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2011年1月14日 (金)

群衆と個性(2)

私たちは、周りの人たちの集めた情報や知識ならなんでも知っておかないといけないという思い込みをし勝ちですが、テレビのニュースひとつをとっても、それは単に自分にとってどうでもよいことのほうが多いのです。その知識がなくても生活になんら有益な意味をもたらさないということです。

またある人々は犯罪ニュースや芸能人の不幸などを好んで知りたがるということもあります。それらは単に自分のいまの生活に、決して満足していない、またはしあわせを感じてもいない状態を隠すために、他人の事件によって「自分がまだましである」ことを確認したがる傾向の表れである場合も多いのです。

一部の人たちは自分が決してしあわせな状態でいないかね本音で自分は「こう生きたい」とか「こういう生活がしてみたい」と思っているのに、それに向かって行動していないか、いまの方が危険もなく安心だとか、楽していけるとかという理由で諦めていることがよくあります。また、自分が「何を世界に対して社会に望んでいるのか」または「自分自身どうしたいのか?」わからないために、行動を躊躇し、現実に甘んじているのが実情ではないでしょうか。

そういう私たちにとってテレビの娯楽番組や不幸のニュースなどは一種の疑似カタルシスとなっています。だからこそ、そういう番組や情報の存在を否定するつもりはありません。

けれども私自身、それで心から楽しんでいるのだろうか、と問いかけてみても答えは否でした。

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