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2010年12月

2010年12月29日 (水)

死からみた生?(2)

私たちは、健康健康と、健康志向が強すぎて、病気にならないことばかり、または、危険なこと、あぶないことはやらない、避けようとしている。病気にさえならなくて、長生きできればいいのだろうか?

多少危険をともなっても、毎日が生き生きできれば、そっちのほうがいいに決まっている。

そのためには、死生観をひっくり返さないといけない。

いわゆる、悟った人たちは、この死生観をひっくり返した。

人間、死んだら終わりじゃなくて、肉体を離れたところに永遠の生命が宿っていると言った。では永遠の生命とは?

誰もがみじめな生き方をしたくない、しかし、この死んでる自分、言い換えれば肉体を離れた自分をもっと自覚できるようになれば、人生はより豊かに生きていけるのではないだろうか。私たちは、日々あくせくと毎日決まった時間に働いて、決まった日に休養して、みんな同じように家庭を持って豊かな生活物資がある環境でいきることだけが最上の楽しみなのだろうか? それだけこじんまりまとまった生き方をして、どうしてワクワク、毎日が生き生きとしていけるというのだろうか?

自分や家族の健康を守り、生活を支えることだけが生きがいなのであろうか?

いま一度、死んでる自分に意識をむけてみたらどうだろう?

あなたは今、この一瞬、ひとときを楽しめてますか?

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2010年12月25日 (土)

死からみた生?(1)

人間というものはいつ死ぬかわからない。ましてや自分の明日などどうなっているかさえ、予測がつかない。周囲が死んでいっても、それなのに自分だけは明日も生きていると思い込まずにはいられないのが人の常であろうか?

いまある人生を死んでいる自分から見たらどうだろうか?

そもそも、死んでいる状態の自分とは何なのであろうか?

しかし、しかしと言わずにはおられない。

死んでいる自分からこの生きている自分の人生を捉えたら、もっと気楽に生きていけそうだと思ってしまうのは、私だけなのだろうか?

人間、死んだらそれで終わりだと思っている人も、昨今少なくなってきているようにも思うが、まだまだそう言っているひとは多いと思われる。

しかし、何度も自分の人生をクリエイトできると考えれば、それが死んでる自分からみるとこの人生がそうなるとしたら、今の自分の人生は、もっと気楽にそして、チャレンジ精神旺盛にならないだろうか?

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2010年12月19日 (日)

言葉へのとらわれ(2)

思うに言葉は、単なるコミュニケーションの手段でしかない。

相手の言った言葉の意味を理解しようとすることはとても困難なことのように思われてしまうことがある。それはそれを聞く人の数だけの解釈が可能だからだ。そうした意味では、人は言葉にコミュニケーションとしての役割以上のものを期待しようとしたら、いつも裏切られてしまうだろう。

自分が信じる領域の真理について、イメージするものを語ろうとするとき、言葉の限界を感じずにはいられない。ある真理についての洞察は、言葉では決して埋ることがない。だからこそ、真理に目覚めた人、覚者の言葉を借りなければならなくなってしまう。しかし、覚者の言葉には、私の解釈以上に置く深いものがあり、それは私自身の未体験ゆえの理解不足もある。

目覚めた人は、相手の心の中で語る、一方私たちは、いつも自分の立場から語ってしまう。この違いが言葉による限界を作ってしまうように思うのです。

真理はシンプルだと言われる。

しかし、それを語るには非常に無数の言葉で表現しても足りるとは言えない。なぜならそこには私たちという個人というフィルターが常に存在しているからだ。

覚めた人のように、立場を超えて、言葉が単にあるべき真理の方向を指すだけのものだったなら、それこそが人のこころに響いてくるのではないだろうか?

だからといって、ひとのこころも、個人としてのフィルターを通さず、黙っているだけでは、人知を超えたものを伝える事は殆ど不可能になってしまう。

真理を表わす言葉とは、おそらく、その一言が、人の「こころ」の静寂な領域に、連れ戻すものでなければならない。

真理はシンプルだといわれる。

ならばそれを指し示す言葉も、そう多くはないはずなのではないだろうか?しかしそのために準備しなければならない無数の言葉が決して意味のないものではなく、それゆえ、やめようと思ったブログもまた書いてしまいます。

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2010年12月15日 (水)

言葉へのとらわれ(1)

私たちひとり一人の考えていることは違って当たり前、だからそれぞれが発する言葉の意味するところは、その個人の思考パターンや背景となる生活環境をくみしなければ正確には言葉で伝え、理解しあうことはないものと言われます。

それはその通りであるが、こと真理への追求については少し違うような気がするのです。

言葉を手段として使うとき、そこに期待するものが大きく分けて二つあると思う。

第一に言葉を、その言葉の意図することを正確に伝える手段であるとともに、自分や相手がそれぞれ思い、考えることを理解し合うことを目的とするもの。

もうひとつは、言葉が、その指し示す方向を表すものである場合があること。

言葉の手段としてもつ、この二つの意味合いは異なっているが、私たちはこの二つを決して区別したりしない。特に日常的なコミニュケーションツールとしてではなく、お互いの共通認識されていないもの、独自の体験領域であるものに対して使う言葉については、多くの誤解が生じてしまうのだろう。

懐疑的な人、理屈好きな人にとってみれば、言葉の手段としての意味合いはとても大きい。

けれども、言葉では表すことのできないものを、そのイメージや概念を表わそうとすることの限界もある。そこに、言葉は単に真に指し示そうとしているものの方向を指さすものであるという理解も必要になってくる。

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2010年12月10日 (金)

至福と愛と徳(3)

自分のことを忘れて、損得抜きで何かに打ち込める状態が、より健康な魂の状態を現していると思える。打ち込む対象が動物だったり、それが人間だったりしたら、そこに本当の愛情がある。人はおのずと打ち込んでいる状態にあり、それが異性の相手である場合は純愛といったりする。そのとき、人は至福を感じる。

相手のことを自分を意識しなくなるくらい夢中になっているときに、あなたは真にしあわせであり、それは至福のときである。そして相手にたいして愛情豊かな人間で居られる。しかし、それはそう長く続かない。

ただ、その時の、一瞬でも感じたその至福感を思い起こせば、そのときこそが、魂の健康状態を示していたことがわかるのである。

人を信じにくい世の中であるが、それはお互いに愛情に飢えた人間で一杯になってしまったからに他ならない。その悪循環から逃れるためには、こころから自分のことを忘れて、好きになれる相手をみつけることである。それは自分の魂に偽らず正直でいろということだ。

誰でも、好き嫌いはある。だからこそ、自分のこころに正直でいることが、相手に対する誠実さを示すものさしになる。本当に好きなものをすきだと言えることが、真に至福でいることの近道でもある

ひとつこころから好きになれる人を見つけたなら、それまで嫌いだと思っていた人に対しても、そのひとの良さを発見する余裕がでてくるものだ。

相思相愛にならないのでは? という不安から、自分の本心を偽ってしまうこともある。けれども、問題は誰を好きになるかではなく、こころから相手を好きになれる自分の心の状態が問われているのだ。相手のことを考えて、相手の立場でものをみることができる自分になれることがポイントなのだ。

そのとき、人は愛情を与えることのできる人に生まれ変われる。そうして初めて、そのひとに徳が生まれる。そうして初めてそのひとは、至福の状態の何たるかを知るに至るのだといいたい。

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2010年12月 3日 (金)

至福と愛と徳(2)

至福とは、あなたがそれにまったく気づいていないときのことだ。というのも、あなたが気づくのは痛みばかりで、決して健康には気づかないからだ。

動物は健康であるとき、身体を意識しない。身体のどこかが病んでいればそこが痛いし、そこに意識をあててしまう。

魂の健康についても同様で、自分という存在を意識しだしたときから、人間の罪が始まったというキリストの原罪とは、それが自我の発生と同時であったという解釈ができる。

「私は在る」という知識は、魂の病だ。

デカルトが「我思う故に我あり」と述べている教科書を思い出す。思えば、西洋文明はすでにこのときから、魂の病にとり付かれていたのかもしれない。

自意識過剰ということもあるように、自分を意識しだしたら、物事はうまくゆかなくなる。

そもそも、自分はなんという存在なのだ。考えている自分が居るのだから、自分がいることの証明にはならない。考えている自分が考えなくなってしまったら、自分ではなくなるということなのか?

要するに、考えている自分がいつもそこに居る限り、人は至福を体験することはできないということなのだろう。常に目的を定めて、日々あくせくとどうやって他人よりしあわせになろうと考え、生きていくそのこと自体がみじめな人間の人生模様なのかもしれない。

太字引用:「シャワリング ウイズアウト クラウズOSHO,市民出版社」

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