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2011年1月

2011年1月29日 (土)

群衆と個性(5)

自分から感動し、自分自身喜びを味わうことの一方で、つらいことや深い悲しみを体験することも起きてきます。それらは感動することの両輪なのですから、片一方の悲しみだけを取り除くことはできません。喜びという性質を味わうためには必要な体験なのです。

この膨大な繋がりの中、テレビ情報やネット情報は個人が抱え込むには混乱をきたしてしまいます。

私たちは限られた時間の中で、それら情報の取捨選択を迫られています。

今の自分にとって必要な情報は何か、それを決めるのは自分です。他人の動向を気にする必要は一切ありません。それでも、親友が、その情報に詳しいから、自分も知っておかないといけないというのなら、そういう友達は親友でも何でもありません。

私たちは個々の特性、生まれつきの趣向が異なっています。両親の影響で、親と同様な職種に就くひともいますが、人の可能性は両親とかの意見や考え方、また、その地域の社会に左右されてはいけないものだと思っています。

天が自分に、自分が自分に与えた「魂の種」は何なのか、それは自分を深く見つめる根気が必要です。幸い、ネットでは自分が必要とする多くの情報が与えられています。その中から、自分が楽しくなるようなもの、自発的にやりたくなるようなもの、考えてみたいと思うもの、わくわくするものを追いかけてみましょう。ただ、自分に正直に、いられることが、自分の個性を伸ばしていく最善の近道だと思っています。

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2011年1月24日 (月)

群衆と個性(4)

主体的とか受動的とかは、人生のバランスを考えたとき、どちらも必要です。ただそれが、暇をもてあましている人、他にすべきことがあるのにそれに取り組まないでいること、そして自分の人生に真摯に向き合わない人たちにとって、これら娯楽情報や番組はとても大切な生き抜きのような気がします。

人生、生き抜きはときには必要です。しかし、いつも生き抜きばかりしていては、自分というものの歩むべき道筋がわからなくなり、ますます群衆の一人として人生を終えていかなければならなくなります。

群衆として生きていくのもそれなりに楽しくて悪くはないと思いますが、それでは、自分が自分として、生きている実感というか、感動する機会がそれだけ減ることになります。私たちは少なくても、自分が絶えず意識的に生まれ変わる経験のなかで、感動し、自らが自己更新していくという自覚のなか、自分自身でいることの喜びを味わうために生まれてきた存在です。

それを忘れて他人の幸や不幸に振り回されて生きていくことの無意味さにいつしか気づくことになります。

そうすると、いつも自分自身でいることが大切ですが、その自分自身でいるためには、成るべく「自分で体験し、その節々で何かに気づく」ことが大切なことのように感じています。そして、その時にしか、天からわたしという個別の存在に「真の知恵」が授かってこないのではないでしょうか

?

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2011年1月19日 (水)

群衆と個性(3)

私たちは、テレビの娯楽番組やニュースなどにかじりついて、世の中の動きばかり追い求める結果、自分の楽しみが個人主体ではなく、他人依存であることが多いことに気づかされます。

見知らぬ芸能人やらスポーツ選手やら海外の有名人やら珍事件やらに興味を抱かさざるを得ない娯楽情報番組を見なければいられない自分とは何なのか、その自分を見つめ直す必要に迫られています。社会の動きに影響され、世の常識にとらわれ過ぎて、自分自身が見えなくなってしまっている恐れがあるのです。

テレビ番組は、それを観る人たちの受動性が色濃くあらわしています。インターネットでは、その点自分で自分の必要な情報を捜しに行くので、主体的と言えます。ただ、ネットでの情報によって身に付けた知識というものも、結局は借りものに過ぎないといえます。

私はそのネット社会の危険性を感じつつも、なおも主体的に生きる術を自分で実践することを勧めます。

自分自身の真の知恵とは、外から与えられた情報や知識などからは決して得られないことを少なからず理解しています。では、真に知恵が下りてくるのはいつなのでしょうか

?

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2011年1月14日 (金)

群衆と個性(2)

私たちは、周りの人たちの集めた情報や知識ならなんでも知っておかないといけないという思い込みをし勝ちですが、テレビのニュースひとつをとっても、それは単に自分にとってどうでもよいことのほうが多いのです。その知識がなくても生活になんら有益な意味をもたらさないということです。

またある人々は犯罪ニュースや芸能人の不幸などを好んで知りたがるということもあります。それらは単に自分のいまの生活に、決して満足していない、またはしあわせを感じてもいない状態を隠すために、他人の事件によって「自分がまだましである」ことを確認したがる傾向の表れである場合も多いのです。

一部の人たちは自分が決してしあわせな状態でいないかね本音で自分は「こう生きたい」とか「こういう生活がしてみたい」と思っているのに、それに向かって行動していないか、いまの方が危険もなく安心だとか、楽していけるとかという理由で諦めていることがよくあります。また、自分が「何を世界に対して社会に望んでいるのか」または「自分自身どうしたいのか?」わからないために、行動を躊躇し、現実に甘んじているのが実情ではないでしょうか。

そういう私たちにとってテレビの娯楽番組や不幸のニュースなどは一種の疑似カタルシスとなっています。だからこそ、そういう番組や情報の存在を否定するつもりはありません。

けれども私自身、それで心から楽しんでいるのだろうか、と問いかけてみても答えは否でした。

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2011年1月 7日 (金)

群衆と個性(1)

このところ携帯電話の便利な機能の付加に驚いてしまうものがある。アイパッドなどインターネットの手段も色々活用できるようになった。情報の入手に便利になったのはいいが、私たちはそれを上手く活用しているのだろうか?

いまの時代はこの膨大な情報の流れを上手く自分なりに活用できている人たちと、ただそれらに振り回されているだけの人たちに分かれているような気がするのです。

どんな情報も、それらの多くはみんなで共有することができる。ということはその共有化によって、単なる「誰でもない人」という意味での群衆が増えていることにしかならないのではないでしょうか?

一方で、その情報を選択し、自分の色合いをつけ、個性を導き出す手段として活用している人たちは、着実に個性的に生きているということがいえます。ここで云う個性的とは、素直に自分のやりたいことを把握して、それに向かってやり遂げられるように努力や工夫のできている人という意味です。

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