としてお互いに支えられ、依存しあって生きてきた、そしてこれからもそうであり、決して誰誰かからの自立などと訴えたりしないのが自然な生き方であるように感じる。
わたしのしあわせは身近なあなたに依存しており、あなたもまた然りである。
わたしたちは、このお互いに共存する社会の中でね誰ひとりとして自立しておらず、自分とあなたとの関係もあいまいなままである。それは、ひとはそれぞれに神の分身である所以であるようだ。
身近な私を支えているのは身近なあなたであり、あなたに支えられていることに感謝することが、もっともしあわせを感じる生き方であると感じています。そう考えると、いつもネットで繋がっている第三者とも、もし身近に感じることができれば、そのひともわたしの一部であり、と同時にそのひとの一部にわたしがなるのであろう。
そうやってわたしとあなたとの心理的境界が薄れていく過程で、人は感動し、それが水面に波打つように世界に少しずつ浸透していくのかもしれない。
自然の山々を前に感動したことも、それがわたしという自分を忘れる一瞬であった、その一瞬は自分という存在が消えてゆくのではなく、あたかも目の前の自然のなかに吸収されつつ一体となったかのような錯覚を覚えた。その拡がりの無限の真実の世界を前にして、どこどこまでも奥行きのあるその大いなる存在に憧れるとともに、怖れるのである。
ひとはその感動を覚えるたびに、神(永遠の存在)のもとへ帰還していっているのかもしれない。
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