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2011年5月

2011年5月28日 (土)

平行宇宙(2)

先ほども言ったように過去のある一点に遡って二者択一の選択を変えれば未来が変わるという話である。私たちの住む地球は実は、無数の他の平行宇宙が展開するなかの一つの姿に過ぎないとするのが平行宇宙論である。そこでは、可能なことは全て起きるという素粒子の確率論から導き出したひとつの推論であった。

平行宇宙の概念を簡単に要約すると、ここにAという会社に就職するか、Bという会社に就職するか迷っているとしよう。その後の彼の人生はどちらかを選択することによって大きく変わるわけであるが、わたしたちのこうした選択は何も大げさなことではなく、日常に至るところで見受けられている。そうした「あれかこれか」の選択状況でとちらを選んだにしても、そこから、それぞれに宇宙が枝分かれして続いてゆくというのが平行宇宙論である。そうして、宇宙は無数に分岐して展開していくというのだ。

可能なことは全て別の平行宇宙で起きているとするならば、そのときの自分の思い描いたことはすべてどこかの宇宙で起きていることになる。つまり、その時々に自分が想い及んだことはすべて、無数の世界にいる自分が体験していることになる。

「タイムトリップ」を読んだ当時は、それならば人を殺した人は、別の宇宙

で他人から殺されているに違いない、と思い、そうして世界が完全であることを自分に言い聞かせて納得したものである。

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2011年5月21日 (土)

平行宇宙(1)

私たちは、過去の出来事に対して、あのとき、こうすれば良かった、ああしておけばよかった、と取り返しのつかない過去に対して、違った選択をすれば、今の自分もきっと違っていただろうと思うことがある。もしも、時間を遡れるのなら、あの時に戻ってやり直したい、と誰もが思っているはずだ。

時間という概念が一方通行なものなのか、それが覆される時がいつ訪れるのかわからない。

しかし、ここに平行宇宙という、時間の概念がアメリカの物理学者より語られてから久しい。私の子供の頃は単なるSFでの物語だったのが、このところの科学雑誌の世界では真実味を帯びた仮定論として紹介され始めている。

もともと、「タイムトリップ」という学研の雑誌から、この平行宇宙論なるものを知ったのであるが、ここにきて、バシャールが本田健氏との共著「未来はえらべる」で地球の将来が幾つもの道筋で極端にネガティブな世界から極端にポジティブな世界へとシフトするという話のなかで説かれている。その,ネガティブな地球の未来の姿と、ポジティブな地球の未来の姿という両極端な未来の地球の姿を両端として、その間に数多くの平行宇宙が存在するものとバシャールは言う。

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2011年5月14日 (土)

自分自身の創造(6)

この世界は、正確にはこの三次元の世界とは、私たちがやろうと意図したことを実現するための場所である。そこでは映画館のスクリーンで上映されている映画を観る行ないに似ている。

私がこのような考え方に惹かれるきっかけは「四次元の神秘:橋本健著」の内容を読んでからだった。

「観客席の三次元のあなたの方が本物なのです。しかし、長く面白い映画を見ていると、映画上の主役と、見ている自分と一体になって、主役が危ない目にあうとハラハラするでしょう。それと同じで、本当の自分はスクリーンの二次元でなく別の三次元の観客席にいながら、スクリーン上の二次元の影こそ本当の自分だと思って、ハラハラしたり、影の運命にしたがって一喜一憂してきたのが、われわれの今までの人生なのです。」

映画はみんなが参加して作られる。このみんなとは、映画の内容に賛同し、参加しても良いと思ったひとたちの集団のことをいう。また、自分で映画の内容のシナリオ作りにも参加することで、同じ世界を形作っていくのである。

私たちは、自分で未来を選べるのである。それは自分がどれだけ観客席にいる本当の自分を意識しているかに関ってくる。もしも、観客席の自分自身を完全に知ることが可能ならば、他者の作る映画に参加するだけでなく、自分の映画で一つの世界がつくられる。そうして、わたしたちは自分自身に対する、認識、意識度合いに応じた世界で自ら演技者として生きてゆくのである。

面白いことに著者の橋本健氏は、物理学者で工学博士である。物理学専攻の著者が昭和40年代にこのような本を出したところに、いまもって感嘆しています。

人生は映画である。そして、次に上演される映画を、われわれの心の傾向が、類は友を呼ぶという親和の法則によって、知らず知らずのうちに選んでいるのです。」

「」内、引用

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2011年5月 8日 (日)

自分自身の創造(5)

人はそれぞれに自分の人生の脚本家であり、演出家である。

私たちがその事実に気づく事によって、「私の人生」というものは、より彩りを増すものになってゆくだろうことは想像に難くない。

誰かに踊らされ、させられている、という意識状況においては、私は自分の人生を必ずしも謳歌していない。それはいつも他人の視線や評価によって自分が造られてしまい、その作られた自分自身にがんじがらめになっている状態だからである。そこでの私の人生の責任の主体はあなたであり、他人である。

一方で、自分で描いたシナリオを自分自身が創造し、演じるということは、とても楽しく至福に満ちている。そこでは私は「自分の人生の創造者」であり「人生の演技者」でもあるからだ。そこでの責任の主体は私自身である。

至福にいたる人生とは、この人生の創造者と演技者が一体となって自分のドラマを展開していく状態をいうのではないだろうか

?

そして、そのときにこそ、「わたし」と「あなた」との境界が次第に溶けてくる。そこに至ってこそ、自分とは何者なのか? 私とは誰なのか?  ‥‥ 見えてくるような気がするのである。

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2011年5月 1日 (日)

自分自身の創造(4)

そうした社会、その成果にたどり着くまでの過程において、如何に自分自身に正直に生きてきたか、誠実に生きてきたのか、がいつも、そして真に問われているのです。

人間の残してきた歴史を軽んじる者ではありませんが、いつの時代でも、常識に捉われてきた人たちは歴史ばかりを重視する。過去の歴史にもし、学ぶものがあるとすれば、実直に生きてきた人たちの足跡だろう。

歴史が動くとき、それを動かしてきた人たちの「自分自身の誠実さ」についてはあまり語られてはいない。けれど、人の心を動かしてきたものは、「自分自身に正直に、そして誠実に生きた人たちだったように思う」なぜなら、その人たちは、私たちが臆病なためにできなかったこと、つまり「自分自身に正直にそして、誠実に生きる道」を自己信頼への情熱とともに歩んできたのだろうから。

歴史は、同じように生きてきた人たちの足跡だけで描かれるのではなく、群衆のなかに埋もれてしまった自分を発見しようとしてきた人たちとともに動かされてきたものだ。しかしその変化は創造的な変化であり、それがこの先、進化と呼べるものになるかどうかは定かではない。また、それを知りえる手段もなければ知る必要も感じていない。

それよりも私たちが、一人ひとりに問われているものは、のっぺらな石膏、または取るに足らない木片から、自分自身の作品を掘り起こしていかなければ真にしあわせでいることはないのだということ。そして、真のしあわせとは至福のことであり、それは永遠に通じている何かであり、その事実を私たち人間ひとり一人が気づいていく必要があるのだということ、なのだと思う。

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