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2011年2月

2011年2月24日 (木)

群衆から個性へ(2)

その人が生きる間に獲得したものの考え方や情緒性など人格の部分はいかようにも変えられます。この変えられる部分で人の個性が決まってゆくものだと思います。

人はそれぞれがその状況におけるあれかこれかの選択の連続です。何をするにも、何をやらないにしても、その限られた時間の節々で、行為の意思決定を行うのは自分であり、その自分自身によって個性が作られていくものではないでしょうか

?

例えば、冬に降る雪の結晶は、その形成するまでの環境によって十種類以上もの違ったパターンの雪の結晶を創っているといいます。それと同じように、ひとはそのおかれた環境の中で、意思決定をし、それによってまた環境を自ら変えていき、変わった環境の下で個性が作られて更新され、そこでの自分がまた、意思決定をし‥ というふうにひとは自分の個性を形作っていく存在です。

人の個性とは、ひとり一人が歩んだ道のりで、気づきあげてきた自己意識の城なのかもしれない

ところが今の私たちは、お互いの行動にばかり過剰に関心を寄せるあまりに、群衆であることからなかなか抜け出せません。

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2011年2月19日 (土)

群衆から個性へ(1)

その人の個性とは何でしょうか?

その人の個性とはその人の身体的特徴、雰囲気や性格、対人関係での反応性、その人の持つ資質、能力、人柄などの人格をひっくるめて述べたものでしようか。

個性は、生まれた時から備わっているものではありません。

遺伝的要素の強い、例えば身体の特徴、お酒に強いとかなどの体質などや、将来の病気要因などは、生まれつき決まっています。これはそのひとを特徴づける個性の一部と呼べるかもしれません。その意味では、ひとは既に「生まれながらにして個性的な存在である」ものと言えます。しかし、それでは他の動物の個性というものそんなに違いはないととらえることもできます。しかし、個性は同時に、ひとり一人が創り上げていくべきものだとも私は考えます。

個性とは、ヒトが動物から神の意識存在へと向かうなかで獲得していくべきものなのかもしれない。

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2011年2月14日 (月)

群衆と個性(8)

私たちは単なる「誰でもないどこにでもいる一人の人間」として、群衆の一員として生まれてきました。けれど、それだけではまだ「魂‥的存在」ではありません。私たちは一人ひとりがこの「魂の種」を花にまで育てるためにしていかなければ、真に魂として存在せず、そこにまで至らなかったことをいずれ後悔するものだと思っています。

この自然が私たち一人一人に与えてくれた「魂の種」に感謝し、この人生でそれを育てる義務があります。それは私たち自身が本来の自分に沿った生き方でもあるからだと思います。

情報に埋もれることなく、それを自分のために活用していきましょう。

それは自分が自分でいるために、そして自分自身に成るために必要な時間なのだと思うのです。そこにこそ「魂の開花」があり、そこに永遠の至福と神秘が隠されているような気がしています。

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2011年2月 9日 (水)

群衆と個性(7)

もちろん私たちはこれまでもそして、これからも神から与えられた個性を発揮するよりも他人に敷かれた人生を生きた方が楽なのかもしれません。またそのような生き方も決して無意味ではなく、それなりに満足のいくものだと思います。けれど

人生はそれよりももっと、自分に与えられた可能性を開花するために生きようとする人たちのためにこの生のステージを与えられているような気がするのです。

自分自身の気づきをもたらす生き方には、おおいなる魅力があると思います。

私たちは、いまここにいる生きかたよりも、もっとお互いの多様性を認め。お互いに光り輝き、生き生きしあいながら歩んでいく「生」の可能性について考えたことはないでしょうか?

今生きてる人間社会は、多くの生き方の枠組みの単なる一つを実現したものでしかないと思うのです。もっと多くの人が自分自身の内面に触れ、その個性を磨きあげれば、ひとりひとりの力は微々たるものであっても、その人たちが集まってできる世界の可能性について想像することは計り知れません。

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2011年2月 3日 (木)

群衆と個性(6)

私たちが生まれることも死ぬこともない自分を見つけないと、真に至福になれないというのも、「今、生きてる自分」がその本当の自分からみた、ドラマの主人公なのかもしれないからです。自分自身が主人公であるドラマを自らが作っていかなければならないのです。せっかくいま、そういう機会を「人間」として与えられている以上、直接関わりもしない他人の生きざまのドラマばかりみている人生をそろそろ卒業したいものです。

私たちは自分のドラマのシナリオを作れるのにどうして、いつまでも他人の作った映画の観客でいつまでも満足していられるのでしょうか?

それができるのは、おそらく自分自身にいつまでも気づこうとしない大衆だけではないでしょうか?

他人の生きざま、他人の作った映画から学ぶことももちろん、多々あります。しかし、現代の情報に流されてばかりいるうちに、「人間」として主体的に生きていく本来の自分の姿勢を忘れてしまうことがなによりも恐いのです。

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