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2011年4月

2011年4月24日 (日)

原子力発電

原子力発電を続けることについ先日、NHKの世論調査?[現状維持]と「止めるべき」と答えた人が、合わせて44%になった

一部の調査なので判断はできませんが、これだけ自国が危機に瀕しているにも関わらず、過半数に達していない、そして原子力発電をやめるべきという回答が2割程度というのはとても残念に思います。

今回の原発事故で、明るみに出た国と電力会社の癒着が浮き彫りにされたにも関わらず、

です。

国民がこぞって原発廃止になぜ賛同しないのか、恐らく原子力発電所で働く人々の実態をあまり知らないからなのだろう。

安全を強化すれば安定した電力供給がされるという政府の表向きの見解にも関わらず、原発稼働の危うさがこれまでに何度も露呈してきたいきさつがある。

作業員の労働環境や、原子炉の点検体制が企業利益優先のためにないがしろにされてきたのではないかと、疑いを隠せない。

国の電力供給の約30%が原子力でまかなわれている現状で、人々は生活様式や水準を落として、不自由な暮らしになってしまうのが嫌なのだろうか

?

なるほど原子力産業は単に、国や電力会社だけでなく、銀行や投資家、関連する中小の下請け企業、そして原発を受け入れる自治体を潤してきた。そうした人たちにとって原発は推進すべきものである。しかし、原発の恩恵を受けてきた人たちはほんの一握りの人たちであり、しかしいま福島では、その恩恵にあずかるどころか、自分の土地にさえ住めなくなってきてしまっている。

自分たちの今の暮らし向きが良ければ、未来のことはどうでもいいのだろうか

?

使用済みの核燃料のなかに自然界では存在しないプルトニウムが存在しているという。そこから出す放射性物質が収まるのは何万年以上も後の話だ。だとしたら、そうした核廃棄物を一体どこに埋めようというのか

?

誰も自分たちの住んでいる近くの土地の地中に埋めて欲しくはない。その処理問題さえ解決していないのだ。それよりも、原子炉が稼働すればするだけ核廃棄物が出てくる現実があり、このことは、未来に生きる子孫に対して安全に過ごせる土地や環境を奪い去ってしまう行為でもあるのだ。

日本中の、いや世界中のどこかで絶えず放射能が微弱ながら出ていたとすれば、少なからぬ影響は免れない。未来に生きる子孫のために、そして生まれ変わる私たちのためにちゃんとした環境を残しておくのが我々の責任であると思う。

いまさえ良ければという考え、自分たちさえ良ければという考え方は、ゆく先の自分たちの首を絞める事につながっている。

一方で、地球が、この人間という生き物の支配する世界を一度整理したいと思っているのだろうか

?

世界は、今この地球で生きる人々の総意で動いている。だとしたら、否定的に考える人たちの想念が強ければ強いほど、人類の未来は暗いものになる。

私たちは、ひとり一人が、どうしたら地球で住み良く暮らせるかを、まず考えて行動していかなければならない。安心して住む事の出来る土地がまずあって、そこからでしか、それぞれの夢や希望を語り、進んでいくことはできないのである。

今さえ良ければという考えでは、結局、未来の自分たちに夢や希望を語る安心した活動の場すら奪ってしまうことにつながっていくのではないでしょうか

?

私たちの今の状況は、事故に対する防衛ができていないだけでなく、きちんと核廃棄物を処理する知識さえも身につけてはいないという、恐ろしい状況なのである。であればこそ、果たして原子力発電を続ける資格が、その恩恵を受ける理由が私たちにあるのでしょうか

?

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2011年4月17日 (日)

自分自身の創造(3)

人は、それぞれ生を与えられたときから、自分に与えられた「自然」性を生きるようになっていた。社会は、それに対して、厳しい試練を課す。それに耐え、それでも見失われなかったもの、そこから生じてきたものこそが自分自身の創造物である。そして、自分で自分を創造することの喜びが、彼や彼女の生活する社会を豊かにしていくのである。

そうした成熟した社会は決して夢や幻ではないのだと感じる。

つらい出来事や、数多くの苦難には遭遇しないことにこしたことはない。しかし、そういうものに出遭わなければ、人間としての成長、意識的な深化とでもいう成長が止まってしまうのも事実である。ひとは、その深い悲しみの出来事によって、真に大事なものは何なのか、理解を深めていき、他人のつらさを自分のつらさと受け止めることができてくるものである。そういう意味では、ひとは乗り越えるべき試練は、誰にでも起こるものとして受け止めなければならないのだろう。

私たちはそうしたお互いの価値観や個性を認め、受け入れてなおも、共生し、共に相手のために祈ったり、相手のしあわせを願うことが常識となるような成熟社会に、いつかはたどりつきたいと願う。

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2011年4月10日 (日)

自分の創造(2)

社会生活において、私たちが成されるべき成果、目標になどなり得る価値とは何なのだろうか?

個人の努力が実ることもあれば、実らないこともあるというのが社会だ。その社会は、実は様々な個人的な野心が飛び交う人たちによって作られてきた。

社会が作り出すルールはいつの世にも一部の人たちにとって都合の良いように作られてきた。しかし、世俗とはそういうものだ。

しかし、同じ世俗でも、皆がお互いの個性を尊重し、お互いに個人の利益を超えて支え合えるような社会はないのだろうか?

そうした社会の実現には、お金や権力、富といったものがこの世の豊かさの指標とならないことが必要である。人間関係の結びつきに個人の幸せを実感でき、それが個人の豊かさの指標となるような社会でなければ実現されないと思う。

どんな社会を作るのかは、政治家や、役人任せではなく、ひとりひとりが、自分なりのビジョンと意志に従って行動することから始まる。社会とはまさしく、それぞれが、それぞれの活動の総和の産物であるのだから。

ひとは、社会のルールに従って生きるのではなく、自分の指標に従って生きることが大切だと、過去の賢人は言ってきた。それは、他人から強いられた行為の強要は、自分自身を損ね、破壊していくものだからだ。その結果、世の中の治安が乱れていく。

誰も最初から、自分というものを見失ってきたのではない。人は自然のなかから生まれ、そこからその時々の社会によって教育され、その社会の一員となるべく、型に押し込められてきた。そのひずみが、反社会行動となって現実に反映されてくる。

社会とは、人間の心の健康状態を如実に表現しているのではないかとよく思う。

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2011年4月 3日 (日)

今、問われているもの(2)

現代の社会は、科学技術の進歩とともに、生活が豊かになり、どこへ行くのにも時間が短縮され、誰に会うのでもわざわざ出向く必然性がなく、インターネット電話ですぐに会えるようになった。個人のプライバシーが守られ、やりたいことの多くは瞬時にして叶えられるようになってきた。

本当にそうだろうか?

天気予報の番組一つにしても、じっくりと週間天気を確認する間がなくなった。そんなもの、デジタル番組の情報データでいつでもみられる? だろうと、言われた。

身近な人が亡くなった時の告別式の後、ゆっくりと悲しむ暇もなく、単に特別休暇を消化されるだけの期間しか休みがとれないサラリーマン。

私たちの多くは、日頃から仕事を抱えている人たちが多く、その仕事中心の生活が、家族とのゆったり過ごす時間を奪い続けてきた。戦後から続いてきた、この家庭を顧みないサラリーマンの活躍によって、成長を続けてきたこの現代社会が成り立っている。

豊かな暮らしになったはいいが、愛情を育む家庭の生活を犠牲にしてきた。

その代償は今の私たちが考えるよりも大きい。

「想定外」の出来事が起きてしまった。震災という、この出来事は、決して偶然なんかじゃなかった。私たちが、豊かで快適な暮らしを推し進める上で、考慮に入れなかったことが起こっただけのことである。

震災がもたらす意味のひとつは、今の暮らしぶりを根底から考え直す必要に迫られているということだろう。もし、今まで通りの生活様式を今後も押し進めていこうとするのであれば、人々はもっと苦しむ状況に追い込まれるかもしれない。震災は決して起こって欲しくないものではあるが、今、自分たちの新しい生き方への気づきが芽生えつつあるのも事実であり、その芽を摘み取ってはならないのだと思う。

震災によって、早く進み過ぎた現代文明に警告を鳴らしているのかもしれない。それは、科学文明と、こころの文化とのかい離が進んできていることのしるしなのかもしれない。

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