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2010年12月19日 (日)

言葉へのとらわれ(2)

思うに言葉は、単なるコミュニケーションの手段でしかない。

相手の言った言葉の意味を理解しようとすることはとても困難なことのように思われてしまうことがある。それはそれを聞く人の数だけの解釈が可能だからだ。そうした意味では、人は言葉にコミュニケーションとしての役割以上のものを期待しようとしたら、いつも裏切られてしまうだろう。

自分が信じる領域の真理について、イメージするものを語ろうとするとき、言葉の限界を感じずにはいられない。ある真理についての洞察は、言葉では決して埋ることがない。だからこそ、真理に目覚めた人、覚者の言葉を借りなければならなくなってしまう。しかし、覚者の言葉には、私の解釈以上に置く深いものがあり、それは私自身の未体験ゆえの理解不足もある。

目覚めた人は、相手の心の中で語る、一方私たちは、いつも自分の立場から語ってしまう。この違いが言葉による限界を作ってしまうように思うのです。

真理はシンプルだと言われる。

しかし、それを語るには非常に無数の言葉で表現しても足りるとは言えない。なぜならそこには私たちという個人というフィルターが常に存在しているからだ。

覚めた人のように、立場を超えて、言葉が単にあるべき真理の方向を指すだけのものだったなら、それこそが人のこころに響いてくるのではないだろうか?

だからといって、ひとのこころも、個人としてのフィルターを通さず、黙っているだけでは、人知を超えたものを伝える事は殆ど不可能になってしまう。

真理を表わす言葉とは、おそらく、その一言が、人の「こころ」の静寂な領域に、連れ戻すものでなければならない。

真理はシンプルだといわれる。

ならばそれを指し示す言葉も、そう多くはないはずなのではないだろうか?しかしそのために準備しなければならない無数の言葉が決して意味のないものではなく、それゆえ、やめようと思ったブログもまた書いてしまいます。

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