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2010年11月

2010年11月26日 (金)

至福と愛と徳(1)

誰かのために徳を積めば、人はしあわせになれるということはない。

自分がしあわせであることが、徳を積むことの条件である。それ以前では、人はお互いに傷つけあう存在でしかない。みんな、愛情に飢えているのだ。だからこそ、他人のことをかまっていられる余裕も無いのだ。そう思うと、人間がいとおしくもあり、苦々しくも感じるのだ。

愛情に代わるどんな物もあなたを満足させはしない。人は、その自我の形成の過程で、愛情の代わりに、魂のない人形を与えられることで慰めあっている。特に現代においては、お互いに愛情に飢えていながら、本物の愛情を与えられることもない。この悪循環から一体どうやって逃れられるというのだろう。

 あなたは常に、徳のあることを行なえば至福に満ちると言われてきた。私はあなたが至福に満ちていれば徳があると言おう。あなたは、罪を犯せば惨めになるといわれてきた。私は、惨めならあなたは罪深いと言おう。

 惨めさは罪であり、至福には徳がある。

毎日が楽しくなくなってきたら、あなたは罪深い、ということである。私たちは、日々の生活に追われて、楽しいことは少なくて苦しいことの方が多いと言う。それでも、あしたこそは何か良いことがあるのだとがんばっている。けれどもそれは罪深いことなのかもしれない。一体今日という日を楽しまなくて、いつ楽しむのだろう。

太字引用:「シャワリング ウイズアウト クラウズOSHO,市民出版社」

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2010年11月20日 (土)

精神の物質主義(4)

さて、目覚めた心の状態が、築き上げられるものではなく、むしろそれを妨げている混乱を焼き尽くすことで得られるのなら、私たちは常日頃言っている、精神的な成長とは一体なんなのであろう。それは太陽が曇って見えないので、その雲をひとつひとつ取ってゆく作業によって可能であるるだとすれば、私たちは、成長ということではなく、心の混乱状態から抜け出すこと、その曇りを吹き払うことで本当の自分自身を発見できるのではないだろうか‥。

常にあるもの、時間に流されることの無いものこそ、自分の本質であるのだと、和尚も述べていた。

精神的な成長とは、時間の経過による「成長」ではない。それは横軸に時間軸をとると、時間のある地点からの垂直方向による飛翔なのではないか。人は、あるきっかけによって本質的な自己を見出す。それは成長によっては決して見いだせない。それは時間軸上にはないものだから、それは自明のことだろう。そのきっかけさえあれば、人は本質的な自己を見出せる。

悟りとは、時間からの飛翔である。とはいえないだろうか?

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2010年11月13日 (土)

精神の物質主義(3)

精神的な道とは心の混乱を切り払い、目覚めた心の状態をさらけ出すことだ。目覚めた心の状態が、エゴと、エゴにまといつくパラノイア(妄想)で混雑すると、本能的な資質が強調された状態になる。したがって目覚めた心の状態とは築き上げられるものではなく、むしろそれを妨げている混乱を焼き尽くすことに関わってくる。私たちは心の混乱を焼き尽くしてゆく過程で、悟りを見いだす。‥‥中略‥‥

もし悟りというものが創られたものであるなら、エゴがふたたびその存在をあらわにし、心を混乱した状態に引き戻す可能性がつねにある。悟りは永久的なものだ。なぜなら、それは作られたものではなくて、発見されたものだからだ。」

以上チョギャムトゥルンパ著:「タントラへの道」から抜粋

私たちの心の混乱の原因は「わたし」という固定化し継続した自分がいるのだと思うところにある。と著者は云う。

「わたし」が継続するところのエゴとは?

それは過去の記憶だったり、未来への希望だったり、

あるいはこの考え、思考する「わたし」だったりする。

エゴとは時間の産物であり、常に今ここに存在する、「永遠の今」ではない。

「永遠の今」の住人こそが本当の自分であるのかもしれない。

それは私たちが個別にある「自分」という概念からはかけ離れているかもしれない。

私たちは過去の経験や知識を決して無くしたくないと思う、そう思うことが自分を保つことであり、一貫した自分でいられることで安心するのである。しかし、それは単に時間の中で束の間に存在するだけの現象なのかもしれないのである。

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2010年11月 6日 (土)

精神の物質主義(2)

精神的な道への渇望は、世間の苦しみと混乱から出発して、その源を探りたい、そしてそこから抜け出したいと思うことからはじまる。しかし、自分のエゴは、てっとり早く一時的な避難所を作り出して、そこに自分の家を築きたいと思ってしまうのだ。なぜなら、精神修養の道のりは長く遠い道のりに感じられてしまうからだ。それというのも自分のエゴがこの混乱した世界に完全に飲み込まれ、それが存在しうる唯一の世界だと思い込んでしまうところにある。

エゴは混乱すればするほど、そこを隠れ蓑にして継続的な自分を維持しようと努めるからだ。エゴはこのように複雑で混乱した世界の住人でいることを常にのぞんでいる。

しかし、世界の真にリアルな実相は、シンプルなものであると思う。それは雲のない晴れ渡った空であり、果てしなく広がる「空」そのものではないだろうか?それは永遠であり、無時間的な性質のものなのだという気がしている。というのも、私たちが時間を意識するのは何もない空に雲が発生し、前面にさえぎり出したときからだということ。

雲が流れ始めたその瞬間は雲が発生すると同時であり、そこから時間が動き出したのではないだろうか? もちろん、これはひとつの喩えに過ぎないのだが。

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