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2010年12月 3日 (金)

至福と愛と徳(2)

至福とは、あなたがそれにまったく気づいていないときのことだ。というのも、あなたが気づくのは痛みばかりで、決して健康には気づかないからだ。

動物は健康であるとき、身体を意識しない。身体のどこかが病んでいればそこが痛いし、そこに意識をあててしまう。

魂の健康についても同様で、自分という存在を意識しだしたときから、人間の罪が始まったというキリストの原罪とは、それが自我の発生と同時であったという解釈ができる。

「私は在る」という知識は、魂の病だ。

デカルトが「我思う故に我あり」と述べている教科書を思い出す。思えば、西洋文明はすでにこのときから、魂の病にとり付かれていたのかもしれない。

自意識過剰ということもあるように、自分を意識しだしたら、物事はうまくゆかなくなる。

そもそも、自分はなんという存在なのだ。考えている自分が居るのだから、自分がいることの証明にはならない。考えている自分が考えなくなってしまったら、自分ではなくなるということなのか?

要するに、考えている自分がいつもそこに居る限り、人は至福を体験することはできないということなのだろう。常に目的を定めて、日々あくせくとどうやって他人よりしあわせになろうと考え、生きていくそのこと自体がみじめな人間の人生模様なのかもしれない。

太字引用:「シャワリング ウイズアウト クラウズOSHO,市民出版社」

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