« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月

2011年3月27日 (日)

今、問われているもの

今回の震災で日本は何を問われているのだろうか?

震災直後から、円の需要が見込まれるものとして円高が進み、これは投資家がこの後に及んでも自分たちの利益のみを優先するという必然の結果であった。

世界は、いま心ある人たちと、そうでない人たちとの分化が明確に進んでいるように思われる。そして、自然災害は、善悪の判断基準を持たない。この人は優しい人だから救ってやろう、この人はこころ冷たい人だから罰を与えよう、ということにはならない。

人間の持つ善悪の基準が、自然災害の前では通じないのだとしたら、そこに生きていく意味はあるのだろうか?

死んでゆく人たちの代わりにこの災害で生きていく苦しみ、その悲しみを引き受けなければならない私たちは、何ができるのだろうか?

人は改めて生かされているのだとつくづく感じる。

人は自然の前にはあまりにも無力であるとつくづく感じる。

私たちは、文明にたいして、科学技術に対して、そして自分自身に対して、おごり高ぶっているのではないだろうか?

私たちは、他の誰かが欠けても、何一つ満足に生活を続けることができない人間であることを再認識するのならば、自分たちは、それぞれ、お互いに支え合い、もたれ合って生きていく存在なのだと感じさせられる。

家や、持ち物、家財道具をすべて津波でさらわれていっても、後に残るもの、それこそが本当の宝物であるような気がする。

「ただ、生きていて欲しかった」

その言葉を聞いたとき、とても深い悲しみが襲ってきた。

ひとは、誰かとつながり、そのつながったひとつひとつがかけがえのない宝物であり、財産なのである。それを断ち切ってしまうほどの自然災害を憎んでもどうしようもない。

ひとりひとりのつながりの中に、思い出とともに築いてきたこころの絆は、たとえ、今生で断たれたとしても、また生まれ変わった時に、引き継いでいけるものというかすかな希望を抱いて、震災に見舞われた方々への励ましの言葉としたいです。

身近な誰かに起こったことは、自分のこととして受け止めたい、その深い悲しみは決して無駄ではなく、今なにが一番大切なものなのか、震災に遭わなかった人ひとりひとりにも問われているような気がしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月12日 (土)

自分自身の創造(1)

私たちは、人生のどこかで身の回りに起きる多くの出来ごとにより、自分の執着しているもの、変わらないで欲しいと願うものが実は、そうではないことに気づくことになる。もし、その時が来たならば、実は、私たちが生きる支えとなっているものが絶対的であり、永遠のものではないことに言いようのない虚しさと深い悲しみを味わうことになる。

世の中が移り変わっても、決して変わることのないもの、生死を超えて自分自身とともにあるものを捜し出そうとする試みは、誰にでもやってくるのではないだろうか?

和尚語録で

「人間のもっとも偉大な創造物は自分自身だ。  人間のもっとも偉大な創造は自己実現だ。それ以外に人が創造するものにはさほど価値はない。それは水に線を描くようなものだ。しかし、人間の側につくり出すもの、自分自身を生み出すことは、石を彫るのに似ている。それは決して消えさることなく、永遠に自分自身とともにある

と述べられている。

私たちが目指す人生の目的地はどこなのだろう。その問いに対する答えの手がかりがここにあるような気がする。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年3月 5日 (土)

群衆から個性へ(4)

私たちは単なる物知り、知識人であってはなりません。他のひとよりたくさんの情報があるとか、より物的に勝っているとか、博識であるとかが個性的なのでは決してありません。

自分の感性を磨き、自分自身の「核」を絶えず意識して、その節々の体験のなかで、自分なりにどのような問題意識を持って、どのように気づいたのかが、そのひとを個性的に創り上げる唯一の手段なのです。

自分のことは、自分に聞けばいいのです。そのきっかけを与えてくれるのが他人であり、社会なのです。良い意味での個人主義とは、相手と比較し、競争するのではなく、いかにして自分自身の物差しを持ちえるのかということです。

私たちは、群衆という社会的存在の「誰でもない一生活者」から、個性化した「誰でもない神の代弁者」を目指さなければけっして永遠の存在に気づく事はできないのです。

この世界で個性化した自分が目指すものは、「かけがえのない人間」であり、神的な永遠の真理であり、永遠の自己存在です。個性化はそうした魂を見つけ出すための、永遠の真理へ至るための窓口であり入り口もあるのだと思います。私たちは今、気づこうと気づくまいと、誰もが「個性化」へ向かう人間として生かされているのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 1日 (火)

群衆から個性へ(3)

群衆とは、いまだ人間が、永遠の存在へ至るための門である個性化へと向かう以前の「誰でもないひと」を指します。

一方、個性的な人というのは、独自の意識を拡げていき、その広がった意識のなかでも、自分自身を決して見失わない人です。その自分自身こそが、永遠へと広がる神秘の領域に立つ唯一の視点であり大切なものなのです。

私たち群衆は、個性的になるべく生まれてきました。しかし、過去には情報不足のために、今は情報過多のために個性を作り上げる機会を奪われてしまっています。その人が真に個性的であるかどうかは、何をするにも、なにを考えるにも、その人なりの動く事のない視点をいつも持ち合わせているかどうか、ということだと思います。それは日頃きづくことがなくても、その人の意識の底にいつも流れている「何か」です。ひとそれぞれの持つ「核」とか「芯」とでもいうべきものです。誰にでもそれがあるわけですが、それがないと、人は個性的に生きていくことができません。

いわゆる私たち群衆は、その芯が日頃の生活によって曇らされてしまっています。ですから、その曇りを取り払う事で人は自分自身に目覚めていくことができるものと予想されます。それはつまり、ひとはその自分の「芯」を意識していけば、次第にそれは成長していくのだということです。

今ある自分の意識の曇りを取り除いたら、いいのでしょうか

?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »